さて先日は、全聾の作曲家という触れ込みで活動してきた佐村河内氏のゴーストライターを務めてきた人が内情を暴露して話題を攫ったわけです。複数の全国紙やNHKまでもが佐村河内氏をヨイショしてきた手前もあってか、反響は小さくありません。「現代のベートーベン」などと言う安っぽい売り文句で氏の宣伝に協力してきたメディア各社は赤っ恥、苦しい言い訳を繰り返すところも目立ちます。
もっともゴーストライターなんて昔からいたもので、どっちかというと「禁を犯した」のは作曲者である新垣隆氏の方という気もしますね。芸能人やスポーツ選手の名義でゴーストライターが本を書いたときの契約などは、どうなっているのでしょう。ちゃんとした出版社や代理人が間に入っていれば守秘義務なりを明文化しておくものではないかと思いますけれど、その辺りで佐村河内氏は素人だったのかも知れません。レコード会社なり芸能事務所なりのプロデューサーがしっかり管理していれば、こうはならなかったはずです。
で、先日も書きましたけれど「クラシック」と呼ばれるジャンルにおける「現代」の音楽としては、佐村河内名義で発表された類の「わかりやすい曲」は「芸術」としてあまり評価されません。「現代」の「芸術」としての評価を得るためには、現代音楽という枠組みに沿って「わかりにくい曲」を書く必要があるわけです。この辺、音楽に限らず文系の世界では概ね似通ったところがあるように思います。
新垣氏に限らず音大の教授クラスなら片手間のアルバイトでも「わかりやすい曲」は作れます。美大の学生なら誰でも「綺麗な絵」が書けるのと同じようなものです。でも「普通に綺麗な絵」で「現代」の「芸術家」として認められるかと言えば、それは(佐村河内氏のようにメディア受けするエピソードの一つもなければ)極めて難しい、むしろ「よく分からない造形」の方が「芸術」として業界内では持ち上げられるところもあるのではないでしょうか。
文学の世界でも、わかりやすさや娯楽性をマイナスに見る人はいます。まぁ、大学の文学の教授よりも高校の現代文の先生や教育学部の国語の先生の方がそういう傾向は強かったですけれど、単純におもしろい小説に文学的価値を認めたがらない、むしろ難解で読みづらいくらいの作品の方を権威として持ち上げるタイプも少なからずいたものです。不可解でも良いものは良いと言えますが、逆に言えば簡単でも良いものは良いと思うところですかね。
「素人にも理解できるもの」もあれば「素人には理解できないもの」もあって、だからこそ後者を「理解できる」人こそが「玄人」という構図がいつのまにやら産まれます。一見しただけでは退屈で珍奇なだけの曲あるいは絵画もしくは造形でも、「評論家」には格好の題材になる、普通の人には理解できないものを理解し、それを論評するという特殊な技能の持ち主として登場する機会が生まれるのです。そして評論家に好まれる対象もまた然り。評論家の出番を必要としないものよりも、評論家に活動の場を提供してくれるものの方が……
芸術の世界に限らず、例えば経済なんかでも決して大きな違いはないように思います。現内閣は例外的にと言いますか、オーソドックスな「わかりやすい」経済政策で久々の成功を収めつつあるわけですが、それ以前の内閣及び今に至る経済言論の主流としては「素人目にはおかしな」方法論が幅を利かせてきたわけです。評論家にしか理解できない芸術ならぬ、評論家にしか理解できない経済政策があって、これを知ったかぶりして「分かったフリ」に努める受け売りブロガー等々、そうして支えられてきた世界観もあるのではないでしょうか。
デフレなんだから金融緩和、不況なのだから財政出動、実体経済から著しく為替レートが乖離しているのだから中央銀行と協力して是正に動く等々、まぁ安倍内閣がやってきたことは端的に言えば「普通」でしかありません。これを「アベノミクス」などと呼んで何か「特別なこと」であるかのように語る人はバカです。バカですが――当の安倍総理までもが乗せられて自ら「アベノミクス」などと語り出しているのだから始末が悪いところもあって、かつ調子に乗って余計なことに手を出しつつあるのが困ったものです。
それはさておき、21世紀日本の経済言論の主流派は総じて通常医療を否定する代替医療よろしく、「普通」の否定が柱であったと言えます。今の安倍内閣が舵を切ったようなオーソドックスな経済政策ではダメなのだと力説して、「素人には理解できない」珍奇な改革論を振りかざしてきたわけです。その結果は思い出すまでもなく、代替医療に騙されて健康を損ねた患者のごとき状態に日本経済は陥ってしまいました。「わかりやすい」経済政策よりも、評論家好みの「素人には理解できないものを俺は分かっている」的な世界観に添った政策が幅を利かせた結果が今に至る日本です。
「評論家」の質が問われなければならないだろうと思うところです。今回の佐村河内氏に対してそうであったように、世間の売り込みに迎合してヨイショするのも最低なら、逆に経済筋のようにトンデモを「素人には理解できないけど専門家的にはコレが正しい」と騙してくる類も最悪です。音楽なり文学なり経済なり、それぞれの分野を全て個人で精通して審美眼を養うのは難しいところですが、それは無理でも「評論家」の質を見極める目は持っておくべきなのでしょう。影響力のあるメディアや論者が○○を褒める、あるいは○○にダメ出しをしていたとしても、そもそも論評している側が正しいのか、安易に「乗せられない」だけの見識は必要ですし、それにもまして権威を受け売りしないだけの良識もまた求められます。
小説でも、分かりやすさや娯楽性は、決して外せない要素だと思います。
> 「評論家」の質が問われなければならないだろうと思うところです。
山崎武也氏が自著『上品な人、下品な人』第3章「こんなに困った「品のない客」」の中で、
傲慢な、自分の考えや作品を押し付けようとする専門家を「専制君主」と呼び、
出会ったのが不幸と考えて、二度と会わないように勧めていたことを思い出しました。
評論家や論者等の、権威ある人物の言葉が信頼できるかどうかは、
その人物の書くものに、読み手への敬意・配慮が表れているかどうかも、判断の目安になるかもしれませんね。
主人公(女子高生)の親友の父親がここで管理人さんが言うところの「よく分からない造形」の絵を得意とする画家なのだが、主人公の父親(妻を溺愛するも妻からはあまり相手にされていない)の依頼の仕事「彼の妻の肖像画」はではしっかり「綺麗な絵」を描いていた
というのがありました。
いわゆる平均的な画家や音楽家にとっては「綺麗な絵」や「わかりやすい曲」は愛着の湧かない産物なのでしょうか。
特に酷いのが経済関係で、常識的な疑問を己の権威で遮って、無理を通そうとする類が目立つ世界だと思っていますが、まぁそう言う輩でもファンはいるのが何とも言えませんね。敬意や配慮も問われるところですけれど、扇動するのに長けた人も多いわけで……
>ノエルザブレイヴさん
少なくとも業界内では、「芸術」としては評価されにくいですからね。普通に綺麗な絵、わかりやすい曲は現代の専門家には簡単に作れてしまうこともあって、「芸術家」にとっては愛着の湧きにくい部分なのだと思います。
これについて「女子高生が吹きました!」ということにひかれて買った人がどの程度いるか、ということがこの件の後だけにどうにも気になってしまうところです。
評論家の肩書きやそれっぽい雰囲気を持っている人をやたらとヨイショしたがるというのも一種の権威主義ではないでしょうか?
そんな権威主義に迎合する空気もあって、「権威」が賞賛するものを一緒に「分かったフリ」をすることで、自分もまた権威であるかのように振る舞う知ったかぶりの論者とかもまた多くて、まぁ辟易するところです。