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非国民通信

ノーモア・コイズミ

北朝鮮から逃れてきた人を保護しようとか思わないんだろうか

2011-02-11 23:12:40 | ニュース

 俯瞰的な視点を持てないでいると、南から飛んでくる渡り鳥と北へと飛んでゆく渡り鳥が、それぞれ正反対の行動を取っているように見えるそうです。南方から日本へ飛んでくるのも、日本から北方へと飛び立つのも、よくよく見れば北へ向かって移動しているに過ぎないのですが、ともすると「南から飛んでくる」のと「北へと飛んでゆく」のが逆の行動に思えてしまうこともあるとか。昨今では逆進性を強める税制改革を唱える政治家が支持を失う一方、累進制を弱める税制改革を唱える政治家が圧倒的大差で選挙に勝ったりもしたわけですが、果たして日本の有権者の目には何が映っているのでしょうね?

 

「大村氏は脱北者」=民主・石井氏(時事通信)

 民主党の石井一選対委員長は6日夜、党本部で記者団に、愛知県知事選で当選した大村秀章前衆院議員について「自民党の脱北者だ」と述べた。大村氏が自民党に離党届を提出して除名されたことを北朝鮮から逃れた人に例えたものだが、「不適切」との批判も招きそうだ。

 とかく考えの足りないところの目立つ枝野なんかにも問題発言は多いように思われますが、枝野の場合は悪い意味で民意に添った発言になっているせいか問題視されることが少ないのに対し、この石井一は露骨に「ずれた」感じの発言が多く、いかにも典型的な失言政治家といった風情です。過去には公明党を指して「ばい菌みたいなものだ」などと言い放ったり(地方議会では連立のパートナーだろうが!)、あるいは「1票くらい、聖徳太子1枚くらい出せば十分取れる」とか「鳥取県とか島根県と言ったら、日本のチベットみたいなもの~」なんてのもありました(参考)。こういう人を重用している党の良識を疑いたくなるところです。

 さて今回は、愛知県知事に当選した大村秀章を「脱北者」に擬えたことが伝えられています。民主党は一応、対立候補を立てていただけに大村秀章を賞賛しているとは考えにくいですから、つまるところ否定的なニュアンスを込めて「脱北者」と呼んだものと推測されます。石井一、ひいては彼が幹部を務めるというにとって脱北者とは、そういうイメージなのでしょう。

 北朝鮮政府に対して否定的であるならば、その北朝鮮政府の支配から逃れようとしてきた人々をどう取り扱うのが筋の通った対応と言えるのか、その辺は一考の余地がありそうです。敵の敵は味方みたいな色分けには問題があるにせよ、北朝鮮政府に対して否定的であり、それと同時に北朝鮮政府から離れようとする脱北者に対しても否定的であるとしたら、いったい日本政府はどの立場に立っているのでしょうか。自らの政敵でもある人物を「脱北者」と呼ぶ石井一の感覚には、そんな日本政府の在り方を窺わせるものがあります。北朝鮮政府相手を話し合う余地もない悪役として扱う一方、人々がそこから解放されることを望んでいるわけでもない、そういう考え方だからこそ否定的な意味合いで「脱北者」という言葉が出てくるように思われます。

 

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家族が大事に決まってるだろ

2011-02-09 23:17:58 | ニュース

企業との面接日に急用! その時どうする!?(R25)

急な予定が入り、明日の面接をキャンセルしなくてはならなくなりました。採用担当者の気分を害することなく、面接日の日程変更をお願いしたいのですが、どのように交渉すればいいでしょうか。(28歳・営業)

急用の程度にもよるが、たとえば親族や配偶者が倒れたなど…どうにかしてすぐに向かわなければならないという状況は、必ずしもないとも言い切れない。しかし、面接日を変更することは可能なものなのだろうか…。

リクルートエージェントによれば、なるべく面接を優先させた方がよいとのこと。意識しなくてはいけないのは、まず、面接官は転職希望者と会うために、予定を調整して時間を空けて待っている。また通常、企業は採用選考のスケジュールを立て、それに沿って候補者との面接を設定しているということ。日程を変更することは、面接官に迷惑がかかるだけでなく、選考そのものに支障きたす恐れもあるので、できる限り自分の予定を調整し、面接を最優先にするようにしたほうがよいとのことだ。

 急用の程度にもよるのでしょうけれど、引用元でも挙げられているような「親族や配偶者が倒れた」ケースだったらどうなのか、リクルートエージェントによると「なるべく面接を優先させた方がよい」そうです。今をときめく就職ビジネスのトップランナーである同社が断言するからには、それが日本における「社会人の常識」なのでしょう。家族に何があっても仕事に穴は開けない、その姿勢があってこそ一人前の社会人と言ったところなのかも知れませんね。

 阪神ファンの私はランディ・バースのことを思い出します。退団に至るまでには諸々のゴタゴタがありましたが、引き金となったのはバースの子どもの病気でした。水頭症を患った長男の治療のためにアメリカに帰国したバースと阪神球団の溝は見る間に広がっていったわけです。家庭の事情で職場である球団を離れたバースに対しては少なからず否定的な視線が注がれたと伝えられています。バースにとっては家族を優先するのが当たり前であったかも知れませんが、家族が大変なときでも仕事を続けてこそ真のプロフェッショナルと美談化される日本では、彼の行動は理解を得にくいものだったのでしょう。

 何はともあれ、家族が倒れても面接を優先させた方が良いとされています。家族を優先することを許さない、面接を優先させないと就業機会を与えないような会社など願い下げと言いたいところですが、昨今それでは永遠に就職できないのでしょう。家族のために面接をキャンセルしようものなら仕事への意欲を疑問視される、そういう世界なのです。そしてこれは、面接時に限ったことではないはずです。面接時がそうであるように、入社後もまた家族と仕事のどちらかを優先するかを迫られたときは、会社を優先させるべきという社会的合意ができあがっているのが日本社会と言えます。生きるために働くのではなく、働くために生きる、それがジャパニーズビジネスマンというものです。

 やれグローバル化だの厳しい国際競争だのと喧しい中で、日本企業は従順で割安な労働力を武器に圧倒的な国際競争力を発揮して莫大な貿易黒字を積み重ねてきました(参考)。何かにつれ危機が煽られる割には、悲惨なのは国内市場だけで国際競争面では輝かしい勝利が続いているわけです。それでもグローバル化を口実とした賃下げ圧力は強められるばかり、それゆえグローバル化を「犯人」に見立てて、これ見よがしに批判してみせる言論には事欠きません。しかし日本は本当にグローバル化に巻き込まれているのか、その辺ははなはだ疑わしく感じられます。

 浮沈を繰り返しながらも経済成長を続けてきたのがグローバル化する世界経済であり、その一方で輸出相手国の経済発展の「おこぼれ」に与るばかりで自発的な経済発展からは完全に背を向けているのが世界経済の例外である日本です。過渡的な格差を生みつつも全体としてみれば国民の所得も上昇するグローバル化の時代にあって、異例の賃金下落が継続しているのもまた日本です。そして他に類を見ない異常なデフレ国家でもある日本こそ、グローバル化時代に取り残されたガラパゴスと見るべきであるように思われます。グローバル化の結果ではなく、グローバル化を脅しに使ってガラパゴス化を進めた結果として日本で働く人々の苦境はあるのではないでしょうか。

 家族を大事にすることを許さない、会社を優先させることが当たり前だと思われている、こんな企業文化は滅ぼされた方が良いような気がします。ならばグローバル化で日本企業が多国籍企業に打ち負かされ、取って代わられるならそれは日本人にとっては本当は歓迎すべきことなのかも知れません。果たして日本の企業と外国から進出してきた企業、どちらが働く人を大事にしてくれるでしょうか? 郷に入りては何とやら、本国では従業員を大切にしている企業も労働者保護の弱い日本に来ては横暴に振る舞うかも知れませんが、それでも日本の企業に比べれば希望が持てそうなものです(少なくとも今より悪くはならないでしょう!)。大日本帝国がアメリカに打ち負かされてようやく日本が民主化されたように、昨今の日本経済もまたどこか他の国に打ち負かされなければ変わることができないとしたら、我々が待望すべきは日本よりも労働者の扱いがマシな国の企業によって日本企業が滅ぼされることに思えてきます。

 

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相撲はわりと好きなのですが

2011-02-07 23:48:43 | ニュース

大相撲春場所、開催中止決定…相撲協会(読売新聞)

 大相撲の八百長問題に揺れる日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大阪府立体育会館(大阪市浪速区)で3月13日に初日を迎える予定だった春場所の開催中止を決めた。

 八百長疑惑には十両力士ら14人の名前が挙がり、親方、力士の計3人が関与を認めている。

 本場所の中止は、国技館改修工事の遅延で夏場所を開催できなかった1946年以来、65年ぶり。不祥事による中止は初めて。

 野球賭博問題が起きた昨年の名古屋場所では、場所前に関与した力士らを処分して開催にこぎ着けた。しかし、今回は、解明に当たっている特別調査委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)の調査には時間がかかることから、場所開催を中止して実態解明による信頼回復を優先させた。調査委は今後、14人の力士らから提出された銀行などの預金通帳や、提出を求めている携帯電話の通話の解析などを行って詳細な調査を進める。

 相撲協会の放駒理事長はこの問題の発覚後、「ファンの皆さまに理解してもらえない状態で(場所を開催して)いいのか、考えなければいけない」と春場所開催に慎重な姿勢を見せていた。

 この辺の相撲協会の対応を見ますと、角界的には「拳銃所持<傷害致死<大麻所持<八百長」みたいですね。記録の残っている1985年以降、16人が相撲部屋で死亡しているとのことですが、それでも中止になることはなかった大相撲本場所が八百長の発覚によって65年ぶりの中止になったことが伝えられています。なんでも「ファンの皆さまに理解してもらえない状態で(場所を開催して)いいのか、考えなければいけない」とのこと。横綱の拳銃所持やリンチ殺人に関しては理解を得られたけれど、八百長に関しては理解を得られないと判断したのでしょう。

 さて大相撲の八百長に関しては週刊誌の定番ネタといった感じで、ある意味で日米密約と並ぶ「公然の秘密」であったように思います。それでも「八百長はない」と言い切ってきたのがこれまでの通例で、その辺も含めて伝統の一部のような気すらしていたものですが、どういうワケか今回に限り八百長の存在が公に認められることとなってしまったようです。暴こうと思えばいつだって暴けたことのはず、それが今になって露わにされたのは、いったいどういう風の吹き回しなのでしょうか。小沢信者風に言えば、これも検察とかその類の陰謀に?

 記憶に新しいところでは、大麻所持で解雇された若ノ鵬が八百長を証言したなんてこともありました(参考)。この辺の証言も結局は有耶無耶にされてしまったわけですが、証拠よりも自白を優先するのが日本の取り調べ機関というもの、自白があった段階でメスが入れられていたとしてもおかしくなかった気もします(まぁ、自主的な証言は好まれないのかも知れませんね)。それでも敢えて見て見ぬフリをし続けてきたのに敢えて八百長を暴き立てる決断を下したのは、もはや隠しきれないところもあったのでしょうか。かくなる上は過去に八百長を証言しては相撲協会から否定されてきた元・関取の名誉回復も考えて欲しいところです。

 これを機に改革云々と方針の違いを巡って相撲協会が分裂、新たに全日本相撲協会と新日本相撲協会が発足!みたいなことになったら面白そうだとか思ったり思わなかったりするのですが、まぁ結果はどうなることでしょう。八百長に関与したとして名前の挙がった力士だけを処分して終わる可能性が最も高そうですが、もうちょっと角界の独自性を取り払ってオープンなものにしないと、将来的には厳しいような気がします。

 八百長の動機としては十両以上と十両以下の「格差」を挙げる記事が散見されます。十両以上か以下かで待遇は雲泥の差、だから十両から下にはどうしても落ちたくないという意識が八百長や星の貸し借りにも及ぶと解説している人もいるようです。しかし、格差によって競争意識を煽る、待遇に格差があるからこそ十両以上に上がろうとするモチベーションが高まるのだみたいな価値観もまた日本的と言えます(この辺は、アメリカのメジャーリーグとマイナーリーグの格差に関しても同様、日本では極めて肯定的に捉えられているところです)。日本人の大好きなハングリー精神を掻き立てるべき格差を解消することは、とうてい協会側の好むところではないでしょう。

 個人的には、相撲以外の進路を広げるべきだと思いますね。今まで相撲は「職業」ではなく「人生」みたいな扱いで、土俵の外でも相撲取りらしい服装をしなければならなかったり等々、行動に諸々の制限が課されてきたわけです。そうでなくとも中卒で角界入りした場合など、「外」の世界から切り離された世界でしか生きられなくなってしまうケースも多い気がします。閉ざされた角界であることを改め、ある程度オープンにスポーツ化しないと、独自の常識に支配された魔窟であることからは抜け出せないように思えます。もっともオープンな格闘技の世界も国内団体は軒並み冬の時代ですし、しばしば政治家を輩出するなど意外と社会へ開かれているプロレスのような興業の世界も昔年の勢いはありません。大相撲も緩やかな衰退からは逃れられないでしょうか。競技自体は嫌いではないだけに、相撲取りの頭数を減らすような自体にはなって欲しくないところですが。

 

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民主党支持層の選択

2011-02-03 23:37:22 | ニュース

名古屋市長選、河村氏リード 朝日新聞情勢調査(朝日新聞)

 2月6日投開票の愛知県知事選と名古屋市長選について、朝日新聞社は29、30の両日、県内と市内の別の有権者に電話調査をし、取材と合わせて情勢を探った。知事選では大村秀章氏、市長選では河村たかし氏が他候補を引き離している。ともに減税などを掲げ連携をとる選挙戦術が一定の支持を得ているようだ。

(中略)

 名古屋市長選では、任期途中で市長を辞職した河村氏が、減税日本公認で立候補した。河村氏は民主支持層の9割から支持を集め、自民支持層の6割に浸透。無党派層の8割から支持を集める。幅広い年齢層で大きくリードしている。

 民主、社民、国民新3党と自民党県連が推薦する石田芳弘氏は民主支持層で1割、自民支持層で3割の支持にとどまり、支持拡大に懸命。共産党推薦の八田ひろ子氏、杉山均氏は厳しい戦いだ。

 いつも選挙関係は結果が出てから俎上に載せることが多いですので、今日は前もって取り上げてみます。ただ今回の選挙、既に結果が見えている気がしてならないのが悲しいところです。たかし君の圧勝を許してしまうようでは、それこそ日本の有権者のお里が知れると思われるのですが……

 まず愛知県知事選では河村たかしが推す大村秀章が、そして名古屋市長選では河村たかし本人が他候補を引き離していることが伝えられています。それだけ、河村たかしのやり方が有権者の支持を得ているのでしょう。ただ、その内訳には気になるところもあります。まず今までのイメージで考えますと、既存の政治に倦んだ無党派層の有権者が、政治家らしい政治家を嫌って、最も反動的な候補に票を投じてきた経緯があるわけです。無党派層を動かす「風」とでも呼ぶべきものが、これまでの選挙結果を大きく左右してきたと言えます。

 しかるに、河村支持層の内訳を見るとどうでしょうか。「民主支持層の9割から支持を集め、自民支持層の6割に浸透。無党派層の8割から支持を集める」ことが伝えられています。もちろん河村たかしは民主党の出身ではありますが、今回の市長選では河村たかしとは別個に民主党が推薦する候補を立てているわけです。民主党が推薦する候補が立っているにも関わらず、民主党支持層の9割は党の推す候補ではなく、河村たかしを支持している、これをどう見るべきでしょう?

 無党派層の河村支持も8割と十二分に高い数値ではありますけれど、それでも9割が河村たかしを支持する民主支持層よりはマシなようです。従来、ポピュリストにとって最も厚い支持層は特定党派への支持を厭う無党派層であったはずですが、今回の選挙は様相が違うのかも知れません。既存の政治を嫌う、それ故に既存の政党をも嫌い、必然的に無党派という意識を持つ、そういった人々がポピュリストを支持してきたイメージがあります。しかし、既存の政党であり既に新鮮味も薄れて久しい民主党を支持する人々が、その一方で河村というポピュリストにして歴史修正主義者を無党派層以上に熱心に応援しているわけです。無党派層ではなく、既成政党の支持層までもがポピュリズムに取り込まれるようになったとすれば、それはポピュリズムの新たな展開が始まりつつある、いよいよ以て危険な領域に突入したと言えそうです。

 

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「率」だけを見ればそうかも知れないんだけど……

2011-02-01 23:31:01 | ニュース

女子学生の就活は本当に悲惨?それとも楽勝?
優秀でも門前払いを食らう「女性差別」は今も健在か(DIAMOND online)

 私は就職内定状況調査よりも文部科学省が単独で実施している学校基本調査を信用しています。同調査は全大学を対象としており、就職率は卒業生ベースで算出しています。

 この調査によると、2010年3月卒業者の就職率は60.8%、男女別では男子56.4%、女子66.6%。あれ?こちらは10ポイントも差がついています。

 前年の2009年は、全体68.4%、男子64.6%に対して女子は73.4%とこちらも上。

 就職率の推移をみていくと、2000年以降、11年連続で男子学生就職率を上回っています。

 これは就職率データだけでなく、採用担当者の実感ともほぼ合致しています。

 「黙って評価ポイントだけ積み重ねていくと、女子学生が上位を独占して男子学生は入ってこない」

(中略)

 優秀な女性社員が増え、転職市場が活発になり、男性社員の勤続年数も短くなれば、女性採用を排除する理由はどこにもありません。まして、採用時点では女性の方が上と言えます。

 これは多くの採用担当者が証言していますし、私も取材していますと、女子学生の方が、上だなと思えてしまいます。優秀という方もいますし、優秀でなくても男子学生に比べて元気が良く、もし採用担当をして一緒に働きたいと思わせるに十分な方が多いのです。

 ところが、企業からすれば、女性社員ばかりを増やすわけにはいきません。そのため、男女比のバランスを取るため、評価ポイントの低かった男子学生に点数調整をかけ、評価ポイントの高かった女子学生を落とす、いわゆる逆差別も水面下では相当あると言っていいでしょう。そこまでやっても、男子学生の就職率は女子に負け続け、2010年は史上初めて10ポイントもの差が付きました。もうちょい、がんばれ、男子学生。

 2000年以降、11年連続で女子学生の方が就職率が高いのだそうです。いかに嘘八百の週刊ダイヤモンドとはいえ、このデータ自体は文科省が出しているものですから、たぶん正しいのでしょう。ではどうして女子学生の方が就職率が高いのか、しかも2010年卒業にいたっては10%に到達するなど差が開くばかりなのは何故なのか、その辺を考えてみたいと思います。引用元では「採用時点は女子の方が上」と一括りに断言したあげく「がんばれ、男子学生」などと結んでいるのですが、これでは就職難を個人の責任に帰そうとする筆者の意思を露わにしているだけです。まぁ経済誌ならそれで済まされるのでしょうけれど……

 考えられる要因は色々とあります。今や自分1人の稼ぎで家族を養えるような甲斐性のある男を捕まえることが著しく困難な時代となっただけに、女性が就業へと駆り立てられるようになったこともあるでしょう(20代の女性は上の世代よりも専業主婦志向が強いという調査結果もありますが、それは就職「せざるをえない」現状への反動でもあるはずです)。男性側でも「女は家庭」という考え方は薄れ、「女も働け」という方向にシフトしつつあります。就業機会の問題もさることながら「就業圧力」とでも呼ぶべきものの強まりもまた、少なからず影響しているように思われます。

 ただ明らかになっているのは就職の「率」であって「質」ではないことにも注目すべきです。本当に望む先へと就職できたのか、20年後、30年後も安心して働ける職場に就職できたのか、そこを問わずにただ就職「率」だけを並べることで見落としてしまうものも少なくないのではないでしょうか。昨今では数値上の就職率を引き上げるべく、本人の希望など無視して中小ブラック企業へと学生を押し込めようとする動きが随所に目立ちます。これがもし「率」は低いはずの男性は出世コース、「率」が高く見える女性は使い捨て雇用に偏っているとしたら、「がんばれ、男子学生」などとおちゃらけている場合ではないはずです。

 雇用の二極化が進んだことが、女性の就職率を引き上げている可能性は考えられないでしょうか。昔から総合職と一般職のように、出世コースと十年後までには寿退社していることが既定路線のコースなど、同じ就職であるにしても未来は分かれていたわけです。そして昨今では、正規採用が抑制される一方で非正規雇用ばかりが増大したり、中核業務に携わる人間が絞り込まれる一方で、周縁的な業務にしか触れさせてもらえず、「仕事に必要なスキル」とやらを身につける機会を得られない立場に置かれる人も急増しています。定年まで勤めることを想定した採用が抑制される一方、使い捨てにすることが前提の採用機会ばかりが増えた、その辺りが男女の就職率にどう影響しているか等々、色々と考える余地はありそうです。

 総合職の門戸は、狭いながらも女性にも開放されてきました。その一方、一般職は今なお男子禁制の領域であったりします(参考)。引用元記事が伝えるところとは裏腹に、今なお管理職は男性、女性は末端の業務という考えは根強いのかも知れません。そして管理職候補としての採用が減って、末端の仕事を担う人ばかりを増やそうとすると――結果的に女性の就業機会が増えるわけです。派遣でもそう、日雇い系や肉体労働系はいざ知らず、事務系の派遣ともなりますと完全に女性優先の世界です。ホワイトカラーの領域では派遣が増えれば増えただけ、男性よりも女性に就業機会が増えます。将来的な昇給や昇進の機会に乏しいポジションほど女性が優先的に配置される傾向が強く、そして昇給や昇進とは無縁の雇用が増えている、その結果として女性の採用が増えた、女子学生の就職率が男子学生の就職率を上回るようになったものとは考えられないでしょうか? 不安定雇用ばかりを増やして「雇用を増やした」と小泉一派は踏ん反り返ったものですが、昨今の女子学生の就職率の優位はどう見るべきでしょうね。

 

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遺伝子はいつから神になったのか

2011-01-30 23:46:44 | ニュース

田辺誠一、世間の常識に流されない グレーな部分あっていい(産経新聞)

 作品のテーマは、代理出産。簡単に是非を決められない問題と感じる。「産みたい人がいて、技術があるなら、選択肢のひとつ。でも、金銭が絡む恐れがあれば、規制せざるを得ないでしょうしね」

 自分の遺伝子を残すこだわりや重圧は理解できるが自身にはないという。「僕は自分のDNAって、そんなに大したものではないと思っているので」と笑う。育てたい気持ちや環境、愛情に重きを置く。「だから、養子も選択肢のひとつだと思う。家族の形がもう少し自由であってもいいと思っているんですよ」

 この十数年来の経済政策が継続されれば、いつか代理出産というビジネスで生活を立てざるを得ない人が日本にも少なからず出てくるような気がしてならない昨今です。その代理出産をテーマにした映画に出演した田辺誠一氏のインタビューが掲載されているわけですが、引用した部分の後段は「今時珍しい」意見かも知れませんね。体外受精や代理出産が急増する一方、養子縁組というのは極めてレアなケースともなりました。見出しにあるような「世間の常識」からすれば、体外受精や代理出産を選ぶ人の方が圧倒的に多いわけで、今や養子縁組など最初から検討の対象にすらならないもののようですから。

 ちょっと昔には高田延彦と向井亜紀夫妻の代理出産が耳目を集めたことがありました。向井亜紀は「高田延彦のDNAを残したい」などと口にしていましたし、似たような発言は他でも散見されるように思います。いったいいつからDNAは、そこまで神聖なものになってしまったのでしょうか。個人の趣味としては許される範囲ではありますが、あまりにも「DNA」が絶対視されるようであれば、そこに気持ち悪さを感じないでもありません。どうしてもDNAの繋がりがなければならないのか、そこは疑問視されても良さそうなものです。

 全く品種改良されていない野生の植物にも毒性や発がん性のあるものは無尽蔵にありますし、伝統的な農耕手段によって生態系が破壊されたケースもまた枚挙に暇がありません。その一方で、何かにつれ非難に晒されがちなのは遺伝子組み換えやクローン技術といったDNAに触れる手法です。もちろん何らかのリスクを含むものが批判的検証の対象とされるのは当然のことなのですが、DNAに触れる類の新技術に関しては、そのリスクとは別の動機で不当な非難を受けていることも多いように思います。

 つまり、伝統的な手法であろうとDNAに関わる手法であろうと、危険なものはその危険性に応じて慎重に取り扱おうとするのではなく、DNAに触れるか否かによって線引きされる傾向があるわけです。あたかも個人の資質によってではなく国籍の違いによって扱いが隔てられるように、その安全性の度合いではなく、まずDNAに触れるかどうかによって扱いが代わる、DNAに触れるものであれば、それだけで全否定されてしまう傾向は少なからずあるはずです。

 必然的に遺伝子組み換えもしくはクローン技術であることを理由とした否定は、科学的根拠を欠いたものとなりがちです。概ねそれは信仰心の如きものから発していて、「とにかく遺伝子組み換え/クローン技術はいけないんだ」みたいな信念が最初にあるように思われます。そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。

 少子化が進む一方で、産んだ子供を育てるのに著しい困難を抱えている親の存在もクローズアップされることの多い時代です。昔とはひと味違った形で、新たに養子縁組制度が発展すれば問題のいくつかは緩和されそうな気もしますが、「世間の常識」が望むのはDNAの継承なのかも知れません。科学技術の発展に負の側面があるとするなら、その筆頭にはDNAが繋がっていてこそ親子という感覚の蔓延を上げたいところです。もうちょっと、DNAに対する強迫観念から解き放たれても良いのではないか、引用した田辺氏が言うように「家族の形がもう少し自由であってもいい」のではないかと思います。その辺を掲載メディアがどう思っているかは知りませんが。

 

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もはや上辺を取り繕おうとすらしないのか

2011-01-26 23:24:52 | ニュース

日本郵便、年功改め成果主義へ 年500億円削減見込む(朝日新聞)

 日本郵政グループの郵便事業会社(JP日本郵便)は17日、国営時代の名残である年功序列の給与体系を民間企業なみの成果主義に改める意向を労働組合に伝えた。早ければ新年度から導入する。昨夏の宅配便統合と遅配問題などに伴う業績悪化を受け、人件費の見直しを検討していた。導入で年間500億円程度のコスト削減効果を見込む。

 2007年10月に民営化した日本郵便は、非正規を含め約18万人の社員を抱えるが、給与体系は現在も旧郵政省時代の年功序列型がベースになっている。これを改め、基本給に加え、配達の個数などに応じた歩合制を上乗せする。成果を上げた人は従来より給与が高まる体系を導入する。

 日本郵便は、年間約1兆円の人件費を5%程度抑制できるとみている。今月28日までに総務省に提出する経営改善策にも盛り込む方向だ。

 まぁ年功否定、成果主義導入は今さらながらの感もありますが、将来的な昇給の期待が無くなると将来の収入をアテにした消費もなくなり内需も冷え込むことは、ここ十数年来の日本が証明しているところです。個別の企業が「自分だけでも生き延びる」ために賃下げに励むことは、その企業自身にとっては有益なのでしょうけれど、国の経済全体から見ると著しく有害と言えます。そうした「自分だけでも生き残ろう」とする企業の動きを適度に抑制し、国全体の経済が上向くように取り計らうのも政治の重要な役目のはずですが――その政治の役割を放棄して企業がお金を貯め込めるように便宜を図ってきたのが、やはりこの十数年来の日本だったりするわけです。

 さて、成果主義導入が流行り始めた当初は「成果を上げた人は従来より給与が高まる」と称して、あたかもニンジン作戦のごとく従業員のモチベーションを高めるという旗印が振りかざされるのが一般的であったように思います。もちろん本当の狙いが成果主義を口実にした賃金削減にあったことは流行当初から全く代わっていないわけですけれど、それでも表面を取り繕うことには一定の努力がなされていたように記憶しています。しかるに今回の記事はいかがでしょうか?

 一応は「成果を上げた人は従来より給与が高まる」と、決まり文句も書き添えられてはいるわけです。しかし、見出しには「年500億円削減見込む」と大々的に掲げられていますし、本文中でも同様の削減見込みが伝えられています。そして「年間約1兆円の人件費を5%程度抑制できるとみている」とも。これはつまり、従業員が成果を「上げない」ことを前提にしていることを意味しています。そもそも成果とは何なのか、日本的経営(経済誌上のではなく、現実の日本的経営)の元では企業業績が上向いても従業員給与は決して増えないものです。会社の業績が上がっても従業員の成果とは認められない、これもまた日本的成果主義の特徴の一つです。日本郵便の業績が上向こうとどうなろうと、従業員は成果を上げなかったものとして賃金をカットされる、それが今の時点で既に決定されていることを引用した記事は伝えています。

 かつては賃下げを目的にしつつも「成果を上げた人に報いるため」と成果主義導入に当たっては上辺を取り繕う努力がなされていたものです。しかるに昨今では、もはや上辺を取り繕うことすら放棄されているように見えます。「成果を上げた人に報いるため」の成果主義ではなく、あくまで賃金カットのための成果主義であることが最初から明言されているわけです。公然と賃下げを宣言すれば世間の反感を買うであろうと、そういう想像が働いた時代はとうの昔に過ぎ去ったのかも知れません。今や賃下げを公言しても反感を買うどころか「もっとやれ」とばかりに世間が経営側に理解を示す、そういう時代に入ってしまったのでしょう。

 

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政治的にも貧しさを感じる

2011-01-24 23:24:30 | ニュース

B型肝炎救済へ所得増税案 数年に限定、3兆円規模(朝日新聞)

 菅政権は21日、B型肝炎集団訴訟で札幌地裁の和解案を受け入れるのに伴い、患者らの救済に必要な3兆円規模の財源について、所得税を増税してまかなう方向で調整に入った。数年程度に限定して増税する案が有力だ。近く、自民党など野党と具体的な協議に入る。

 対象の患者は3万3千人、感染しているが症状が出ていない人は40万人おり、政府の試算では、和解案に沿って救済する場合、30年間で最大3兆2千億円が必要になる。歳出削減で捻出するには財源の規模が大きいため、増税で国民に広く負担を求めたい考えだ。社会保障分野に使われている消費税の活用は見送る。

 具体的な増税の仕組みや導入時期はこれから詰めるが、5~40%の6段階ある所得税率を一律1%上げると、年1兆円程度の増税になる。この場合、3年程度で必要な財源を確保できる。ただ、税率引き上げは高所得者の負担額が多くなるため、所得にかかわらず、国民に等しく一定額の拠出を求める案も検討する。このほか、社会保険料の増額と組み合わせる選択肢もある。増収分で救済のための基金を創設し、申請に応じて和解金などを支払う。

 主眼はB型肝炎救済の件なのでしょうけれど、サラッととんでもないことが書かれていますね。なんでも患者救済に必要な財源を賄うとして所得税増税の方針で検討に入ったとか。こういう形で増税が決定されてしまうと、救済対象となったB型肝炎患者が悪者にされてしまいそうな気がしないでもありません。社会的弱者を公的資金で救済することには際だって否定的なのが日本という国です、社会保障受給者が不当な受益者と見なされがちな我々の社会においては、こうした「救済」を受ける対象の人が謂われなき非難に晒されたとしても驚くには当たらないでしょう。

 それはさておき「数年程度に限定して増税する案が有力」なのだそうです。う~ん、恒久的に必要な財源であれば増税が妥当な選択肢かも知れませんが、本当に「数年程度に限定」であるならば一時的な財源の確保で済むことを意味します。そして一時的な財源の確保で良いのなら、制度改正に伴うコストを支払ってまで不況期に増税という選択よりも、国債発行で対応した方が無難ではないでしょうか。国債発行額をほんの数%増やすだけの話なのですから、これが恒久的に続くならいざ知らず、本当に一時的な費用であるのなら決して無理な話ではないはずです。

 あるいは無意味な法人税減税を止めることでも容易く財源は確保できますね。元より企業では金がだぶついているわけです。現金預金を筆頭に内部留保が山積みされて資本が有効活用されていない現状では、この眠らされたお金をいかに有効活用するかも考えられてしかるべきでしょう。企業が有り余る資金の有用な使い道を見いだせないのであれば、国が代わって必要なところへ予算を振り向ける、それもまた政治の役割です。

 まぁ異常な金持ち優遇税制になっている日本の所得税には増税の余地がありますが、しかるに案として例示されているものは「所得税率を一律1%上げる」とか、「所得にかかわらず、国民に等しく一定額の拠出を求める」など逆進性の強いものばかりです。そんなことをしなくとも累進課税の最高税率を高度経済成長期の水準に戻すとか、無茶苦茶な分離課税を止めて証券などからの所得も合わせて累進課税を適用するなどの方法でも財源は捻出できます。にも関わらず逆進性の強い増税案ばかりが先行しているのは何故でしょうか。元より日本で増税と言ったら実質的に消費税増税を指すなど、どうにも逆進性を強める方向でしか税制が考えられていないようです。

 ここでは朝日新聞の記事を引用しましたけれど、これは残念ながら朝日新聞独自の見解などではなく、世間一般の感覚すなわち世論もしくは民意を如実に反映しているものと思われます。たぶん、この国の有権者は応能負担的な税制よりも均等負担的な税制の方にこそ「平等」を感じるものなのでしょう。より苛烈なバッシングの対象となるのは多くを「得ている」人よりも、ある種の負担から「免れている」人です。従業員の賃金を削って利益を確保することは容認されるけれど、社会保障受給者など労働の義務から免れている人の存在は許せないと感じるように、納税の負担から免れている人の存在もまた悪と考えられがちなのではないでしょうか。その結果として収入がなければ払う必要がない増税よりも、収入の有無に関わりなく一律の増税が是とされてしまうのかも知れません。

 「税率引き上げは高所得者の負担額が多くなる」と本文では書かれています。しかし、「税率引き下げは高所得者の受益が多くなる」と報じられたケースは皆無であるように思います。記憶に新しいところでは名古屋で市民税の一律減税があったわけですが、この時の報道はどうだったでしょう? もちろん一律の減税は所得が大きい人ほど恩恵も大きくなるわけです(そして大半が所得控除の対象となってしまうような収入の少ない人々にとっては全く意味のない減税でもあります)。にも関わらず、世間の注目を集めるのは片方だけです。「税率引き上げは高所得者の負担額が多くなる」といって税率引き上げを厭う一方、「税率引き下げは高所得者の受益が多くなる」ことには何の関心も払わず減税を歓迎する、それが民意でもあります。

 政権交代前、民主党はムダ削減で財源は捻出できると口から出任せを繰り返してきました。結果は言うまでもありませんし、そうでなくともムダ削減だけで必要な財源が賄えるなどあり得ないことは選挙前からわかりきっていたことです。ただ、その辺は大手メディアも大半の有権者もスルーしてきたわけです。そして今、ムダ削減で財源は捻出できると強弁していた政党が逆進性を強める形での増税を企てています。B型肝炎救済の財源もムダ削減でなどと言い出すようならそれこそ本気を疑うところでもありますけれど、ムダ削減で賄えなかった財源は国債発行で凌いできたものを、ここに来て逆進課税に切り替えようとする、色々な意味で支離滅裂な話です。

 

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二重に貧しさを感じさせる記事

2011-01-22 22:58:32 | ニュース

生活保護、最多の3兆円超 09年度、失業者が急増(朝日新聞)

 2009年度に支払われた生活保護費が初めて3兆円を超えたことが、21日分かった。08年9月のリーマン・ショック以降、失業者が生活保護に大量に流入し、働ける年齢の受給者が急増したためだ。厚生労働省は、就労・自立支援の強化などを中心に、生活保護法などの改正を検討する。

 生活保護費は国が4分の3、地方自治体が4分の1負担している。厚労省のまとめによると、09年度決算では国負担分が2兆2554億円、地方負担分が7518億円で、総額は3兆72億円。前年度より約3千億円増えた。

 年金だけでは生活できない高齢者世帯の増加で、生活保護受給者は増え続けている。さらに08年9月以降は生活保護を申請する失業者が増えた。保護受給世帯は昨年10月時点で過去最多の141万世帯。このうち、病気や障害がなく働ける年齢の世帯は23万世帯で、2年で倍増した。

 だいたい2兆5000億程度で踊り場に止まっていた感のある生活保護費ですが、一気に3兆円を超えたのだそうです。とりあえず、この「総額3兆円」という数値は覚えておくべきでしょうね。より頻繁に報道されるものとして不正受給の総額などありますけれど、その不正受給額が全体から見ていかに些細なものでしかないかを理解することは、問題の本質を見誤らないために必須ですから。不正受給は微々たるものでしかなく(金額ベースで0.4%未満)財源面では実質的に何の影響もない、問題はもっと別のところにあるということを意識しないと現状に即した議論はできません。

 それはさておき、散漫な記事です。見出しには「失業者が急増」と掲げられているのに、本文では真っ先に高齢者世帯の増加を挙げています。この辺は公的年金の不備のツケが生活保護に回されている点が問題視されてしかるべきでしょう。なんだかんだ言って年金もまた格差を実感させる制度です。現役時代にバリバリ稼いでいた人なら結構な額が受け取れるけれど、若い頃は貧しくて最低レベルの年金支払いにも苦慮していた人には雀の涙であったり、あるいは支給対象から外れる有様ですから。生活保護費の増額を厭うのであれば、それよりもまず公的年金を貧困世帯に優しいものに変えていくことを考えるべきでしょう。

 そして「病気や障害がなく働ける年齢の世帯は23万世帯で、2年で倍増した」ことが報じられています。有効求人倍率が0.5ちょっとしかない社会であるにも関わらず生活保護受給が23万世帯に止まっているのは、むしろ奇跡に近いような気がしないでもありません。とはいえ、こちらの増大もまた失業保険などの不備のツケが生活保護に回された結果と言えます。額が少ない、期間が短い、なにより支給要件が異様に厳しい、失業保険制度が欠陥品であるが故に、そこからこぼれ落ちた人のごく一部が生活保護を頼っただけでも2年で倍増という結果に繋がるわけです。よく生活保護は「最後のセーフティーネット」と呼ばれますが(ただし日本では刑務所が実質的な「最後のセーフティーネット」の役割を果たしているフシがあります)、その「最後のセーフティーネット」の対象者が増えると言うことは、それ以前のセーフティネットが機能不全に陥っていることを意味します。

■自治体の財政「火の車」 支出は都市部に集中

 増え続ける生活保護申請で自治体財政は「火の車」だ。生活保護が集中するのは失業者が多い都市部。東京都、政令指定都市、中核市で、保護費の6割にあたる1兆9千億円が09年度に支出された。

(中略)

 指定都市市長会が昨年10月に国に要望した改革案の柱の一つは、働ける年齢の人には3~5年の期間を設け、「集中的かつ強力な就労支援」をすることだ。期間が来ても自立できない場合、保護打ち切りも検討する仕組みだ。

 市長会の提案に、弁護士らで作る生活保護問題対策全国会議などは「生活保護に期限を設けることになり、生存権を保障した憲法25条に違反する。生活保護の増加は非正規雇用の増加や社会保障の不備に原因があり、働く場を用意しなければ解決しない」と強く反発している。

 この社会的貧困とセーフティネットの不備から来る生活保護費増加への対応として、行政サイドが考えているのは生活保護に期限を設けて打ち切りを計ることです。これは言うまでもない憲法違反ではありますが、何かにつれ憲法の守られない国でもありますから(憲法が改悪されないよう「護る」こともさることながら、憲法を蔑ろにする行政に「遵守させる」という意味で憲法を守る意識は、もうちょっと高まって欲しいところです)、地方分権の旗印の下、自治体独自の生活保護打ち切りや切り下げが大々的に進められたとしても不思議ではありません。

 だいたい「民間では~」と行政に民間企業の感覚を持ち込ませるのが大好きなお国柄なのに、「働けるかどうか」の判断については役所と民間企業の基準が全く異なっている、その役所と民間の感覚の違いには全く無批判なのがまた不条理です。役所で「働ける」と太鼓判を押して生活保護から遠ざけられた人の大半は、民間企業からは「働けない」と判断される、こういう齟齬を放置したまま就労支援だの自立云々と語られても、単なる行政サイドの言い訳にしか聞こえません。

 それ以前に中見出しの「自治体の財政『火の車』」とは! まぁ、読者の感覚すなわち国民の感覚からは、そう外れてはいないのかも知れません。しばしば自分の生活よりも国や自治体の財政の方を気にしてしまうのが我々の社会です。ましてや自分ならぬ隣人や他人の生活と自治体の財政であったらどうでしょうか。本来、生活保護世帯の増加は社会的貧困の度合いとして意識されなければならないはずです。本当に「火の車」なのは自治体の財政ではなく住民の家計の方でしょう。しかるに生活保護の増大を不正の尺度や財政上の重荷としか考えないのがこの国の民意であり、それに媚びを売るメディアなのかも知れません。だから生活保護が必要なほどの貧困にあえぐ住民の増加ではなく、まず自治体の財政の方が心配されてしまうわけです。そういう面で今回の記事は二重に社会の貧困を伝えるものと言えますね。

 

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もう大人なんだからさ

2011-01-19 23:45:57 | ニュース

新成人実行委がアダルトグッズ、出席者に配る(読売新聞)

 愛知県豊田市で9日に行われた成人式で、新成人らで作る実行委員会が、市の補助金でアダルトグッズやわいせつなDVDを計約1万3000円分購入、一部の出席者に配っていたことがわかった。

 同市の成人式は26会場で開催。アダルトグッズなどは、このうち155人が出席した豊田産業文化センターで、式典後のビンゴゲームの景品として配られた。市は、同センターの実行委員会に56万円を開催費用として補助。景品代には約20万円が充てられ、新成人の委員らがディスカウントストアなどで購入した。市がレシートを確認したところ、アダルトグッズやわいせつなDVD計十数点が含まれていたという。各会場の運営には市職員も携わっているが、景品については「自主性を重んじてチェックしていなかった」(豊田市)という。

 これが問題扱いされるということが、本当の問題なんだと思います。景品代20万円のうち1万3000円分がエログッズだったそうですが、だからどうしたというのでしょう。残る18万7000円分の使途と何が違うのか、よく考えて欲しいものです。これが政治資金であれば使い道に厳しい制限が掛かるのは当然ですけれど、所詮は景品代です。エログッズではなかった残りの景品だって、くだらない代物に使われたという点では変わらないのではないでしょうか。くだらない景品のために補助金を使うのは許される一方、エロが絡んだらダメというのは随分と了見の狭い話です。

参考、変態だー!

 まぁ、とにかくエロはダメなんだという考え方は根強いのかも知れません。性的な要素の有無が、他の何よりも重大な基準として扱われるのも我々の社会の特徴の一つなのでしょう。「子ども」に黄色い声援を送り、「子どもらしさ」に魅力を感じ、「子どもっぽい」スポーツ選手やタレントに熱狂する、その一方で児童ポルノ「所持」規制には熱心なのが日本という国です。性的な要素の有無にかかわらず「子どもであること」を売りにする、「子どもらしさ」を期待する、子どもをビジネスに組み込むような在り方全般に見直しが必要であるように思われるのですが、世間一般の線引きはあくまで性的な要素の有無に重きが置かれています。

 そんなわけで、購入した景品にしても性的な要素の有無によって是非が判断されるようです。性的な要素が含まれていなければ、くだらない代物に補助金を費やしても特に問題視はされないけれど、それがエロ関係とあらば全国紙に取り上げられる、挙げ句の果てには市の責任さえ問われかねない問題に発展してしまうわけです。何だかなぁ、と思いますね。そもそも配った相手は「成人」なのです。成人向けグッズを配るのも成人のお祝いとしては趣があるというものではないでしょうか。それ以前に成人式で大張り切りしているような人には早婚多産なヤンキー文化の人が多いような気がします。結構、既に結婚していたり子どもがいたりする人もいるのではないでしょうか。そういう人たちに「これで子作りに励んでください」とエログッズを渡すのも一つの少子化対策というものです。

秋田で4年ぶり奇習「嫁つつき」 子宝願う小正月行事(共同通信)

 新婚夫婦が子宝に恵まれるようにと願い、集落の子どもたちが新妻を囲んで棒でつつく奇習「嫁つつき」が15日、秋田県にかほ市の大森地区で行われた。小正月行事として続いてきたが、最近3年間は同地区に新婚がいなかったため2007年以来、4年ぶりの再開となった。

 新婚夫婦がいる2軒のうち、農業今野正作さん(77)方では、座敷に通された小学生4人が棒で畳をたたきながら「初嫁出せじゃ」と連呼し、昨年9月に孫の会社員伸哉さん(24)と結婚した奈美さん(24)が着物姿で登場した。

 児童は「つつくは今だ」と奈美さんを囲み、何度も棒で周囲をつつくようなしぐさ。伸哉さんが「あとやめてけれ」と割り込んで行事は終了し、子どもたちはお菓子や餅などをもらった。

 ……これって、昔は子どもの役割ではなかったのでしょうね。子宝を願うと言うからには集落の年長者、既に子供を作る能力を証明している男たちが、木ではない棒で新嫁をつついていたものと容易に推測されます。とかく子孫繁栄とか子宝を願う類の伝統行事には、実はヤバイ感じのものが多いわけです。男性器を大々的にフィーチャーした「かなまら祭り」なんてのもあるわけですし、それを思えば成人式でエログッズを配るくらいは、なおさらご愛敬というものでしょう。むしろ、その程度のことで目くじらを立てる不寛容や純潔カルトの方こそ病理と見なされるべきです。

「セックス嫌い」が倍増 若い男性、やはり草食化(共同通信)

 16~19歳の男性の3分の1は、セックスに「関心がない」または「嫌悪している」との調査結果を、厚労省研究班が12日公表した。2年前の調査から倍増した。分担研究者の北村邦夫・日本家族計画協会クリニック所長は「若い男性の草食化を裏付ける結果だ」としている。セックスレスの夫婦も増え、40%を超えた。調査は昨年9月、16~49歳の男女2693人を対象に実施、57%から回答を得た。

 しかるに、こんな調査結果もあるようです。記憶に新しい東京都の性表現規制からも窺われるように、性的なものに対するネガティヴなイメージが、近年はとみに強まっているのかも知れません。そしてセックスヘイターの声が主流となる、性的潔癖主義が幅を利かせ、エロはすなわち悪として放逐の対象となる、成人にとってすらエロは避けるべき害毒として扱われ、性的なものからは無縁であることが要求されるようになるのでしょう。冒頭で挙げたニュースのような些事が問題視されることこそ、大いに問題と言えます。誰しも下半身に淫行の道具を備えて式に出席しているのですから、そこでちょっとばかりエログッズが振る舞われたからと言って大騒ぎするようなことではありません。

 

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