非国民通信

ノーモア・コイズミ

変態だー!

2009-09-21 13:22:46 | ニュース

「小さい男の子が、真ん中でもじもじ股間をおさえながら、歌っているのがいい」(日経BP)

 わたしの友人が、さらに友人へと、かもめ合唱団のCDをプレゼントしたという。その際、こんな説明をしたらしい。「小さい男の子が、真ん中でもじもじ股間をおさえながら、歌っているのがいい」。

(中略)

 歌のうまさだけなら、この子供たち以上の合唱団はたくさんあるにちがいない。しかし、小さな男の子がメンバーとしてもじもじしながら歌っている合唱団を見たのは、はじめてだった。完成された合唱団と比べたら、調子ハズレの声を出したり、なかには合唱中によそ見をしたり、ダメダメさが目についてしまう。それなのに、肝心なところでは、合唱団としてのひとつのまとまりをなしている。

(中略)

 DVDの映像のなかで、もじもじとしていた男の子がいた。自分の番でないときは、前列に立つ彼はやはり股間に手をやって、きょろきょろとしている。マントがずり落ちそうになるのを、後ろの列にいた年上の女子がなおしてやっていた。

 変態だー!と思いました。普通の人は、この記事を見てどう思うんでしょうね。日経という権威ある媒体で一般公開されているからには、何ら問題のない記事というのが一般的な受け取りかたなのでしょうか。だけど私に言わせれば、この記事を書いた人は正真正銘の変態です。かくも忌避される小児性愛者と何ら変わるところがないくらいです。

 ……まぁ、「性」の要素をどれだけ特別視するかによるのだと思います。「性」を特別視しない、その他諸々と同列にしか扱わない人と、「性」を特別視する、性的な要素が含まれるか否かでまったく判断基準を変える人とで、この手の記事から受ける印象はまったく異なってくるのではないでしょうか。そこで「性」を巡るある種の二重基準とでも言うべきものを、しばし考えてみましょう。

 例えば、性犯罪のケースです。普段は冤罪の可能性など考えようともしない厳罰論者が、こと痴漢の類に関しては冤罪を生む危険性を強調して止まない、一方で「通常の」犯罪に関しては冤罪の危険性を危惧し厳罰化の論調にも慎重な人々が、逆に性犯罪に関しては冤罪やむなし、刑が軽すぎる云々といった立場に立つことも珍しくありません。この辺は男と女、どちらが被害者でどちらが加害者になるか、ある程度まで固定されているところも影響しているのだと思いますが、じゃぁポルノの場合はどうだったでしょうか。

 このブログでも何度か取り上げた性表現を含む成年向けゲーム(エロゲー)規制の時もまた、「普段」と「性的なものを前にした場合」とで立場が入れ替わっていた気がします。つまり普段は抑圧的な政策を支持しているような人々が「表現の自由」を主張し、一方で普段は闇雲な規制に反対しているはずの人々が、本当に規制が必要なのか、有意な悪影響があるのか、実態はどれほどのものなのか、こうした事実には目もくれず「彼奴らは害毒なんだ」と偏見に任せて規制を訴える有様でした。

 厳刑を訴える殺人事件の被害者遺族や拉致被害者家族の声を全面的に支持するような人々が多い一方で、性犯罪の被害者の場合は被害者の「落ち度」が咎められたりするわけです。しかるに世論に支持されるタイプのの被害者(遺族/家族)に対しては冷静な態度をとる人が、逆に性犯罪被害者の声には全くの無批判だったりもする、もちろん全員が全員ではないのですが、そういう人も多いことは否定できない気がします。その人に非がなくとも、その「被害者」の言説が全面的に正しいわけではない、それがわかっている人も性犯罪に関しては目が眩む、逆に「わかっていない」人は性犯罪には冷淡だったり……

 殺人や拉致などの個人的な悲劇は大々的に強調されるものですが、個人の悲劇と統計は別物、それは確かに陰惨な事件だけれど、凶悪犯罪そのものは減っているのだから――そういう立場に立つ人が、こと性犯罪となると個人の悲劇に焦点を当てるばかりで犯罪の減少には目を向けなかったりもします。そしてあたかも犯罪が増加している、治安が悪化しているかのような「思い込み」に乗じて監視を強化しようとする、市民の自由を奪おうとする人々もいるわけですが、こうした連中には批判的な態度をとる人が――性犯罪に関しては特別扱いで、同様に犯罪が増加しているかのごとく事実をねじ曲げて語り、表現の自由を含む市民の自由を奪うこと(ポルノ規制など)に平然と賛意を示していることも珍しくありません。これまた、頭の痛いところですよね。

 たぶん「普通の」人々からすれば、それが性的な要素を含むかどうかは極めて重大なことなのでしょう。性的な要素が含まれていればNG、性的な要素が排除されていればOK、そういうもののようですから。ただその辺り、どうも頭では理解できるのですが、今ひとつ飲み込めない部分もあるのです。そりゃ性的な要素の有無はあるかも知れないけれど、児童ポルノにハァハァしている人と、上で引用したような「もじもじ股間をおさえながら歌っている小さい男の子」に黄色い声援を送る人々、いったい何が違うのか? おそらく普通ではないであろう私の感覚ですと、小児性愛者も子供好きも、そんなに違いはないような気がするわけです。

 例えば、分類上はポルノでなくとも、「ジュニアアイドル」みたいなのは規制すべきではないか、あるいは未成年のグラビア等々は制限されるべきではないか、そういう意見もあります(規制論者定義の「準ポルノ」ってやつでしょうか)。でも私に言わせれば、それ以前に児童労働として禁止されるべきではないかと。子役としてメディアを賑わせたり、合唱団で恥ずかしがる姿を晒し者にされたり、あるいはオリンピックの開会式で歌や踊りを披露したり――世間的には「性的な要素が含まれていなければ」許されるわけですが、それはどうかと思うのです。子供を売りにする、子供を見せ物にする発想こそが根本的に問題なのではないでしょうか。

 そして、もうひとつ。最大の魅力は、子供たちの自意識の薄さである。

 自意識がないわけではない。子供なりの自意識は、彼ら彼女らにも存在している。しかし、たとえばアイドルを目指す子供たちが発散する、あのうんざりするような自意識はない。ひとに聴かせるために歌う活動をしながら、その状態を維持するというのは稀な出来事だと思う。

 小児性愛者が児童ポルノのどの辺に魅力を感じるのかは私の知ったことではありませんが、しかし成年出演者によるポルノではなく、あくまで「児童」ポルノに求めている「魅力」とは、ここで引用されたものと大差ないと思います。つまり「大人」や「プロ」にはないものを「素人」の「子供」に求めているわけですが、こうした「未熟さ」に涎を垂らしているという点では、やはり小児性愛者も子供達に黄色い声援を送っている人々も、根本的な違いはないような気がします。

 

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2 コメント

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性的指向を説明する困難さ (貝枝五郎)
2009-09-22 13:26:05
>小児性愛者も子供達に黄色い声援を送っている人々も、根本的な違いはないような気がします。

このご指摘は、「子供達に黄色い声援を送っている」くせしやがってもとい送っているにもかかわらず小児性愛者を批判しているヤツラもといひとびとに私怨もとい違和感をいだいている者としてまったくもって溜飲がさがるもとい納得がいく見解なのですが、そのまえの箇所にある

>小児性愛者が児童ポルノのどの辺に魅力を感じるのかは私の知ったことではありませんが

という箇所に関して、ふとおもいました。性的指向は、自分でも何故であるかは説明ができないのではないだろうか、と。
わたしもひとりの小児性愛者としてもといわたしが小児性愛者であると仮定すると自分の性的指向を告白することは社会的条件がそろえば可能であっても、それが何故なのかは説明ができないような気がします。
性的指向の理由をとわれることなどあまりない様な気もしますが、性的指向に関してはそもそも理由は自分でもわからないひとの方が大多数なのではないでしょうか?
上記の私見に対してお返事いただければさいわいです。

※ちなみに今回の拙文の題名は、『殺す側の論理』(朝日文庫213ページ)における、イザヤ・ベンダサン(自称)氏の文章内の小題「伝統的思考を説明する困難さ」をパクってもとい元ネタにしてみました。……が、そんなこたぁどーでもいーっすかね?
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Unknown (非国民通信管理人)
2009-09-22 14:20:16
>貝枝五郎さん

 まぁ性的志向に限らず、何が好きで何が嫌いかなんてのは理屈じゃないですからね。好きな理由が説明できるとしても、それはしばしば「後付け」だったりするものですし。
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