僕の散歩コースの一つに成ってる飯岡の在所・・・・我が家から木津川を挟み左岸の少し上流に位置する。
正式には「飯岡」と書いて「いのおか」と呼ぶそうだが・・・・何が正式やら通称やら。
土地の人やら、周辺の者やらは「いのか」と呼び親しんでいた。
その土地の呼び名より、どこかの役人が付けた名称が正式名称とされる馬鹿らしさには呆れてしまうけど・・・・・
まあ、そんなことはさておき、飯岡は木津川中流左岸、南山城平野の中央部にある孤立丘陵で、木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。
子供の頃、「いのか山」は全部古墳や・・・・・と、教えられて育った程古墳も多く、また、萬葉集にも柿本人麻呂が詠める詩として 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」が有る程に古い土地。
木津川堤下の田園地帯は全て木津川の氾濫原だったのだろう・・・・。
昔話の一節に・・・笠置峡谷の大岩が大雨の落雷により大小二つに割れ、その大洪水で大岩は流され、一方は当時恭仁京があった瓶原(みかのはら)に流れ着き・・・もう一方は更に下流の田辺まで流れ、離れ離れに成った大岩は互に恋しがり、田辺の岩からは「いのか(山城弁では、帰ろうかの意)」と、叫ぶ声が聞こえ、人々は「いのか」と叫んだ大岩を「飯岡(いのか)」と呼ぶように成った。
その大岩こそ飯岡丘陵、現在でもそのまま地名として残されている壮大な話で、昔から木津川が山をも流しだす暴れ川だった事を想像させる。
集落は丘陵中腹、標高50~60mの緩斜面に石垣を積み軒を連ねている。
集落中央部は、旧い昔のままの在所の形態が現在もそのまま残され・・・・
車での通行不能な細い道が縦横に走りとても他所者が迷わずには歩けない程。
これは集落中央部貫き、車の通る道・・・・落ち着いた景観の家並が続く。
同じく逆方向から眺めて見る・・・・・
この集落ではどこに行っても、道の両側は石垣と・・・
白壁土蔵が一セットに成り、昔のままの集落の形を今に伝えてる。
集落へ登る道と・・・
集落から降りる道・・・・。
そして古墳の斜面は茶畑で覆い尽くされ・・・
あちこちに由緒有りげな石碑や説明板が建って居る。
ここ飯岡(いのか)は木津川と共に有り、僕の散歩道。
この地は一週間に二度ほど散歩するので撮影日の特定はせず。