あの世界遺産登録でますます有名になった平泉中尊寺や毛越寺、そのおこぼれなのか?他の場所にあれば全くマイナーで誰も近づかないようなこの寺も、観光バスの駐車場を持つほどの観光名所になって居てちょっと驚き。
<この螺旋状に重ね上げられた「稲ぼっち」が、ここは東北だと知らせているように感じた。>
中尊寺前から毛越寺の前をすり抜け、車で約10分も走ると秋の収穫の進む田園風景の中、達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂に着く。
神仏混淆を示す大きな両部鳥居の向うに脆く怪しい凝灰岩質の断崖が長さ約150m程も続き、その中央部の岩窟に懸崖の毘沙門堂が造られている。
達谷窟毘沙門堂は、延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂に拠る蝦夷征伐の折、この窟で戦勝、毘沙門天を感得し清水の舞台を模した堂を建て達谷窟毘沙門堂とした。
毘沙門堂の向かって左側に続く岩壁の西端近く岩肌上部には、天災人災侵食劣化自然風化などなど相まり、最早頭部だけしか留めない大石仏が刻まれて居る。
この磨崖石仏は後、平安時代前期の「前九年、後三年の役」で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為、陸奥守源義家公が馬上より弓(ゆはず)を以って彫り付けたと伝えられているが・・・、そんな訳もなく真相は不明。
天災や戦火に依り毘沙門堂は度々焼け崩れ、その度この石仏も相当なダメージを受けたのだろう??、明治29年には「明治三陸地震」により胸から下が崩落し、現在の様に頭部だけに成ってしまったようです。
現在は「岩面大佛」と呼ばれる様に頭上も体躯も崩れ果て、大日如来とも阿弥陀如来とも言われて居ますが決め手に欠けます。
顔丈約3.6m肩巾約9.9m・・・、もし体躯があれば像高約16.5mと言われ、奈良東大寺の大仏を凌ぐスケールです。
押しつぶした様な団子鼻に分厚いタラコ唇、エラの張ったその顔容は古代東北人「蝦夷」のそれを彷彿とさせるとの説もあるとか??
しかし明治30年頃まで体躯が実在してたなら写真の1枚くらいは残って居ても良さそうなのに・・・。
最北の磨崖とされ、日本三大磨崖の一つに数えられて居るとか?居ないとか??・・。
撮影2012.9.22