紀伊半島の分水嶺「天辻峠」(今は天辻トンネルでなんなく超えるが・・)を超えると、そこから先は、その昔「遠津川郷」と呼ばれた紀伊半島中心部の山深い土地。
そんな遠津川郷の入り口辺りが奈良県五條市旧大塔村、大塔村の中心部「道の駅大塔」の有る坂本地区より更に国道168号線を熊野川の上流域「天ノ川」の渓谷沿いに南下すること20分ばかり、天ノ川の支流「舟ノ川」合流地点から更に「舟ノ川」沿いを山深く東進する県道235号線で約10分も遡ると、山肌にへばり付く様な中井傍示 (なかいほうじ)集落にいたる。
国土地理院2万5千分の1の地図を見ると背後の杉山にも集落の建物らしき物が見えるが現在それらしき気配は全く無く、最早杉林の中に埋没してしまったのでしょうか??
集落は県道を挟んで見える限りでは10軒弱、所々取り壊して更地になった民家跡も目に付く。
建物は山深い山村らしく簡素な平屋のトタン屋根が多く、それほど深い歴史は感じないが厳しい風雪に耐えるように作られている。
斜面を有効に利用して自然の厳しさから身を守るように旨く建てられているが此処も、もう既に廃家。
急な石段が集落の家々を繋ぐ。
他方集落東外れには宗泉寺と言う寺が有って立ち寄ってみたが、当然無住で程ほどに荒れていて見るべきものとて何も無い。
県道を挟んだ裏山の墓地も訪ねたが、やっぱりそれほど古い歴史を感じるものは無く元禄期の迎え地蔵が一体。
それでも墓地は清掃が行き届き、埋め墓、石塔墓共に手向けられた花は真新しい。
最早住人は墓の数の10分の1も居ないだろうに??
集落県道脇に残る永盛小学校跡、勿論昭和50年の廃校・・・、最早既に45年ばかし・・。
往時此処には近くの集落から通っていたにせよ何人ぐらいの子供が机を並べたのだろうか??
しかし此処で滅多に見れないこんなものにお目に掛かりました。
遥か遠い昔に死語と成ってしまった尋常小学校の文字が入った校門。
この地に小学校が建ったのは100年前の明治43年、この年あの「黒澤 明」や「白洲正子は生まれた。
100年前には希望一杯の子供達の歓声が響いたこの地も、100年も経るとこうも変わるもの・・・・。
撮影2011.7.30
『中井傍示の小学校』で 父が代用教員をしていた と聞いています
URLニモある わたしの故郷の近くです
歴史的な物が残っていないのは M22年の水害の所為かも知れません
高所にある簾の集落には 仏像・文書等 室町期の良い物が残っていました
デモ;今は 寺共々 都会に引越ししていますが・・・
良くこんなマイナーなページに辿りついたもんですね・・・・、コメントありがとう。
あちら方面まだまだ行きたいところがあったんですが今回の豪雨でしばし足止めになっています。
僕は最近度々韓国の山に登りますが余りにその違いに驚きます。
日本の山は何処に行っても杉の植林、あちら野田舎は何処に行っても手付かずの松林と広葉樹の山です。
勿論農作物を野生動物から守る柵や網など全く見かけません。
日本の山村はまるで逆動物園のように何処へ行っても柵だらけ・・、村中柵で覆った山村も良く見かけますよ。
旨く言えませんが、文明は自然破壊の何者でもないような気がしています。
同じ意味で社会保障も人間をダメにしているような??。
もういまさら何を言っても遅すぎるような気もしますけどね・・・。
過ぎたるは及ばざるが如し・・・。
夏は、船ノ川で遊び 鮎捕ったり
鰻を
つかまえたりと色々遊んでました。
私が幼少の頃は、30人~40人ぐらいは、人々が居たと思うんですが…
今は、2017年現在5人です。
昔は、本当に良いところだったんですが…最近は、集中豪雨が多くなっており 土砂崩れが頻繁に起きてしまってます。
春夏秋冬 季節が満喫出来る本当に良いところデスガ…
哀しいけれどそれが現実・・・どうにも成らないですね。