愛しきものたち

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京都府和束町 安積親王の和束墓(再編集)

2015年02月08日 | 風物:陵墓

僕にとっては見慣れた風景・・・・僕の住まいからは、山を一つ越えたところ、相楽郡和束町の安積親王の和束墓。

つい最近だと思うが、稜のある茶畑の丘のふもとに新興住宅が立ってしまって以前の姿は見られなくなった。

それでも、お茶畑が小さな丘を登って頂上付近の陵墓をきわださせ、 山城らしい風景である。

陵墓へは、茶畑の作業用軽トラックが通行するための道路整備されているが、ふもとに車を置いて歩くのがよい。

少し上ると景色もよいので少し暖かくなるとよい散歩路になる。

お茶畑を半ばまで登ると杉木立の手前に、陵墓への参道が見えてくる。

安積親王は聖武天皇の第2皇子、母は県犬養広刀自、同母姉に井上内親王、同母妹に不破内親王があり、妻子があった形跡はない。

安宿媛(藤原光明子)所生の基皇太子が薨じた神亀5年に生まれ、在世する聖武唯一の皇子となり、将来の皇太子最有力候補と目されていた。

 

天平16年閏1月11日、難波宮に出発しましたが、途中安積親王(あさかのみこ)が「脚病」を発して桜井頓宮より恭仁京に帰還し、2日後に急死。

親王は当時17歳、在世する唯一の聖武天皇皇子であり、母は諸兄と縁戚のある県犬養氏の出身でした。

聖武天皇の恭仁京はこの和束より南へ山一つ越えたところにあり、また、橘諸兄もこの山城の地に居していた。

親王の死は、一説に恭仁京の留守官をしていた藤原仲麻呂による謀殺とされ・・・・・・、真相は闇の中ですが、いずれにしても、光明皇后と皇太子阿倍内親王を推し立てる藤原氏にとっては、最も大きな障害が取り除かれたことになる。

 

親王と、縁戚にあった、万葉歌人大伴家持は次の様に詠う・・・

我が大君天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束そま山(巻三 0476)

(訳)我が主君がそこで天界を支配なされようとは(そこに埋葬されようとは)思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたことだ、この和束の杣山を。

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如き我が大君かも(巻三 0477)

(訳)山全体までも輝かせて咲いていた花が、一時に散り尽くしてしまうように、慌ただしくも逝ってしまわれた我が大君よ。

陵墓の周りは石柵で囲まれており、周りをめぐれるよになっている。

いずれにしても、安積親王の死によって橘氏・大伴氏・県犬養氏は、出鼻をくじかれ、藤原氏が実権を持つことになってゆく。

安積親王は橘氏・大伴氏・県犬養氏らを後ろ盾とし、藤原氏との政争の狭間に立たされ、厳しい運命に翻弄された皇子の一人である。

 

<陵墓から見る風景>

あの山を越えれば、古代恭仁京のあったところ・・・・・、この山に登った大伴家持はどういう心境でこの景色を見ていたのだろうか??

そのやりどころのない、悲しさと悔しさと憤り・・・ここにまたひとつ、山城の悲劇を見た。

撮影2006.



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