愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

祝園神社拝殿。

2006年01月01日 | 風物:陵墓
武埴安彦と大王(天皇)軍とのいくさの戦場は、現在の京都府相楽郡の木津町、山城町、精華町から京田辺市を経て大阪府枚方市樟葉にまで及んでいる。武埴安彦の軍が天皇軍に破れたことで、三輪山麓を根拠地とする勢力が大和の中心となったと考えられる。初期大和政権はここにその誕生を見たのかもしれない。

武埴安彦が斬殺された祝園(ほうその)一帯では多くの者が命を失ったため,この地を「はふりその」と呼ぶようになり、これが祝園の語源という。また、記紀の記述では武埴安彦は弓で射られて死んだことになっているが、別の伝承では木津川のほとりで斬殺され、首は対岸まで飛んでいったとされる。戦乱の後も彼の霊が天災、疫病となって人びとを悩ませたので、首の飛んで来たところに湧出宮が、胴体が遺されたところに祝園神社が建てられ、武埴安彦をはじめ、戦いで散った者たちの霊をおさめ、農作物の豊作を祈念した。これが二つの神社でいまも行われている「いごもりまつり」のおこりである。ということになる。しかし、湧出宮で読んだ由来では、胴体が遺されたところが湧出宮で、首が飛んでいったのが祝園神社と書かれている。



祝園神社由緒書

2006年01月01日 | 風物:陵墓
「人皇第十代崇神天皇の御代第八代孝元天皇の皇子武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が朝廷に反逆を企て遂に此の地に於いて討伐されたが(記紀参照)、亡魂柞ノ森に止り人民を悩ませしを第四十五代聖武天皇神亀年中にこれを撲滅せんとするも鬼神の所業なれば人力にては如何ともなり難く 後年第四十八代称徳天皇の御代神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により直臣池田六良廣綱、宮城七良朝藤が祝部となり、神護景雲四年一月二十一日春日の大神を御勧請し創祠された。而して斎戒沐浴精進祈願に依り(これが今に伝わる、いごもり祭の始まり)、神力の擁護の基に遂に悪霊撲滅の難業成り 廣綱朝藤の功と相俟って漸く悪病平癒、人民安堵、農家の繁栄、商工業の隆盛を見るに至った。
 かかる霊験灼かなる神なれば貞観元年正月二十七日に神階位従五位下を授けられ、後年延喜式内大社に列せられる。天正四年七月二十四日には天下泰平の国宣あり院参の官人及び武門武将の尊崇深く社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けられ慶應三年八月には有栖川宮家より夥しき御寄進を賜わり同宮家の御祈願所となる。明治六年郷社と定められ祝園村の産土神と決定した旨達せられる。
 昭和三十八年高松宮殿下より有栖川宮威仁親王殿下五十年祭に當り同殿下の筆録を御寄進有り。」

祝園神社四脚門

2006年01月01日 | 風物:陵墓

祭礼: 1月庚申の日から3日間行なわれる神事いごもり祭(京都府指定祝園の居籠祭)はよく知られている。

「日本書紀」によると、武埴安彦(たけはにやすひこ)が崇神天皇に背いてこの地で討たれ、反乱軍の屍が溢れたので、羽振苑(はふりえん)と呼ばれるようになったとあり、それが後に転訛して祝園(はふりえん)という地名になったと
いう。
居籠祭は武埴安彦の霊を鎮めるために始まったと伝えている。第48代称徳天皇(718~770)の命で、亡魂を撲滅し戦死者の霊を弔うために創祠されたとされる。

祝園神社

2006年01月01日 | 風物:陵墓
神社は延喜式内社で第四十八代称徳天皇の勅命により悪病平癒家内安全農商工業の発展を祈願するため、神護景雲四年一月二十一日に創祠されたお宮で、御祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)健御雷命(たけみかづちのみこと)経津主命(ふつぬしのみこと)



柞の森一帯は祝園神社

2006年01月01日 | 風物:陵墓
祝園(ほうその)の中心地、祝園神社の位置する一帯は「柞(ははそ)の森」と呼ばれ、木津川の西畔にあり、 このあたりは、「柞の森(ハハソノモリ)」の歌枕の詠まれた場所として知られ、柞すなわちナラやクヌギの森が生い茂っていた。
祝園神社が鎮座する集落北東部のあたりを小字柞ノ森という。祝園神社の杜が、歌枕に詠まれた森の名残りなのであろう。祝園の地名も「ハハソノモリ」が転訛したものと思われる。
神社の現住所は、柞ノ森一番地である。