愛しきものたち

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大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
それでも、結局莵道稚郎子は、歴史のうらに消えてしまって、オホサザキ命(仁徳天皇)一人がうまくやったという感は否めない。 いつの世も良く似たものだと・・・・・。 しかしこの大山守命こそ悪者扱いされこのような小さな陵墓に葬られ、片やオホサザキ命(仁徳天皇)は、世界最大級の陵墓に眠っている。

大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
どうも大山守命は、オホサザキ命にはめられたのではないか???。

古事記は次の様に言う。

 さて、天皇が亡くなられた後、オホサザキ命は天皇の命令に従って、天下をウヂノワキ郎子(いらつこ)に譲った。しかし、オホヤマモリ命は天皇の命令に背いて、やはり天下を得ようと思って、その弟の皇子(みこ)を殺そうという思いがあって、密かに武器を準備して攻めようとした。
 そこでオホサザキ命は、その兄が武器を準備していることを聞いて、すぐに使者を遣わして、ウヂノワキ郎子に告げた。

 そこで、聞き驚いて、兵士を川のほとりに潜ませ、また、その山の上に絹の幕を張り、陣営を構えて、偽って舎人(とねり)を王(みこ)に仕立て、堂々と椅子に座らせ、部下たちが敬いながら行き来する様子を、すっかり王子(みこ)が座っているのと同じようにして、更にその兄王が川を渡る時のために、船と楫(かぢ)を整えて置き、さな葛の根を搗(つ)いて、その汁の粘液を取って、その船の中のスノコに塗り、踏むと滑るように仕掛けをして、その王子は布の衣褌(きぬはかま)を着て、すっかり賤しい人の姿になって、楫を取って船に立った。

 そこでその兄王は、兵士を隠し潜ませ、衣の中に鎧を着て、川のほとりにやって来て船に乗ろうとする時に、その飾り立てた所を眺めて、弟王がその椅子に座っていると思い込み、楫を取って船に立っていることに全く気づかずに、すぐにその船頭に尋ねて、「この山に凶暴な大猪がいると伝え聞いている。私はその猪を討ち取ろうと思う。その猪を討ち取れるだろうか」と言った。
 そこで船頭は、「できないでしょう」と答えた。また、「どうしてか」と尋ねると、答えて、「何度も所々で討ち取ろうとしてもできませんでした。そういうわけで、できないと申したのです」と言って、川の中ほどに渡って来た時に、その船を傾かせて、水の中に落とし入れた。
 そこですぐに浮かび上がって、水に流されながら流れ下った。そこで流れながら詠んだ歌は――。

 ちはやぶる 宇治うぢの渡わたりに 棹執さをとりに 速はやけむ人ひとし 我わが許もこに来こむ 


そこで、川のほとりに潜んで隠れていた兵士が、あちらこちらから一斉に現れて、弓に矢をつがえ、追い流した。そして、訶和羅の前(かわらのさき)まで流されて沈み溺れた。そこで、鉤(かぎ)でその沈んだ所を探すと、その衣の中の鎧に引っ掛かって、「かわら」と鳴った。そこで、その地を名付けて訶和羅の前と言う。
 そして、その遺骸を引き上げた時、弟王が詠んだ歌は――。

 ちはやひと 宇治うぢの渡わたりに 渡わたり瀬ぜに 立たてる 梓弓檀弓あづさゆみまゆみ い伐きらむと 心こころは思もへど い取とらむと 心こころは思もへど 本方もとへは 君きみを思おもひ出で 末方すゑへは 妹いもを思おもひ出で いらなけく そこに思おもひ出で かなしけく ここに思おもひ出で い伐きらずそ来くる 梓弓檀弓あづさゆみまゆみ 

そして、そのオホヤマモリ命の遺骸は那良山(ならやま)に葬った・・・・と。

それがこの大山守命那羅山墓だと言うことになっている。






大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
応神天皇には十人の姫との間に26人の子供が生まれているとある。

下記の通り

この天皇は
品陀眞若王=ほむたまわかのみこ、の三人の娘を娶った。
一人目の、高木の入日売命=たかぎのいりひめのみこと、との間に誕生した御子は
額田大中日子命=ぬかたのおおなかつひこのみこと
次に
大山守命=おおやまもりのみこと
次に
伊奢之眞若命=いざのまわかのみこと
次に
大原郎女=おおはらのいらつめ
次に
高目郎女=こむくのいらつめ

二人目の、中日売命=なかつひめのみこと、との間に誕生した御子は
木の荒田郎女=きのあらたのいらつめ
次に
大雀命=おおささぎのみこと
次に
根鳥命=ねとりのみこと

三人目の、弟日売命=おとひめのみこと、との間に誕生した御子は
阿倍郎女=あべのいらつめ
次に
阿具知の三腹郎女=あはぢのみはらのいらつめ
次に
木の菟野郎女=きのうののいらつめ
次に
三野郎女=みののいらつめ

また丸邇の比布禮能意富美=わにのひふれのおおみ、の娘
宮主矢河枝比売=みやぬしやかわえひめ、との間に誕生した御子は
宇遲能和紀郎子=うぢのわきいらつこ
次に
八田若郎女=やたのわきいらつめ
次に
女鳥王=めどりのみこ

また宮主矢河枝比売の妹
袁那辨郎女=おなべのいらつめ、との間に誕生した御子は
宇遲之若郎女=うぢのわきのいらつめ

また咋俣長日子王=くいまたながひのひこのみこ、の娘
息長眞若中比売=おきながまわかのなかつひめ、との間に誕生した御子は
若沼毛二俣王=わかぬけふたまたのみこ

また櫻井の田部連の祖、島垂根=しまたりね、の娘
糸井比売=いといひめ、との間に誕生した御子は
速總別命=はやぶさわけのみこと

また日向の泉長比売=いづみのながひめ、との間に誕生した御子は
大羽江王=おおばえのみこ
次に
幡日之若郎女=はたひのわかのいらつめ

また迦具漏比売=かぐろひめ、との間に誕生した御子は
川原田郎女=かわらだのいらつめ
次に
玉郎女=たまのいらつめ
次に
忍坂大中比売=おさかのおおなかつひめ
次に
登富志郎女=とほしのいらつめ
次に
迦多遲王=かたぢのみこ

また葛城の野伊呂売=ののいろめ、との間に誕生した御子は
伊奢能麻和迦王=いざのまわかのみこ

この天皇の御子は合わせて二十六柱である。

これで見る限り第一番の皇位継承者は大山守命のように見えるが、古事記は次の様に言う。

 
さて、天皇は、オホヤマモリ命とオホサザキ命に尋ねて、「お前たちは、年上の子と年下の子とどちらがかわいいか」と言った。
 そこでオホヤマモリ命は、「年上の子がかわいいです」と言った。
 
次にオホサザキ命は、天皇がお尋ねになった心中を察して、天皇が「年上の子はすでに成人して、わずらわされることもないですが、年下の子はまだ成人していないので、これがかわいいでしょう」と言った。

 そこで天皇は、「サザキ、お前の言葉は、私の思っていた通りだ」と言って、すぐに分けて、「オホヤマモリ命は山海の政(やまうみのまつりごと)をせよ。オホサザキ命は食国の政(をすくにのまつりごと)を執政しなさい。ウヂノワキ郎子は天津日継(あまつひつぎ)を継ぎなさい」と言った。
 
そして、オホサザキ命は天皇の命令に背くことはなかった。

いかにもオホサザキ命(仁徳天皇)に都合よく書かれた話のような気がする。

大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
あまり聞きなれない名前である。

僕がこの名前を知ったのは、宇治上神社で祭神が、応神天皇、莵道稚郎子、仁徳天皇:大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)だということを知って、莵道稚郎子について調べてみてこの名前を知りました。

奈良市内の一条通りから北方向のなだらかな丘の上の新興住宅に囲まれた奥手にある。

丁度、「不退寺」(ふたいじ)裏に当たる辺り、一条通りから車で5分程度のところ、多分見過ごしてしまいそうな所にあった。





大山守命は、応神天皇の第一王子として生まれた。