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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京田辺市多々羅(たたら)鎮座 新宮社

2015年08月22日 | 神事:行事:寺社: 仏像

現在同志社大学に隣接する小さな境内の小さな社に祀られて居る。

集落の西北外れ小高い丘陵の中腹にあり、この付近は欽明天皇の御代、わが国に来朝した百済国人爾利久牟(にりくむ)王の居住した土地と言われ、鉄工の業を伝えたとして朝廷より多々羅の姓を下賜された。

当社はその子孫が祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社(うじがみしゃ)であったが、のち、近くの朱智神社の境外末社となっている。・・・古くは「田中山宮」と称したと言う。

新宮社と言う呼び名もふさわしくない程の古社で、式外社ではあるものの由緒はすこぶる古い。

撮影2015.7.21


精華町大字山田小字医王寺 新殿神社

2015年08月16日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

神社への参道入口が高速道路下に有り地元民以外にはなかなか寄り付き難い神社です。

神社境内は長い石段参道を登った小高い丘の上に有り、京都府の自然200選に選定されて居ます。

精華町大字山田小字医王寺に鎮座・・・旧山田村の産土神。

独特な様式を持つ割拝殿奥に本殿が控える。

応長元年(1311)京田辺市の朱智神社から勧請され、古くは、植樹神社と称しました。

地元では「山田の宮さん」と親しく呼ばれ、旧山田村の産土神だそうです。

祭神は二座有り、素盞鳴命・天児屋根命と成って居ます。

境内には今も医王寺と言う宮寺跡があり、境内入口の十三重石塔は重要文化財に指定されて居ます。

撮影2015.8.1

 


宇治市宇治蓮華 式内 橋姫神社

2015年08月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

宇治橋の東詰め、大きな石鳥居をくぐって少し先に進むと、左手に白壁土塀の切れ目に白木の鳥居の建つ、民家の庭先ほどの小さな境内がある。

熱心な参拝者は多いのだが、殆ど目立たないので要注意。

境内の左手、ブロック塀を背に簡素な覆屋が建ち中に、向かって右手「橋姫社」と左手「住吉社」の小さな社殿が建って居る。

橋姫社は大化2年(646)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとされている。

当初は橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られたが、その後宇治橋の西詰に祀られ、明治3年(1870)の洪水による流出後、明治39年(1906)に現在の場所に移された。

また橋姫は嫉妬の神・縁切りの神と言われ、「悪縁を絶つ」霊験があり、源氏物語「宇治十帖」の故地としても良く知られて居る。

撮影2015.7.24

 

 


久御山町佐山 雙栗神社(さぐりじんじゃ)

2015年08月13日 | 神事:行事:寺社: 仏像

以前このページで紹介した宇治田原町の雙栗天神社から勧請、この地に祭られた。

古代、宇治田原よりこの低湿地に移住して来た人々が神と一緒にやって来たのだろう・・・

現在付近は住宅団地が建ち並び市街化の中に、この大きな鎮守の杜が埋もれる様にあり、拝殿はただいま修理工事中にて青いビニールシートが掛けられて居た。

延喜式神名帳に、『山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫』とある式内社。貞観元年(859)正月27日正六位上の双栗神に從五位下を授ける。

中世以降石清水八幡宮の影響をうけて椏本八幡宮と呼ぶ、現本殿は明応3年(1494)の建立とされる。

本殿の彩色は目の覚める様な艶やかさです・・・・久御山町佐山双栗鎮座・・・重要文化財・雙栗神社(さぐりじんじゃ)本殿

撮影2015.7.14  

 


宇治市白川 白山神社

2015年08月11日 | 神事:行事:寺社: 仏像

嘗て、藤原頼通の娘・四条宮寛子(後冷泉皇后)が建立したという「金色院」の鎮守社として祀られていた。

現在寺は無くなり金色院遺構として惣門、とこの白山神社が残された。

白山神社は金色院総門から奥に約200m背後の山裾を登った中腹に鎮座・・・往古境内からは華やかな金色院の堂塔伽藍が一望のもとにあったのだろう??

鎮守社となる前、元々「白山神社」は八世紀後半に疱瘡(ほうそう)が流行した時に、その治癒を願って創建されたと伝えられている。

石鳥居とせせらぎを渡る石橋を越えると携帯までは一直線に急な石段を登る事になる。

正面には重文指定の茅葺き拝殿・・これは建治3年(1277)に建立されたもので、宇治離宮の遺構と伝えられている。

我が山城でも茅葺き拝殿は僕の知ってる限り後一箇所のみと成ってしまった。

拝殿奥の一段上がったところに鎮座する本殿・・・・一間社流造銅板葺

因みに祭神は伊邪那美尊(いざなみのみこと)で堂内には藤原時代の伊邪那美尊坐像(重文)を安置していると言われて居ます。

 

宇治市街からはいくらも離れていないが一山隔てた谷間集落に有り、観光客もここまでは足を伸ばさない。

撮影2015.7.24

 


精華町北稲八間(きたいなやずま)鎮座 武内神社(たけうちじんじゃ)

2015年08月09日 | 神事:行事:寺社: 仏像

精華町中心街、役場からすぐ北西の丘陵裾に広がる北稲八間集落の鎮守さん。

在所道に面して裏参道?には杉の巨樹

境内は一段高く背面を丘陵の緑に覆われ、登り口正面石段には石鳥居・・・・

文保元年(1317)、石清水八幡宮より勧請、室町時代には北稲八間荘の、さらに江戸時代には北稲八間村の鎮守。

境内正面には小学校の木造校舎を思わせる様な特徴的な割拝殿。

 

石清水八幡宮より勧請したなら祭神は応神天皇の誉田別尊(ほんだわけのみこと)と神功皇后の息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)だとばかり思ってたのに、ここは「武内宿禰(タケノウチスクネ)」・・・・

武内宿禰270歳余りまで長生きしたと言われ、そのことから武内神社は「長生きの神様」と言われている。

撮影2015.8.1


山城の神社・・・田山・諏訪神社

2015年08月06日 | 神事:行事:寺社: 仏像

山城の最東南端の南山城村田山の氏神として祀られて祀られ、鎮座している

国道163号線月ヶ瀬口から府道753号線で約15分田山地区の中心部、不動脇の高台に鎮座・・・・不動から急な石段参道が付いている。

上がっための前に割拝殿・・・・

それを潜ると何段か登って神楽殿??

由緒不詳ながら室町時代より存在していたと考えられ、昔は九頭大明神という名称で、田山村の氏神として祭られて居たようで、山城よりはこの大和高原地域の他の地区との深い繋がりを感じる。

また「田山の花踊り(京都府無形民俗文化財)」として知られる雨乞い踊りが行われる神社として知られている。

撮影2015.7.10


宇治田原町岩山 式内 雙栗天神社(さぐりてんじんじゃ)

2015年08月04日 | 神事:行事:寺社: 仏像

宇治田原町岩山に鎮座する雙栗天神社。

 

いつも良く利用する国道307からも見渡すことの出来る山裾斜面にしがみつく様な岩山集落、その上段部に微かに見えるのがこの一鳥居。

二の鳥居から・・・・。

社伝記によると、宣下天皇3年9月7日、霊神が岩上に降って光明を放ち、それを見た同郷の住人雙粟忌寸宿称・和邇部茨彦がこの瑞祥を見て祀ったと言われる古社。
 
 
三鳥居と神楽殿
 
 
ここを総社として一宮(御栗栖神社)、大宮神社、三宮があり、久御山町の雙栗神社も、元はこの雙栗神社から分社された。
本来は奥の院の岩を神座とする古社であったとされ、祭神は天穂日命、事代主命、大歳命。

宇治田原には雙栗神社(現雙栗天神社)・御栗栖神社・雙栗寺など“栗”の名がつく社寺があり、昔の田原郷は雙栗ノ荘とも呼ばれていたらしい。

小さな鄙びた山里集落の鎮守にしては立派すぎる佇まいです・・・ 

 撮影2015.7.19

 

 


京都府精華町 祝園神社「居籠り祭り」二日目大松明

2015年01月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 この厳寒時、我が木津川左岸、精華町祝園神社「居籠り祭り」2日目の夜に行われる大松明の儀に行ってきた。

 

「居籠り祭り」は正月庚申の日から3日間行なわれる音無し神事と言われ、京都府の無形民俗文化財に指定されている。

 今年は1月8日から10日までの3日間、木津川左岸堤直下の祝園神社で行われ、昨年の三日目-綱引き式に続き、今年は厳寒の中意を決して2日目の「大松明の儀」を見てきた。

夜7時、山城には多い本殿に続く割り拝殿右側の「お火たき場」に、大豆の枯れ枝を割竹で包み込んだ大松明に火が点けられ激しく燃え上がります。

拝殿の屋根を焦がす程に燃え盛りますが火事に成った事は無いと言います・・・・・しかし天井にはしっかり鉄板が備えられ用心している様です。

 外から見ると割拝殿の片側が炎に包まれて居るように見えます。

 

 大松明は境内へと担ぎ出され、しばし立てられ待機・・・

 しばらくして奉持者に担がれた大松明は燃え上がる炎と共に参道を進み・・・・

鳥居を潜り暗闇の中を、野面方面へと向かって進んで行く。

宮司は目隠しの衣笠に入り、身を隠したまま大松明の後に付き、野面水田の一画にある「幸(こう)の森」まで約1.5kmを練り歩き、そこで松明あかりの「御田の儀」が行われる。

しかしこれは秘事に付き望見は現在も許されて無い様です。 

撮影2015.1.9


木津川市木津 御霊神社布団太鼓

2014年10月28日 | 神事:行事:寺社: 仏像

先週末の10月25日 土曜日、いつもの散歩をちょっとチャリで足を伸ばし、木津の布団太鼓を見に行って来た。 

我が家からは木津川を上流へ約10kmばかり、三重県伊賀名張地方に源流域を持つ我が木津川が山城平野に差し掛かり、東西の流れを南北に変える少し上流、木津川左岸の御霊神社で行われた。

御霊神社前を横切る府道を挟んで「敬神組」と「拝神団」、二基の布団太鼓台が人垣に囲まれ、大きい布団を三枚重ねた頭を突き出している。

布団太鼓といえば、ここ山城から西へ、生駒山を越した河内地方が本場、ここ木津の布団太鼓も江戸時代後期、地理的にも近い河内方面から伝わり、賑やかな太鼓や掛け声で豊作を感謝して始まったと言う??

一時から始まる予定の宮入は、少し遅れて府道の車を暫し通行止め、40~50人程の担ぎ手に担がれ・・・・

太鼓の音や掛け声と共に神社の境内へと突き進んで行く。

鳥居を潜って境内に入り・・・・

拝殿前を横切り、所々で練り込み境内を3週。

この日御霊神社では二基の布団太鼓台神輿が宮入りを済ませた。

因みに「木津御輿太鼓祭(木津祭)」として木津川市の無形民俗文化財にしていされて居る。

撮影2014.10.25


忌明けの傘の餅

2014年07月08日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

四十九日の忌明け法要の傘の餅の事は知って居たが、その作法などは全く知らなかった。

 

僕自身、山城の田舎育ちの田舎住まいですが・・・集落や地域にによりその作法は随分違う。

もう数えられないほど忌明け法要に参列するものの正式??作法の傘の餅を目の前にしたのは初めて。

傘の餅は1升の餅米を蒸し、その半分、五合で丸小餅を49個と残り五合で大きなのし餅を造り、49個の小餅の上に傘の様に掛けておく。

この餅は忌明けの法要で何度となく見てるのだが・・・

お寺さんの法要が済むと、やおら,まな板と包丁を用意し、親戚の長老婆さんとお寺さんとの合同作業・・・

のし餅をまな板の上で、チョコチョコと切り分け人型の誕生。

これは、黄泉の国へ故人が旅立つ姿を表し、頭には菅笠、右手には杖、左手には数珠を持つ姿だそうです。

 残りの餅や人型の餅を参列者で分け合い食すと、故人が無病息災を与えて呉れるとか??

体の悪い部分の餅を食えば故人がそれを一緒に持ち去って呉れるとか??言われてる様です。

撮影2014.3.29

 


京都府精華町 祝園(ほうその)神社の居籠り祭り(三日目-綱引き式)

2014年02月01日 | 神事:行事:寺社: 仏像

祝園(ほうその)神社「居籠り祭」の第三日目、綱曳(つなひき)の儀を見てきた。

<この画像だけは2013.2.6撮影のもの>

祝園(ほうその)神社は我が山城、精華町祝園、木津川右岸堤直下に有り、 「崇神天皇」の時代に、朝廷にそむいた武埴安彦(たけはにやすひこ)がこの地で討伐され、その霊は鬼神となりこの地ににとどまり、災いを起こしていた・・・、この霊を鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが祝園神社であるといわれています。

<祭りの間、境内中央、榊の両脇に砂盛をし、木の鉾を立て二本をクロスさせている>

この地「祝園」は難読地名の一つにも挙げられ「ほうその」と読みますが、古来「武埴安彦の乱」で戦場となり、多くの死者を葬ったこの地を「葬園(はふりその)」と呼び、後「ほうその」と読みが転嫁、縁起の悪い「葬」の字は「祝」の字に変わったようです。

そんな古い謂れの祝園神社では正月の申の日から三日間「いごもり祭り」と称する神事が行われる。

「いごもり」は「忌籠り」や「斎籠り」とも書き、その昔には、一定の場所に物音一つ立てずに籠り、外部との接触を断つのが習わし、その習わしが現在にまで残り、旧家の一部には玄関に筵を張り、明かりや音が外部に漏れないようにして神事に服している。

<「御田の儀」が行われる道筋には神の渡る白砂が一筋長く続いている>

「いごもり祭り」は一日目、怨霊の例を鎮め神を迎える「風呂井の儀」、二日目大松明を担ぎ境内より約1km、田圃の中に小さく残された「こうのもり」と呼ばれる場所まで行き、五穀豊穣を願う「御田の儀」・・・・・この二日間は暗闇の「静」の中、粛々と行われる。

さて、僕の見てきた三日目、「綱曳の儀」は、前夜までの「静」の祭りとは一転、昼間明るい内に、老いも若きも集まり賑やかに行われる「動」の祭り。

用意されていた綱曳き用の綱は笹付きの青竹三本を中央の笹環に通し結わえたもの・・

1月15日午後2時過ぎから三々五々、人々が集まり、竹綱を参道まで引きずり出し、笹環を鳥居の真下に据え準備万端。

因みに中央の笹環はこの地で斬殺された「武埴安彦」の首を型どって造られたものだと言い伝えられている。

子供達が学校から帰り人数が揃うと綱引きのスタート・・・・・・神官は中央に立つものの、それほど厳粛さもなく和気あいあい。

勝負は三番勝負、今年は2対1で奥側、北地区の勝ち・・・・勝負でその年の豊凶を占うと言うが・・・・・凡そ皆さん信じてないらしく、地区のリクレーションと言った風・・・・。

おまけに今年は1回目の勝負で中央の笹環が断裂、応急措置のうえ勝負を続けたが、不平不満を言うでもなく、誰もが苦笑い。

役目を終えた竹綱は参加者の手により引きずられ・・・・・

神社より南に約300m、出森(いずのもり)と呼ばれる、武埴安彦(たけはにやすひこ)斬殺の地まで運ばれ・・・

素早く解体、村中の正月飾り共々盛り高く積み上げられ・・・

火が点けられ・・・・・・「いごもり祭り」の行事は全て終了。

一ヶ月後、対岸の旧山城町「和伎神社(和伎座天乃夫岐賣神社)」でも「いごもり祭り」が行われる。

撮影2014.1.15


福井県若狭町安賀里(あがり) 諦應寺(たいおうじ)立ち木観音

2012年04月01日 | 神事:行事:寺社: 仏像

福井県若狭地域に生木の立木観音が有ると言うのであちらに行ったついでに寄って来た。

我が家近く、厄除け観音として有名な大津市南郷の立木観音は、弘法大師が生木に等身大の聖観音を刻んだものとして信仰されているが、その実、秘仏として公開された事もないし誰も見たことが無く、実体は無いに等しく全く不明です。

そのように、立木観音などは大方は枯れて朽ち果てる物だと思っていたので実際に彫られた樹も仏像も元気に現存しているのなら是非見てみたかった

琵琶湖西北岸より若狭に伸びる国道303号線、県境を越え旧上中町に入ると「立ち木観音」の有る諦應寺(たいおうじ)も直ぐ近く。

安賀里集落外れ、背後の低い山の西向き斜面に建つ諦應寺(たいおうじ)は室町末期に創建された曹洞宗の禅寺で、石段参道脇、瀟洒な山門を背景に立つ公孫樹の大木に刻まれています。

樹齢450年にしては成長が果々しくないように思える公孫樹の大木は・・・・、やっぱり大きく伐り削られたこの立木観音が成長を妨げているのだろうか??

目通り5m足らずの主幹を舟形光背状に深く削りこみ、凡そ等身大の十一面観音立像を厚く刻み出している。

観音像表面は防腐剤の透明樹脂で何度も何度も塗り固められたのであろう、すっかり生気を無くした通常の木造仏に近いが、やっぱりあちこちにはひび割れが生じ、右手や脚部は朽ち果てたのか別色の樹脂で塗り固められている。

幕末の頃、集落一帯に良くないことが続き、その時の住職が人々を苦しみから救うべく一念発起、この公孫樹の大木に十一面観音菩薩を刻んだようです。

胸に開けられた大きな穴は蓋付きの納経孔・・・少し痛々しく現在経文は取り出され、別の場所にあるようです。

それにしても公孫樹も枯れず、立木観音が木肌に埋まる事も無く、もう100年以上もお互いに生き続けている。

仏像自身それ程良い出来だとは思えないが・・・・、立木観音として100年以上もこんな状態で変わらず信仰され続けてきたようです。

境内の北斜面より突き出したちょっと絵になるアラカシ?の巨樹。

もし、こちらの木に立木観音を刻んでいたら今頃洞ばかりに成り、すっかり朽ち果てていたかも??

周りには僕の好きな石仏も数多く在りましたが・・・

これといって目を見張るほどのものは見出せなかった。

撮影2011.5.3


三重県旧美杉村下ノ川 仲山神社ごんぼ祭り

2012年03月02日 | 神事:行事:寺社: 仏像

こちらは三重県三大奇祭の一つ数えられる下ノ川仲山神社のごんぼ祭り、前回の飛鳥座神社と同じく男女根崇拝に拠る素朴な子孫繁栄・五穀豊穣を願う祭りです。

祖霊を畏れ鎮め子孫繁栄・五穀豊穣を祈る「祭り」は本来「祀り」と書き表すべきものだと思いますが・・・・??

旧美杉村下ノ川は三重県津市の中心街から1時間、約40kmも南西へ走った布引山系、八手俣川沿いの谷間に集落が点在する懐かしい景観の残る里山地域です。

そんな一画に鎮座する仲山神社の祭神はあの知る人ぞ知る「金精さま(金山彦命)」、あの男根崇拝で良く知られています。

境内への石段途中にはなんとも妙にコミカルな狛犬さん、阿形の方も・・・

吽形の方にも立派な一物・・・しかしこれが狛犬だとは笑ってしまいます。

祭りは毎年極寒の2月11日、精力強壮の薬だという「ごんぼ(牛蒡)」「ボラ(鯔)」を供物として行われている。

本殿での祭典が終わると鬼をめがけての弓引き・・

此処での的の鬼はこんな異体文字です・・・・、鬼を矢で射て厄を祓う何処でも良く見かけるものですが。

これが終わると暫くして境内石段から輿に載せられ、杉の木で作られた男根が氏子によって担ぎ上げられてきます。

続いて稲藁で造られた「女陰」・・・、いやに人手の少なく思えるのは、僻地の人口減少化の為なのだろうか??

もう引退しても良さそうな人まで担ぎ出されているような・・・・

境内に上がった男根と女陰はひとしきり合体を繰り返すが担い手に若者が少なく少し迫力を欠く・・・。

まあ直立していて中々立派な一物です。

こちら中々立派かどうか良く解らないけど複雑怪奇な形をした女陰です。

こんな形をしているもんかなあ・・・・としげしげと見廻しました。

しかしひとしきり済めば「祭りのあとのさみしさは~~~」・・・いくら奇祭とは云えここは片田舎過ぎるもん。

撮影2009.2.11


奈良県明日香村 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)御田(おんだ)祭り

2012年03月01日 | 神事:行事:寺社: 仏像

もう二年間も御蔵入りしていた画像を引っ張りだして来ました。

御田祭りと言うのは我々農耕民俗にとっては切ない願い、五穀豊穣を願ってどの地方の神社でも春先いろんな形で行われる。

西日本三代奇祭として知られる此処、飛鳥座神社の御田は毎年二月第一日曜日に執り行われ、その一部で行われるいかにも空け広げな、男女和合を象徴化したコミカルな所作が大人気・・・・・参拝参観者(僕達、出歯亀も含め)で狭い境内は鈴なり状態です。

飛鳥座神社は「むすびの神」としても良く知られ、境内にはひと目も憚らず「陽陰石」が数多く見られる。

先ず最初に現れるのは牛と天狗・・・・・・これは何処の神社でも似たか寄ったか。

まあ面白おかしく、形どおりの農耕所作が進みます。

松葉を早苗に見立てた神官に拠る田植え・・

早苗を観覧者に撒いて第一部の終了・・・、松葉早苗は個々の水口祭りにでも使うのだろう・・・。

ここで一幕が無事終了、待ちに待った(笑)二幕目「種付け神事」は・・・オカメが天狗に手を引かれて恥ずかしそうに登場・・・・・。

舞台で一物を揮いい立たせる天狗、そのしぐさのコミカルさが観衆の笑いを誘う

天狗とオカメが演じるその様は、見るのも憚る男女の夜の営みそのものズバリ、とてもオープンで開放的な日本の性信仰を伝えるものとして、民族学的にも興味深い神事だと言われています。

飛鳥では稲渕の男綱栢森の女綱の勧請縄にせよそのものズバリを現す性信仰が根付いている。

後ろから、もっともっと、と翁が手助け・・・・これが真昼間から神前で行う仕草か??、しかし神の起源は案外これが第一かも??

命の再生産を喜ばぬ神は居ない。

和合の股間を処理したティッシュは(なんとも空け広げで生々しい)「拭くの紙」が「福の神」に転化・・・翁と天狗が観衆めがけて撒きますが、誰もがわれ先を競って奪い合います。

五穀豊穣も子孫繁栄も農耕民族の我々にとっては欠かせない営みだったに違いない。

撮影2010.2.7