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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良、天川村栃尾観音堂の円空仏

2010年11月29日 | 神事:行事:寺社: 仏像

天川村の中心地村役場の有る河合の交差点より県道59号線で十津川支流の天ノ川沿いにあの天川弁財天を過ぎ、南西進すること約15分,天之河沿いの小さな集落栃尾に着く。

集落の入口辺りには円空仏の幟がはためき誰にもそれと解る。

県道59から左折、天ノ川にかけられた橋を渡って観音堂の有る山裾に車を進めると駐車場も有り、近代的なトイレまで用意されていて驚き。

 

観音堂は質素ながら1.5間四方の高床素木のお堂、勿論開けっ放しのお堂はいつ誰が行っても参拝出来るように成っており,どこかの有名社寺の様に拝観料を採るでもなく管理人が居る訳でもなく、そんな処にはこちらはこちらで賽銭も弾みたくなるから妙なもんです。

この道路は何度となく通るのにここを訪れるのは今回が始めて、円空仏がこんな奈良の山奥の村に有るとは最近まで知らなかった。

この観音堂ではつい最近までこれらの仏像は弘法大師が一夜にして刻んだ仏像として信仰されてたようで、関西では何でもかんでもお大師さん、円空さんも草葉の陰でにが笑いしてたのかも・・・・。

観音堂の祭壇はガラスの扉が取り付けられてるものの真近まで寄って参拝撮影も出来る。

中央には聖観音立像137cm、脇侍は弁才天と金剛童子でそれぞれ約85cm、特に左端に祀られた御法神像は円空が初めて刻んだ御法神像として注目されているようです。

円空仏のあの荒々しい彫りに穏やかな微笑みをたたえてその特徴が良く現れています。

円空は生涯に12万体の仏像を彫ったと伝えられる。現存するものでも5000体を超えるといわれているが、その大部分は円空の故郷、美濃、飛騨地方で4000体を数えると言う。 円空はその生涯を山岳修験者として暮らしこの天川村の大峯山にも2度入山、越年修行の際に刻まれたものがこの栃尾観音堂に安置されたもの様です。

観音堂左手の斜面には円空お手植えだとする公孫樹が有って色を添えているようです。

撮影2010.11.20


龍岩寺奥院礼堂 木彫仏

2010年05月23日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 
阿弥陀如来像293cm

しかし、見事な仏像彫刻です、奈良や京都のそれとは一線劃していて、かってこの様な木彫物は見たことがない。

楠の一木彫り、所謂丈六坐像でまるで、臼杵の磨崖石仏を思わせるような素木仕上げ 、木目に沿った細かい干割がなければ石仏かと見まごうばかりです。

 

大分県宇佐市院内町字大門の県道から石段を少し登ると奥まった山裾に小さな本堂の龍岩寺があり,訪れる人も少ないようで少し荒れた感じは否めない。住職が?所在無さげに独り留守番をしており拝観料を支払い奥の院礼堂への山登りとなる。

 

山道をを登る事約10分程度か?あの鳥取三朝の投げ入れ堂を思い起こすような、目の前の岩壁にしがみ付くようにこの礼堂が建っていて、本来ならば礼堂直下の一木造りの階(きざはし)と呼ばれる楠の一本造りの階段をよじ登る、それが本来の参道なのだが現在では危険防止のためか?通行禁止になっていて、大きく山肌を迂回して礼堂へと辿りつく。

 

 英彦山系につながるこの一帯は古くから修験道の実践行場だったようで、龍岩寺もそれら修験者たちの道場であったのか?岩窟の奥に阿弥陀如来坐像を中尊とする三体の仏像を安置し、その前面に張り付くような礼堂を設けています。

 

仏像は岩壁と礼堂の間にあり、その中に岩のゴツゴツした巌窟を背や天井にして礼堂より丈が高いかと思われる巨像三体が安置されているが、何故に磨崖石仏では無く、楠の巨木から彫りだした一木彫りの仏像なのかと不思議な気さえする。

 

棟礼に依ると「奉修造岩屋堂一宇」「弘安九年歳次丙戌二月廿六日」とあり、1286年に建立された由、平安時代に造られた様式に倣って鎌倉時代に再建されたものと考えられる。
 
 

 阿弥陀如来坐像を中央に、向って右に薬師如来坐像、左に不動明王坐像と並んでいるが、仏像の前に格子柵の目は細かく少し離れると邪魔になって全体像を見届けることは出来ない。

 
 
格子にレンズを突っ込み撮影してみたが、格子と仏像の間に適当な引きが無く、一体の全体像を捕らえる事もおぼつかなく況してや、三体を同時に写す事は不可能なのでちょっと合成して見ましたが現物のような迫力は出ません。 仏像の構成や配置も独特なもので、中央に阿弥陀があるものの所謂三尊形式の阿弥陀三尊では無く、左:薬師如来、右:不動明王共に丈六坐像を越えるの約3mの巨像で一体一体が単独仏の様でもあり・・・・それでもやっぱりこうして三体1対で完結されているという珍しさです。

 
不動明王像 283cm

仏像の一体一体については専門家ではないので良く説明できないが不動明王などは良く見かける所謂、憤怒相ではなく素人の僕には穏やかな顔容に見える。 こうした、不動明王はこの地豊前、国東の磨崖石仏で見かける不動と共通していて、この地独特の天台修験と民間信仰の複雑な結び付きによるものだろうか??
 

木造薬師如来坐像  303cm

それにしても見事な仏像であることには違いなく、平安時代後期(12世紀)重要文化財。

                                   

     撮影2010.5.2


吉祥龍穴(龍穴神社)

2006年05月04日 | 神事:行事:寺社: 仏像
龍穴神社から、室生川沿いに500m程遡ると、左手に山へ入る道路があって、吉祥龍穴の案内標識が建っている。

 その道路をどんどん登っていくと15分程度で右側に小さな白い鳥居が在って、龍穴神社の奥宮「吉祥龍穴」へと降りて行く崖道の入口です。

狭い階段を下りると、「竜穴川(闇加利谷)」に至り、拝殿の対岸に大きく口を開けた「龍穴」があり、注連縄がわたされています。

 


「龍穴」拝殿付近に下りていくにしたがって、鈍感この上ない僕にも身にしみこむような霊気を感じるのが痛いほどわかる。

 ここは龍穴神社の聖地、龍穴の奥深くに龍神が棲むと伝えられ、平安時代から雨乞いの祈願が盛んに行われ、記録に残っているものだけでも弘仁8年(817)から嘉応2年(1170)までの352年間に39回も行われていると言う。




水は大地を潤し、いのちをはぐくむ神そのものであり、自然崇拝を、龍と言う神格化された偶像に見立てたものだと思う。

 

ここに来て、命の再生産に畏敬の念を抱いて祈った古代人の心根に、思いを寄せるのもいい。

この辺りは僕の住む山城の母なる川、木津川の源流域で、室生川、宇陀川、名張川、木津川、淀川と名前を変えながら大阪湾へと注いでいる。

 僕のBLOGは、あくまでもPHOTOが中心なので詳しくは・・・・・。

 贔屓のこのページから

場所はここ。

東大寺二月堂、お水取り(おたいまつ)-1

2006年03月12日 | 神事:行事:寺社: 仏像
関西に春を呼ぶ行事として有名な東大寺二月堂がお水取りが今まさに進行中です。


大仏殿裏から二月堂を見る

先週の金曜日(3/10)の夕方、仕事もそこそこにして二月堂まで出かけてきました。 春をよぶ小雨の中、大仏殿の裏から二月堂に通じる裏参道ははにすでに人並みが続いていた。


二月堂裏参道から



 裏参道から境内に入る結界には勧請縄が張られていて、う~~ん、さもありなんと1人で、納得してしまいました。


 境内はすでに人ごみで人垣を掻き分けなければ前にはすすめない状態でした。 食堂の庇にはこれから出番を迎えるお松明がつりさげられています。


水がくみ上げられる若狭井


鵜の宮神社

 お水取りは、修二会といい、二月堂の本尊である十一面観音の前で全ての罪や過ちを懺悔することにある。



これは11人の練行衆(参篭、おこもりする修行僧)が人々に代わり本尊に個人だけでなく国家や社会が犯した全ての罪や過ちをざんげし罪障の消滅とともに仏の加護を願う物であるという。


 


おたいまつは、お水取りのハイライトとしてすっかり定着しているようにおもわれているが、これそのものは 練行衆が二月堂に登堂する道明かりに過ぎないと言う。


昼間の二月堂から・・大仏殿を見る

 しかし、この火は見る人にとって心を打つもので、今のようにショウ的な演出がされていったものらしい。
 ゆうがたの、7時きっかりに境内の明かりは消灯され、1本目の松明が登廊の下の方から、お堂の上の方へと上がっていく。 上がった途端その松明が色々な技巧をこらして振り回され、いっぱいの観衆の上に滝のように火の粉が流れ落ち、その火のさかんな動きに歓声が上がる。


 
鐘の音と、ダンダンと何かを硬いもので踏みつけるような音が絶え間なく聞こえてくる。 実際の本行は二月堂の堂内で行われるので境内からは見るすべもなく、又特別に入堂するのも かなり難しそうです。


二月どうへ

 この、お水取りの行は今年で1255回目を迎えるという。 とてつもない長い時間を、かけて毎年うけつがれてきているこの密教的な行事に誰もが神秘的な魅力をおぼえる。

詳しいことは、ここからみられます。

三重県旧島ヶ原村 正月堂大餅会式(練り込み)

2006年02月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

正月堂は、伊賀の島ヶ原にある古刹で、奈良東大寺の二月堂で行われる修二会に先立って行われる修正会で有名なところです。

毎年2月11日と12日に権修されている。

XXXXXXXXX寺の案内板より。XXXXXXXXXX

観菩提寺は俗に正月堂と称し(山号普門山)奈良東大寺の実忠和尚により開創されたという由緒ある寺院。 奈良東大寺二月堂のお水取り(修二会=しゅにえ)に先駆けて行われることで知られ、ここ正月堂の修正会こそ、発祥の地ともいわれている。

いつもは訪れる人も少ない、山里の正月堂も、この日ばかりは 付近の道路に車が溢れ、境内には露店も立ち並んで、人垣がそこここに出来て大賑わいであった。

この日は本堂も開け放たれ誰でもが本堂内に歩を進められる状態になっている。

この正月堂の本尊は十一面観音で、秘仏となっており33年に一度開扉され、次回の開扉は、確か平成25年ときいた。

本堂内は黒光りする扉の厨子と脇侍の四天王が見えるだけの簡素なつくりで、神秘的な威厳に満ちている。

現在この十一面観音共々,本堂、楼門が国の重要文化財に指定されている。

最初に正月堂の石段を駆け上ってきたのは 、「こどもせきのと」と染め抜かれたハッピを着た子供たちの 練りこみ行列。 &

この大餅会式(練り込み)の事を節句之頭(せきのと)と呼んで 、 掛け声は「エトオッー」「エトオッー」と勇ましくきこえてくる。

大餅会式は,講社の当番・頭屋の家を中心に、もちつきの道具調べ、餅米を清める水を受けるお水取り、もちつきを経て、11日午後、行列を仕立てて正月堂に餅を奉納する練りこみなどの行事が行われる。

これらは、その年の五穀豊穣と除厄を祈るためのもので、奈良・東大寺二月堂のお水取りと同様、奈良時代の古密教の行法で営まれる伝統儀式。

お水取りに約一カ月先駆けて行われ、春の女神に見立てた本尊・十一面観音を呼び覚まし豊作などを祈る。

正月堂の前で練りこむ「せきのと」。

「エトオッー」「エトオッー」掛け声に見物人は、もっと大きな声を出してなどとはやしたてる。

すでに、お酒も入ってるのか、みんな陽気で勇ましいが、足取りはおぼつかない。

石段の前で見物人に大餅を投げたりしている。

今年の頭屋(とうや)がそれぞれの講の幟を振りながら行列の先頭に立つ・・・・既に男たちは十分に酒に酔っており、行列は乱れがちである。

成花(なりはな)が、参道の両側に陣取る見物人の顔をかすめるように振り回される。成花とは、長さ一間半ほどの若桜の枝に掌大の餅花をつけたものだ。

続いて節句盛(せっくもり)が進む。節句盛とは「鬼頭(おにがしら)」である。それは、そば殻を棕櫚でくるみ鬼面を作ったもので、角は人参、両眼は蜜柑、口と眉は栗の実、鼻は大根、耳は餅か大根で作られている。

五枝の松(ごえのまつ)、いばり栗、豊年俵が続き、最後に5人の若衆に担がれた大餅(だいひょう)が入場する。大餅は穀霊、祖霊が宿る大鏡餅で、5枚と定められている。1枚は六升から一斗、直径約一尺、厚さ四寸で、それぞれ白布にくるんで背負って運んでいる。

楼門前の石段を「エトオッー」の掛け声でかけあがる。

かつて島ヶ原村には9つの講があったといわれるが、現在は中矢方(なかやほう)、大道方(だいどうほう)、西浦堂(にしうらどう)、元頭村(えとうむら)、南成方(なんせいほう)の5つの講を残しているという。

しかし、この日、見たのは四組の「せきのと」であった。

そして今では、子供たちが練りこむ「こどもせきのと」が加わっている。

石段を、駆け上がる。

楼門まえを練りこむ・・・・・。

楼門をくぐって本堂へ向かう「せきのと」・・・。

本尊の十一面観世音は堅く閉ざされた堅固な木扉によって守られている。本堂に練り込むと勢い込んだ若衆は、大餅を「エトオッー」と叫ぶやご本尊に向かって投げつける。

床をドンドン踏み鳴らし、のぼりのさおで床をならす。

これも本尊の十一面観音を目覚めさせるためのものだろう・・・。

各講の幟や成花、節句盛、大餅などは供物として納められ、「一に俵踏まえて、二ににっこり笑ふて、三にゃ酒つくって、四ツ世の中よいように、五ツいつものごとくに、六ツ無病息災に、七ツ何事ないように、八ツ屋敷広めて、九ツこぐらをたて並べ、十でとんと収めた」と数え歌を歌い手打ちをする。

お供え物を飾りつける。

床を踏み鳴らし幟のさおで音を出し、「エトオッー」「エトオッー」の掛け声を掛け合う子供「せきのと」。

飾りつけられたこども「せきのと」の供え物。

節句盛と呼ばれる「鬼頭(おにがしら)」。

供物の中では一番目を引くユーモラスな鬼。

12日には、真言密教の儀式、「だったん」の行法が行われたが、僕は行けなかった。

それは来年のお楽しみにとっておこう。

撮影2006.2.11


もちばなさん

2006年02月03日 | 神事:行事:寺社: 仏像
餅花は稲の稔りを予兆するものとして豊作を祈る切実な願いが込められている。

「そのいち」が舞う神楽はわずか10分あまり・・・。

写真に残すのも、ぶら下がった餅花が邪魔になってシャッターチャンスが少なすぎる。

もちばなさん

2006年02月02日 | 神事:行事:寺社: 仏像
この、餅華さんは神功皇后の故事に由来していると言われ、新羅との戦いに赴く途中この地に立ち寄った皇后が、泣いている子供あやすため餅をつけた竹串を花のようにして見せている土地の人に感心して作らせたことから始まったと伝えられている。

もちばなさん

2006年02月02日 | 神事:行事:寺社: 仏像
相楽神社の餅華さんは一説には千七百年の歴史を持つといわれており、厄除けと五穀豊穣を祈願して行われるもので、この餅華は北前座、南中座、北中座などの座の人々が製作して、二月一日の午前〇時に拝殿に吊り下げられるという。

この餅華は、「しょうまら」と呼ばれる藁で土を包んだひょうたん型の土台に、二つに割った竹串の一方に二つの餅、もう一方に三個の餅をつけたものを、12本突き刺したものが24個拝殿に吊り下げられる。