goo blog サービス終了のお知らせ 

愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山城の神社・・・京田辺市宮津/佐牙(さが)神社

2016年12月06日 | 神事:行事:寺社: 仏像

京田辺市宮津の府道22号線(八幡~木津)に接して東向きに「一の鳥居」が建ち、その奥一直線に長い参道が山裾まで続いている。

 

「二の鳥居」

社伝には敏達天皇の2年(573年)始めてこれを祭り、造酒司(サケツクリノツカサ)の奉幣があったと伝えられ、往古山本村にあったが・・・

「佐牙乃神社の旧跡」

垣武天皇延暦13年(794年)現在の地に創建されたと伝えられ、山本村はこれを氏神とし、今なお旧地を御旅所として居る。

 「延喜式神名帳」の綴喜郡の佐牙乃神社に比定され、社殿は永正6年(1509年)兵火にかかり、永正11年8月再建、更に天正4年(1576年)火災で焼失、同13年、新築して遷宮式をあげたとつたえられている。

 本殿二座・国指定重要文化財

天正十三年(1585)再建、身舎の蟇股は左右対称の図案で室町初期:春日造:檜皮葺。

祭神 :佐牙彌豆男神、佐牙彌豆女神

撮影2015.6.30


京田辺市松井向山 天神社(アマツカミノヤシロ)

2016年11月28日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

 京田辺市西北端、八幡市と市境を接する松井地区の最西端、小高い山に天神社が鎮座する。

在所道の端に石鳥居があり、その先に境内まで上る石段参道がある。

ここの神社は天神社で有りながら、あの「菅原道真」を祭神とする天満宮では無く、その昔、天津彦根命(アマツヒコネ)を祭神とし「アマツカミノヤシロ」と呼ばれていた。

「社伝によれば、もとは松井交野ヶ原(カタノガハラ)に創祀されたものを、現在地に移したという。

長岡京遷都の翌年・延暦4年785、桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが続日本紀にみえ、これは枚方市樟葉の交野天神社とされるが、この地松井にも交野ヶ原・柏原の地名がある

江戸中期の古文書・山城志1734「明応2年14939月造営の社殿棟木に、『延暦248052月2日草創』と記してあり、延歴年間の創建が推測できる。

現在の本殿は、江戸中期・享保2年1717 の建築、平成4~5年に屋根をもとの檜皮葺きに戻し、彩色の修理をおこない、鮮やかなかつての姿がよみがえっている。

撮影2015.8.5

 

 


山城の神社・・・城陽市・久世神社

2016年11月20日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

最近すっかり化粧直しがされ、以前の様な厳かさに欠けてまるで塗り絵の様な浅ぺらな本殿になってしまいちょっとウンザリ・・・

そこでで古い写真を探し出してUPしておきます。

一の鳥居の少し先でJR奈良線の踏切があり、参道を断ち切って通勤電車が走り抜けていくチグハグサさあ否めない。

旧久世村の産土神とされ、かつて若王社(にゃくおうしゃ)、白鳥の宮(しらとりのみや)とも呼ばれたようで祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭祀する。

創建伝承として、祭神の日本武尊はその死後、一羽の白鳥としてこの地に飛来、この地に祀られたのが当社の始まりという。

 

 日本武尊妃の山代之玖玖麻毛理比売(やましろくくまもりひめ)は、この地の古代豪族、栗隈県主(くりくまあかだぬし)の出自とされ、栗隈氏が当社を勧請したともいう。

『万葉集』巻7-1286にある飛鳥時代の柿本人麻呂(660-720?)は「山背の久世の社の 草な手折りそ わが時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ」と詠み、その創建は神代に始まる。

尚、室町時代中期に建てられた本殿は国の重要文化財にも指定されています。

 撮影2006:2015

  

 


山城の神社・・・城陽市・水度神社(みとじんじゃ)

2016年11月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

JR奈良線、城陽駅下車、東へ約1km鴻巣山麓に鎮座する式内・旧府社

我が中学校の頃には1kmにも及ぶ長い参道は、まるで誰も通りはしないのでスポーツクラブの練習場に成っていたり・・・

一の鳥居はJR奈良線より少し西側、急なら街道に面して建ち・・・その昔は鬱蒼とした松や椎並木が奥が見えないほど続いていた。

参道の突き当たり、山裾には二の鳥居・・・その奥に続く石段参道を登りきれば厳かな境内となる。

由緒板には「創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれば、清和天皇の貞観元年859正月、従五位下の神階を授かり、延喜の制には小社に列せられる」とあるが、一説には奈良時代初期(8世紀初頭)には存在していたと思われている。

深い森に囲まれた境内中央に拝殿(入母屋造・方二間・檜皮葺)・・・

その奥、唐破風の拝所と神域内に、千鳥破風の向拝をもつ檜皮葺本殿が南面して鎮座する。

 本殿は文安5年1448・室町後期)造営で、市内に現存する最古の建物・・・ちなみに国の重要文化財に指定されている

撮影2015/2016

 XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 

 


山城の神社・・・京田辺市天王「朱智神社(しゅちじんじゃ)」

2016年10月31日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

我が山城の隠れ里、京田辺市天王に神代の時代、古代豪族「息長氏」に依って創建された延喜式内古社「朱智神社」が鎮座する。

天王は京田辺市の西端・・・地理的、民俗文化的には、北山和の生駒や北河内に近いと感じられ、山城の異郷と言えなくもない。

 

集落最奥民家脇より山路参道を300mばかり登ると、森閑とした中に社標石柱と一の鳥居。

社伝に依ると仁徳天皇69年に古代豪族「息長氏」に拠り西峯に創建され、宣化天皇元年535)この地に移され、 主殿に息長氏祖神の迦邇米雷王(カニメイカヅチオウ)を、相殿に須佐之男命(牛頭天王)を祀り、早くから「牛頭天王社」とも呼ばれていた。

清和天皇の御代858--76に、牛頭天王を祇園の八坂郷感神院(八坂神社の前身)に遷されたことから、八坂神社の元となる神社といわれている。

慶長171612)年に建てられた本殿は、京都府の登録文化財になっており、建物は一間社流造、屋根は桧皮葺で、向拝の木鼻や、蟇股には、桃山様式の華麗な彫刻が多く見られる。

 

撮影2015.7.4

 


井手町多賀 高神社

2016年10月24日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 JR奈良線「山城多賀駅」東へ約1km足らず、南谷川を挟んだ天王山に鎮座・・・

南谷川に架けられた宮の前橋を渡ると、目の前は緩い石段参道に一の鳥居とその奥に二の鳥居が見え、その奥にも長い参道の続いてるのが見える。

長い参道を登って行くと明るく広く開けた境内に舞殿と対峙するように山城には多い割拝殿・・・

 本殿は北西に向かい集落を見守るように建てられ、創紀は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨によると伝えられ、祭神「高御産日神」の名より1字取って神社を「高神社」に集落を「高村」としたようです。

普段は拝殿より奥、瑞垣内には立ち入る事ができないのでちょっと遠目に撮影・・・元郷社・式内社だけの事はある佇まいです。

拝殿の切子扉にレンズを差し込んで撮影した本殿正面・・・因みに本殿は京都府指定文化財

こちらは拝殿脇に連なる摂社群で合計14社もも犇めいています。

撮影2015.6.8

 


京都・八幡市 石清水八幡宮頓宮殿

2016年10月18日 | 神事:行事:寺社: 仏像

山城の神社を代表する一社の「石清水八幡宮」その男山山上「本宮」への参道入口に建ち、参拝者が最初に出逢う神社建築です。

石清水八幡宮の一の鳥居を潜り、右手に放生池を見付けると直ぐに「頓宮北門」・・・

この門は昭和天皇の即位に際し京都御所にある春興殿の正門として建てられたもので、大礼終了後、昭和3年に下賜され此処に移されたものといわれている。

門を潜ってすぐ中央に南面して建つ頓宮殿・・・一般の神社でいう御旅所であり、祭礼の時に神輿が一時滞在する場所であるが、当宮では特別に頓宮殿と呼ばれて居る。


幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築、その後現在の社殿は大正4年に造営されたもので、62年ぶりに屋根の葺き替られ、桧皮葺の屋根が銅板葺に葺き替えられました。

両袖に回廊を持つ南門は、もと山上の南総門を昭和14年に移築、頓宮殿と同様、桧皮葺屋根から銅板葺屋根に葺き替えられた。

この南門を潜ると遠くに山への上り合図の二の鳥居が見える。

撮影2016.10.10


伏見の神社 藤森神社

2016年10月11日 | 神事:行事:寺社: 仏像

京都伏見、深草の里に平安遷都以前より鎮座する古社、社伝では神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。

社伝で云う「藤森」の地は現在の伏見稲荷大社の社地、その地に稲荷神が祀られることになり、当社は現在地に遷座したと言われている。

現在地は元は真幡寸(まはたき)神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。

本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命と、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀り、東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)を、西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王を祀る。

旧社格は府社、本殿は国の重要文化財、5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として知られ、菖蒲は勝負に通じるので勝運を呼ぶ神として信仰を集めている。

撮影2016.10.6


山城の神社・・・石清水八幡宮摂社・石清水社(いわしみずしゃ)

2016年10月05日 | 神事:行事:寺社: 仏像

石清水社(いわしみずしゃ)は、石清水八幡宮の鎮座する男山中腹に鎮座する摂社で、霊泉「石清水」を核とした摂社で、石清水八幡宮の名の由来となったとされている。

頓宮から表参道を登って来ると、途中、影清塚の分岐点で、そのまま参道をそれて右手の参道を登って行くと種の色も鮮やかな社が見える。

本宮御鎮座以前の起源に遡り、ここには石清水寺(現・摂社石清水社)が建立されて居り、平安時代の貞観年間(859~876)に奈良大安寺の僧行教が神託により宇佐八幡紳を勧請し、石清水八幡宮と称したもとに成っている。

石鳥居正面には鮮やかな館を載せた霊泉「石清水」が有り、右手には天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祭神とする本殿が建つ。

石清水は、厳冬にも凍らず大旱にも涸れない霊泉として、男山五水の中でも特に尊ばれ、現在でも、本宮にて斎行される年間100余の祭典には、当日早朝に汲み上げられた「石清水」が必ず御神前に献供されているようです。

撮影2014.2.5/2016.1.5/2016.7.15

場所はここ・・・

石清水社 日本, 〒614-8005 京都府八幡市八幡高坊 石清水社


山城の神社・・・石清水八幡宮摂社・若宮社/若宮殿社

2016年09月24日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

岩清水八幡宮拝殿脇に建つ、摂社・向かって左「若宮社」と右「若宮殿社」です。

さすが大社の摂社、社も大きく、ともに江戸前期(1624-1643頃)の建築とされ、今回の国宝指定からは漏れたものの既に重要文化財指定されている。

こちら向かって左側に建つ「若宮社」で仁徳天皇を祭神とし、貞観11年(869)鎮座。

こちら向かって右側の建つ若宮殿社で応神の皇女2柱を祀るとされ、若宮社は男性の守護神・・・若宮殿社は女性の守護神都市tれ

信仰が篤い。

 撮影2015.12.27


宇治市東笠取 清瀧宮(せいりゅうぐう) 

2015年09月15日 | 神事:行事:寺社: 仏像

鄙びた山間寒村にしては大きな境内を持つ立派な神社、東笠取清瀧宮(せいりゅうぐう)の紹介です。

東笠取は宇治市の東部、大津市と境を接する岩間山西側山裾にあり、宇治市街からは隔絶された様な鄙びた山間集落。

そんな東笠取から西笠取に抜ける林道の峠付近に清瀧宮参道があり朱塗の鳥居が建って居る。

境内はそこそこの広さがあり、参道を突当ってひだり奥に石垣積みで一段高い本殿、本殿正面には拝殿、右手には社務所。

僕は拝殿だと思っているのだが神楽殿と呼ぶ人も居てどうなんだかと思ったり・・・これが神楽殿だとしたら拝殿は無い。

笠取の地は往時、西国第十一番上醍醐寺領であり、上醍醐寺の「清瀧宮」を勧請したらしい。

小さな集落がこの神社を維持して行くのは大変だろう思う・・・・こんなところは一杯あるけど。

撮影2015.8.11


南山城村野殿 六所神社

2015年09月13日 | 神事:行事:寺社: 仏像
 
 
我が山城の最高所集落「野殿」の鎮守「六所神社」・・・・山城では唯一残された茅葺き屋根の拝殿と本殿が建つ
 
 
国道163号線、北大河原より林道をクネクネと車で約15分ほど登り切ると、なだらかな田圃の向こうに野殿の集落が見えて来る。
 
神社は集落の中心部にある公民館前の野道を進んだ最奥に鎮座してるが、この場所からは確認できない。
 
 
車で行けなくもないが歩いても5分ほど・・どんつきに大杉の神木があり、脇に石の鳥居が建つ杉並木の長い参道が続いて居る。
 
 
山道の奥、境内との結界には二の鳥居・・・その奥に凛として美しい茅葺き屋根の拝殿本殿。
 
この地は甲賀、伊賀と接する山間集落、山城では聞いたことも無い六所神社が鎮座している・・・・・元この地は信楽・多羅尾領だったと聴く。
 
 
本殿拝殿は江戸中期の茅葺き建築で京都府の登録有形文化財指定。
 
因みに僕の古いブログに、この神社の勧請縄を取り上げたページがあるので参考にしてください

撮影2015.8.24

 

木津川市木津大谷 旧・岡田国神社

2015年09月11日 | 神事:行事:寺社: 仏像

同社地、下段に旧境内旧社殿、上段に新境内新社殿が有り、この旧社殿は京都府文化財として保存されて居るとか??

昭和五十八年、社地を京阪奈学研都市開発の為「住宅公団」に売却し旧・岡田国神社の上段に境内を増設、新社殿を建築した。

下段の境内は新境内の足元下がったJR奈良線に沿った東側にある・・・・その昔、JR線路が参道を横切って施設された様??

現在は古い参道は使えなくなり、鳥居も南側に建て替えられた様な???

岡田国神社(おかだくにじんじゃ)は生国魂命と菅原道真を主祭神とし、八幡神(気長足仲彦命・気長足姫命・誉田天皇)を配祀。

旧社格は郷社にて式内社・・・社伝では、斉明天皇5年(659年)9月、生国魂尊を祀ったのに始まると伝えられる。

境内中央の舞台を取り囲む形で、舞台の東側に横長の大型拝殿が、脇には南北氏子詰所が配されその奥、石垣の上に透塀を構えた一段高い神域に、本殿2社が並び、その左右に摂末社が建つ。

拝殿は切妻造・瓦葺・明治前期建造、ところ狭しと古い絵馬などが掲げられ歴史を感じさせてくれる。

本殿は二社が並列・・・一間社春日造・檜皮葺・江戸中期-再建

神錆びて古いほうが如何にも有難く思えるのだが・・・

撮影2015.8.8


旧加茂町兎並鎮座 御霊神社

2015年08月26日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

旧加茂町の今は無き名古刹「燈明寺」の鎮守社でした。

JR加茂駅の裏、嘗て兎並のドン突きの高台にあった「燈明寺」境内に鎮座、現在主は横浜市の三溪園に移築され、その亡骸を守る様に御霊神社が建って居る。

本殿は三間社流造で南北朝時代の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されて居ます。

残された燈明寺十三重石塔の奥に御霊神社の朱い鳥居が覗いて見える

現在では兎並(うなみ)区の氏神として祀られています。

撮影2015.8.11


京都・和束町湯船五ノ瀬鎮座 白山神社

2015年08月24日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

滋賀県甲賀市信楽と境を接する京都府和束町湯船五ノ瀬の鎮守「白山神社」

現在の社殿は昭和二十八年(1953)の山城大水害により甚大な被害を出し、土砂をかぶって枯死した神木を売却、尊い浄財を得て再建された物の様です。

湯船の地名はこの白山神社参道脇に建つ覆屋に保存安置されている湯槽があり、ここから湯船の地名が起こったとされている。

神社は府道5号線に面して一の鳥居が建ち・・・

背後の境内まで一直線に石段参道が200段以上も伸びている。

山斜面の小さな境内には拝殿・・・・

往古この道は奈良、恭仁京、信楽、近江へ古道筋にあたり古代より拓けた土地だったようですが資料が少なく詳細は不明。

拝殿から一段上がった覆屋には本殿・・・祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)、伊邪那岐命、伊邪那美命と言われて居るので白山比神社(しらやましめじんじゃ)からの勧請であることには間違いない様です。

白山開闢の始祖と言われる泰澄が再興したという金胎寺が近くに有ると言う関係なのか??

ただの推論だが」それほど的外れでは無いかも??

撮影2015.7.28