Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽芸術の啓蒙思想

2019-01-21 | 文化一般
ニューヨークからの「ペレアスとメリザンド」を一部聞いた。その限りとても良かった。何よりも音色が美しく尚且つ明晰さがあった。そして幕間に流されたネゼセガンの解説が音響例示付の示唆に富んだ内容で、「パルシファル」の引用やヴァークナーの影響と拒絶など、この時点で完全に手本とするバーンスタインを超えていると思う。この指揮者は、キリル・ペトレンコが語り尽くさないことでのその先を敢えて残して置くのに対して、全てを明晰に語ることでの価値の意味を見つけたかにさえ思える。とてもクレヴァーな判断だと思う。改めて全幕を聞き直さないといけない。再演の限られた時間であそこまでもっていく実力は掛け替えがない。
Pelléas et Mélisande: Orchestral Introduction

Yannick Nézet-Séguin on Pelléas et Mélisande


「フィデリオ」の一幕を通した。参考音資料にベーム指揮の映画を使っていたが趣向を変えてバーンスタイン指揮のヴィデオを聞いてみた。序曲からして迫力があるのだが、どのような高度な判断でそのような表現になっているのか殆ど分からないことが多い。要するに音楽を学ぶための資料にはなりにくい。そこでオペラ映画に戻るが、これまた最初のホルンのドルツェからして和音の暗喩なのか何かよく分からない。それ以上に座付の管弦楽団がそれ以上の表現能力を持ち合わせていないということでしかないだろう。

Fidelio 1978-2

Beethoven "Fidelio" - Jones, King, Neidlinger ( Böhm ) - Spanish Subs


ベームがミュンヘンの座付管弦楽団を叱責するリハーサルヴィデオが残っているので、ついついそれを思い出すが、ここではお構いなしで進んでいる。一つにはヴィデオ制作なので適当に処理している可能性が強く、モーツァルト作品制作でも共通している。当時の光学録音などでの配慮がピアニッシモの演奏にも底上げ感があるのがヴェテランレコーディングアーティストのノウハウである。現実には更に細かな表現をしていた筈なのだが、ここではいい加減だ。

一幕フィナーレもリズム的な変化がどうも上手く振れていないようだ。ここはペトレンコに期待される。同じように四重唱は今回聞かせどころだと思う。ミュラー、カムペ、パワー、コッホが扱かれるところだろう。

同時に管弦楽団は序曲から細やかに和声の綾を付けて拘るところだ。ダイナミックスも細やかに付けていかないといけないとなると大変だ。ベーム指揮でも大きな枠組みの中で若しくは楽想によってテムポ設定がなされている。ノイエザッハリッヒカイトの代表的な音楽家であるが、実際はそうした計算でなっている。

一場の若い二人のデュエットから二場のマルツェリーネのアリアが初めて面白いと感じた。当時の三十過ぎのおっさんの音楽として聞くととても興味深い感情が赤裸々に歌われていて、こちらはタジタジする。そして四重唱へと続く。そのあとロッコのアリアからレオノーレ、マルチェリーネを交えての三楽章が挟まってマーチへと繋がる。

ベートーヴェンの書法が「魔笛」などを思わすところもあり、同時にそれ以前のバロックオペラの伝統を継承するとこともあるようだが、例えばベームの指揮では明らかに歌を立てることで管弦楽団が伴奏となったり、出たり入ったりの感じが否めない。それを克服するのは、声楽を器楽的に正しく歌わせることと同時に管弦楽のニュアンスを歌に寄り添わせることになると思うのだが、何かそこがこの作曲の演奏実践の難しいところのように思う。

よってピッツァロとロッコのデュオそれに続くレオノーレのアリアなども様式と音楽内容の葛藤のようなものも感じたが、もう少し調べないと分からない。如何にも啓蒙思想的な心情などや俳諧のようなものも表現としての面白さか。更に丁寧な音楽表現が要求されている。(続く



参照:
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事

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