日本では一人の航海士の問題で政権まで揺れているようだ。しかし、政府の高官が情報を流通したのでなければ大きな問題では全くないだろう。警官が強盗をしたほどの意味もない。
フィッシャー元外相が外務省内のパーティーで館内を移動している時に、偶々階段の裏の資料室でナチス時代のリッペントロップ外相の写真などを見つけた。そして、これを切っ掛けとしてアーカーヴの調査が依頼され、今回その結果報告書が大きな話題となっている。高級エリート官僚と時の政府との関係でもあり、ナチスドイツの積極的協力者としての外務省の姿に歴史の光が当てられた ― これは先ほどワシントンのドイツ大使館でも披露されて、イラク戦争時代の合衆国官僚への指針となるとされている。
ナチス政権も、たとえ暴力テロや強引な手法を駆使したとしても、現在の日本の民主党政権のように合法的な政権であり、超リベラルなヴァイマール憲章の元での国民の自由な意思でもあった筈だ。そのような視点からはエリート官僚もその国民の意思に沿って任務を遂行するのは当然の行いであったと、簡略すればそうなる。
そして、役人の理想として中立性が要求されれば、ナチスのユダヤ人迫害を事務的に淡々と推し進め、終戦と共に今度は戦後の民主的なドイツ連邦共和国でその任務を同じように果たすことなるのである。ここまでは必要悪の機能として暗黙の了解となっていたのだが、日本においても岸らが首相になったり中曽根のように戦後に政治の舞台で頂点に立った官僚も少なくはない。
しかし今回話題となっているのは、そうしたニュルンベルク裁判や東京裁判などの「勝者の裁く戦犯への厳しい評価」や、68年の扮装時に敗戦国のドイツや日本、イタリアで戦後の理不尽として真摯な若者に映ったイデオロギーの色に染まった一種の世代間闘争での「作られた悪の像」ではなく、歴史の中での各省庁における官僚の果たした積極的なユダヤ人迫害と最終計画が省庁の記録として整理された内容である。
所謂、必要悪の組織の中での中立的な役人の活動とは一線を隔したエリート官僚における人道的な犯罪行為である。その中で最も矢面に立たされたのが元大統領の父親であり外務長官であったエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーである。この19世紀からの名門の外交官である超エリートの氏がニュルンベルク裁判に係り、次男である若きリヒャルトが弁護を勤め、パリにおけるフランスのユダヤ人の「最終処理への輸送」の責任を問われ有罪となった事件は良く知られている。さらにトーマス・マンの扱いを巡って、当時ベルン在中のこの外交官が画策した件も知られている。
これを受けてリヒャルト元大統領はインタヴューに答えて、あの外交官象は「祖国の平和」をモットーとした父親のそれではないとして、人道的に多くのユダヤ人から感謝されたことにも触れられていないと批判しているが、こうした調査での歴史化の意味は評価しているようだ。また、有名な「荒野」演説のなかの赦しには父親へのそれも含まれているかの問いかけに対しては否定している。
またアーカイヴと言うものが「書き手の目を通した只の一次資料」でしかないと言う見解はまさにその通りなのだが、こうしたエリート官僚のナチ政権での活躍として、省庁でも詳しくは知られてはなかったアウシュヴィッツの殺人工場には一切触れられていないが、ナチス政権樹立後には外務省に新たなユダヤ人処理問題が新たな課題として任務となり、若い高級官僚が1936年後受けた教育にはダッハウの強制収容所のあり方などが含まれていると認定された。
そしてそうした風潮はナチス政権の12年間に留まらずそれ以前から軍国主義的な社会であり、そうした教育を受けていたからこそ戦後の左翼的グループであるグループ47の面々ですら終戦二三年前まではナチスの勝利を疑う者は殆どいなかったのである。さらに保守的な国軍がユダヤ人虐殺に手を汚さなかったことは知られているが、国粋的なユダヤ人差別とは別に、ドイツのエリート保守層におけるアンチセミティズムも明らかにある。
そうした状況下の1938年11月、エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーがパリでスイス人の特使に、外務省官僚も臨席した直前のヴァンゼーでのゲーリングのユダヤ人最終処理への決定を受けて、「 こ れ で 、ユダヤ人はドイツを離れない限り遅かれ早かれ完全に抹殺される」とする外交発言が、警告に当たるのか、警鐘に当たるのか?まさにこの判断が歴史化の道であろう。
要するに特に1910年生まれのこれらの高級官僚にとっては、たとえヴァイツゼッカーに代表されるようなエリートの保守的家庭の出身であろうとも、ユダヤ人問題は現実の業務課題であったとなる。例えば満州国駐在のドイツ大使はベルリンにドイツのパスを所持しているユダヤ人の見分けがつかなく困っているとして「J」を表紙に大きく記させたことも一つの始まりとされていて面白い。国外への出国もその後禁止されるのは周知の通りである。
冷戦下の68年の左右のイデオロギー対決から放たれて、上のようなエリート官僚が戦後の連邦共和国の発展に大きく寄与して、敗戦国の左翼過激派が同じように凶暴化した時代も歴史化されていく、そうした中でフィッシャー外相が受け取った手紙から外務省の高級官僚の死亡を切っ掛けとした「ナチ協力者への追悼の禁止」が数年前に話題となった ― 日本の戦争犯罪者の合祀問題はどうなっているのだ。丁度そのときには、既にフィッシャー外相は偽ヴィザの発効問題で外務省から追われるスキャンダルに瀕していたのであった。
インドへと飛んだオバマ大統領が国連でのインドの常任理事入り支持を表したが、日本のそれのときと同じように予めドイツの当局にそれが知らされていたことから、ドイツのそれを支持することも定まっていると言われるが、ドイツの官僚組織を代表とする政府組織とその社会における歴史化の前に、日本のそれはまだまだそこへと至っていないことが比較できる。もし今回の一連の漏洩事件において実際はそうした官僚組織であり一部エリート社会が組織防衛を最重要課題として画策しているとすれば、政権交代以上にそうした社会や政治手法の改革が必要なのは言うまでもない。
参照:
Das Auswärtige Amt und das Dritte Reich, FAZ
投資家の手に落ちる報道 2007-06-01 | マスメディア批評
素朴に宿る内面の浄化 2007-08-11 | 文学・思想
「ドイツ問題」の追憶の日々 2009-04-13 | 歴史・時事
素朴さ炸裂のトムちゃん 2009-01-25 | マスメディア批評
フィッシャー元外相が外務省内のパーティーで館内を移動している時に、偶々階段の裏の資料室でナチス時代のリッペントロップ外相の写真などを見つけた。そして、これを切っ掛けとしてアーカーヴの調査が依頼され、今回その結果報告書が大きな話題となっている。高級エリート官僚と時の政府との関係でもあり、ナチスドイツの積極的協力者としての外務省の姿に歴史の光が当てられた ― これは先ほどワシントンのドイツ大使館でも披露されて、イラク戦争時代の合衆国官僚への指針となるとされている。
ナチス政権も、たとえ暴力テロや強引な手法を駆使したとしても、現在の日本の民主党政権のように合法的な政権であり、超リベラルなヴァイマール憲章の元での国民の自由な意思でもあった筈だ。そのような視点からはエリート官僚もその国民の意思に沿って任務を遂行するのは当然の行いであったと、簡略すればそうなる。
そして、役人の理想として中立性が要求されれば、ナチスのユダヤ人迫害を事務的に淡々と推し進め、終戦と共に今度は戦後の民主的なドイツ連邦共和国でその任務を同じように果たすことなるのである。ここまでは必要悪の機能として暗黙の了解となっていたのだが、日本においても岸らが首相になったり中曽根のように戦後に政治の舞台で頂点に立った官僚も少なくはない。
しかし今回話題となっているのは、そうしたニュルンベルク裁判や東京裁判などの「勝者の裁く戦犯への厳しい評価」や、68年の扮装時に敗戦国のドイツや日本、イタリアで戦後の理不尽として真摯な若者に映ったイデオロギーの色に染まった一種の世代間闘争での「作られた悪の像」ではなく、歴史の中での各省庁における官僚の果たした積極的なユダヤ人迫害と最終計画が省庁の記録として整理された内容である。
所謂、必要悪の組織の中での中立的な役人の活動とは一線を隔したエリート官僚における人道的な犯罪行為である。その中で最も矢面に立たされたのが元大統領の父親であり外務長官であったエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーである。この19世紀からの名門の外交官である超エリートの氏がニュルンベルク裁判に係り、次男である若きリヒャルトが弁護を勤め、パリにおけるフランスのユダヤ人の「最終処理への輸送」の責任を問われ有罪となった事件は良く知られている。さらにトーマス・マンの扱いを巡って、当時ベルン在中のこの外交官が画策した件も知られている。
これを受けてリヒャルト元大統領はインタヴューに答えて、あの外交官象は「祖国の平和」をモットーとした父親のそれではないとして、人道的に多くのユダヤ人から感謝されたことにも触れられていないと批判しているが、こうした調査での歴史化の意味は評価しているようだ。また、有名な「荒野」演説のなかの赦しには父親へのそれも含まれているかの問いかけに対しては否定している。
またアーカイヴと言うものが「書き手の目を通した只の一次資料」でしかないと言う見解はまさにその通りなのだが、こうしたエリート官僚のナチ政権での活躍として、省庁でも詳しくは知られてはなかったアウシュヴィッツの殺人工場には一切触れられていないが、ナチス政権樹立後には外務省に新たなユダヤ人処理問題が新たな課題として任務となり、若い高級官僚が1936年後受けた教育にはダッハウの強制収容所のあり方などが含まれていると認定された。
そしてそうした風潮はナチス政権の12年間に留まらずそれ以前から軍国主義的な社会であり、そうした教育を受けていたからこそ戦後の左翼的グループであるグループ47の面々ですら終戦二三年前まではナチスの勝利を疑う者は殆どいなかったのである。さらに保守的な国軍がユダヤ人虐殺に手を汚さなかったことは知られているが、国粋的なユダヤ人差別とは別に、ドイツのエリート保守層におけるアンチセミティズムも明らかにある。
そうした状況下の1938年11月、エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーがパリでスイス人の特使に、外務省官僚も臨席した直前のヴァンゼーでのゲーリングのユダヤ人最終処理への決定を受けて、「 こ れ で 、ユダヤ人はドイツを離れない限り遅かれ早かれ完全に抹殺される」とする外交発言が、警告に当たるのか、警鐘に当たるのか?まさにこの判断が歴史化の道であろう。
要するに特に1910年生まれのこれらの高級官僚にとっては、たとえヴァイツゼッカーに代表されるようなエリートの保守的家庭の出身であろうとも、ユダヤ人問題は現実の業務課題であったとなる。例えば満州国駐在のドイツ大使はベルリンにドイツのパスを所持しているユダヤ人の見分けがつかなく困っているとして「J」を表紙に大きく記させたことも一つの始まりとされていて面白い。国外への出国もその後禁止されるのは周知の通りである。
冷戦下の68年の左右のイデオロギー対決から放たれて、上のようなエリート官僚が戦後の連邦共和国の発展に大きく寄与して、敗戦国の左翼過激派が同じように凶暴化した時代も歴史化されていく、そうした中でフィッシャー外相が受け取った手紙から外務省の高級官僚の死亡を切っ掛けとした「ナチ協力者への追悼の禁止」が数年前に話題となった ― 日本の戦争犯罪者の合祀問題はどうなっているのだ。丁度そのときには、既にフィッシャー外相は偽ヴィザの発効問題で外務省から追われるスキャンダルに瀕していたのであった。
インドへと飛んだオバマ大統領が国連でのインドの常任理事入り支持を表したが、日本のそれのときと同じように予めドイツの当局にそれが知らされていたことから、ドイツのそれを支持することも定まっていると言われるが、ドイツの官僚組織を代表とする政府組織とその社会における歴史化の前に、日本のそれはまだまだそこへと至っていないことが比較できる。もし今回の一連の漏洩事件において実際はそうした官僚組織であり一部エリート社会が組織防衛を最重要課題として画策しているとすれば、政権交代以上にそうした社会や政治手法の改革が必要なのは言うまでもない。
参照:
Das Auswärtige Amt und das Dritte Reich, FAZ
投資家の手に落ちる報道 2007-06-01 | マスメディア批評
素朴に宿る内面の浄化 2007-08-11 | 文学・思想
「ドイツ問題」の追憶の日々 2009-04-13 | 歴史・時事
素朴さ炸裂のトムちゃん 2009-01-25 | マスメディア批評
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます