ベーゼンドルファーのヤマハによる買収問題が紙面を賑せてから暫らく経つ。新聞を読んでもその事情は良く判らないが、その文化的な意味をどう見るかで二つの別個の記事が並列されて補いながらこの事象を間接的に語るように紙面が使われている。
ベーゼンドルファーの歴史などは各々が調べるとしても、創業以来五万フリューゲルの生産規模は大きくはない。フランツ・リストやブゾーニなどの名前と深く結びついているヴィーンの会社である。
その楽器は、コンサートホールや音楽学校などでも見掛けることがあり、またこのピアノの音色を謳い文句としている録音なども数多い。現在の名ピアニストにおいてもアンドラーシュ・シフやクリスチィアン・ジメルマンなどは、こうした楽器をも尊重する。つまり、スタインウェー帝国においてのこうした欧州の「古楽器」の位置付けがここでは扱われる。
しかしドイツにおいては、やはり度重なる敗戦*とナチ化**と非ナチ化の洗礼を受けたベッヒシュタインこそがフリューゲルそのものなのである。フランツ・リストからゴドヴスキーを経由してラフマニノフに引き継がれ、バックハウスからケンプへともしくはアルテューロ・ベネデティー・ミケランジェロが弾くピアノであり、ドビュシーに「ベッヒシュタインのために、ピアノ音楽は創作されるべき」と言わせた楽器である。そこで使われている天然素材の配合や手心のノウハウに対してのスタインウェーの世界制覇が話題となる。
ドイツ出身のニューヨーカーの会社、スタインウェーアンドソンズの採った戦略はリチャード・K・リーバーマンの書に詳しいらしい。その音楽マネージメントを複合した戦略を読むと、アルマ・マーラーの記した作曲家の保養地の仕事場にピアノを売り込みにやってくる姿やそれらを加味したマンの「ファウストュス博士」におけるユダヤ人音楽マネージャーの示す「文化的な意味合い」を、そこに見る事が出来る。これは、この記事が語るピアノの「形而上の文化的意味」そのものなのである。
しかし、もう一つの記事は、その極東からの安物の商品が、それもヤマハなるシリンダーの金きり音が個性もなく発せられる硬い音が、この吸収劇で誰が叩こうがそのフェルトと木の頭で柔らかくだらしなく響くベーセンドルファーのようになろうが、そのままであろうがどちらでも構わないのだと吐き捨てる。
そして、シュタインウェーが奏でる、ルービンシュタインのショパンのホ短調協奏曲を挙げ、もしくはブレンデルのシューベルトのD959ソナタを挙げて、そこにこそ形而上の世界があり、これは王者の姿でしかなく民主主義などへそくらいだと訴える。
この記事の背景を示すかのように、また新たな記事が掲載された。それは、ブッパータールのイバッハが中国からの安物攻勢にまけて店仕舞いするニュースである。つまり、ここにも典型的なシュタインウェー社においても進んだ大衆化つまりジョン・レノンが愛用したZシリーズなどへの移行から、今や中国の下請けや生産無しには成り立たない市場の変化が近代経済の変遷として示される。
それならば、ヤマハにおけるようなヴィーナーフィルハーモニカーの楽器をレプリカするような技術までを含めて、工業製品の歴史としてピアノのミトスを考えていくべきなのではないか?さもなければ、ヤマハなどの緻密な科学技術文化を批判出来ない。中国人ピアニスト、ランランの後ろ手で「トムとジェリー」を弾くのを批判するのは容易だが、ヴィーナーフィルハーモニカーの現在の否定はそれほど容易ではない。それが矛盾であり問題なのである。
そもそもアルフレード・ブレンデルの芸術そのものが、こうした大衆化した大ホールでのスタインウェーの大問題に真剣に対峙したものなのである。そして、スヴェトラフ・リヒテルがヤマハを愛用したこと自体が同じようにミトスとなっているのを忘れてはいけない。
鼻に皺を寄せたドイツ人を、唯一無二のナショナリズムと語ったのは、マンの創作に登場するユダヤ人である。そして、ユダヤ人はコスモポリタンであるから、両民族が協力することで世界が開けると誘惑する。ピアノと言う近代社会とその精神を映し出す工業製品を考えることが決して無駄ではないと思えば、今回のヤマハによる買収行為の一連の関連記事は全く十分ではない。
文化欄を書く者は、形而下と呼ばれる技術的なことも充分に勉強しておくべきで、それをもってはじめて形而上の立場からこれを語る資格がある。現場の人間に、形而上の思考が判るように示さなければいけない。
あるフランクフルトの調律師が、その楽器の事とそれを弾くピアニストのことを語った。ピアニストとその楽器の録音のロマンティックなレパートリーからすれば、これまた活きた形而上の思索などは彼らには存在しないのは、火を見るより明らかなのである。
そうしたところに、トーマス・マンの自己批評が向っていて、それは今でも何ひとつ変わらない。資源も人材もない未だに大工業輸出国ドイツ連邦共和国が生き残るには文化と智恵しかない。だから、文化欄は何は差し置いても重要なはずなのだ。
*第一次世界大戦を受けてベヒシュタインホールは、英国で最も重要な室内楽ホール「ウイグモアーホール」と改名されて今日に至る。
**カール・ベヒシュタインの孫娘は、ゲーリングとヒットラーと親密な関係を結び第三帝国の楽器となる。
参照:
Mal. Bechstein, mal!, Eleonore Büning
Sing, Steinway, sing!, Gerhard Stadelmaier
FAZ vom 13.12.2007
Kann der Ibach kein Ibach bleiben, muss er untergehen,
Von Johannes Schmitz, FAZ vom 18.12.2007
ヤマハがベーゼンドルファーを買収?(弁護士 Barl-Karth)
河島みどり『リヒテルと私』(日々雑録 または 魔法の竪琴)
ベーゼンドルファーの歴史などは各々が調べるとしても、創業以来五万フリューゲルの生産規模は大きくはない。フランツ・リストやブゾーニなどの名前と深く結びついているヴィーンの会社である。
その楽器は、コンサートホールや音楽学校などでも見掛けることがあり、またこのピアノの音色を謳い文句としている録音なども数多い。現在の名ピアニストにおいてもアンドラーシュ・シフやクリスチィアン・ジメルマンなどは、こうした楽器をも尊重する。つまり、スタインウェー帝国においてのこうした欧州の「古楽器」の位置付けがここでは扱われる。
しかしドイツにおいては、やはり度重なる敗戦*とナチ化**と非ナチ化の洗礼を受けたベッヒシュタインこそがフリューゲルそのものなのである。フランツ・リストからゴドヴスキーを経由してラフマニノフに引き継がれ、バックハウスからケンプへともしくはアルテューロ・ベネデティー・ミケランジェロが弾くピアノであり、ドビュシーに「ベッヒシュタインのために、ピアノ音楽は創作されるべき」と言わせた楽器である。そこで使われている天然素材の配合や手心のノウハウに対してのスタインウェーの世界制覇が話題となる。
ドイツ出身のニューヨーカーの会社、スタインウェーアンドソンズの採った戦略はリチャード・K・リーバーマンの書に詳しいらしい。その音楽マネージメントを複合した戦略を読むと、アルマ・マーラーの記した作曲家の保養地の仕事場にピアノを売り込みにやってくる姿やそれらを加味したマンの「ファウストュス博士」におけるユダヤ人音楽マネージャーの示す「文化的な意味合い」を、そこに見る事が出来る。これは、この記事が語るピアノの「形而上の文化的意味」そのものなのである。
しかし、もう一つの記事は、その極東からの安物の商品が、それもヤマハなるシリンダーの金きり音が個性もなく発せられる硬い音が、この吸収劇で誰が叩こうがそのフェルトと木の頭で柔らかくだらしなく響くベーセンドルファーのようになろうが、そのままであろうがどちらでも構わないのだと吐き捨てる。
そして、シュタインウェーが奏でる、ルービンシュタインのショパンのホ短調協奏曲を挙げ、もしくはブレンデルのシューベルトのD959ソナタを挙げて、そこにこそ形而上の世界があり、これは王者の姿でしかなく民主主義などへそくらいだと訴える。
この記事の背景を示すかのように、また新たな記事が掲載された。それは、ブッパータールのイバッハが中国からの安物攻勢にまけて店仕舞いするニュースである。つまり、ここにも典型的なシュタインウェー社においても進んだ大衆化つまりジョン・レノンが愛用したZシリーズなどへの移行から、今や中国の下請けや生産無しには成り立たない市場の変化が近代経済の変遷として示される。
それならば、ヤマハにおけるようなヴィーナーフィルハーモニカーの楽器をレプリカするような技術までを含めて、工業製品の歴史としてピアノのミトスを考えていくべきなのではないか?さもなければ、ヤマハなどの緻密な科学技術文化を批判出来ない。中国人ピアニスト、ランランの後ろ手で「トムとジェリー」を弾くのを批判するのは容易だが、ヴィーナーフィルハーモニカーの現在の否定はそれほど容易ではない。それが矛盾であり問題なのである。
そもそもアルフレード・ブレンデルの芸術そのものが、こうした大衆化した大ホールでのスタインウェーの大問題に真剣に対峙したものなのである。そして、スヴェトラフ・リヒテルがヤマハを愛用したこと自体が同じようにミトスとなっているのを忘れてはいけない。
鼻に皺を寄せたドイツ人を、唯一無二のナショナリズムと語ったのは、マンの創作に登場するユダヤ人である。そして、ユダヤ人はコスモポリタンであるから、両民族が協力することで世界が開けると誘惑する。ピアノと言う近代社会とその精神を映し出す工業製品を考えることが決して無駄ではないと思えば、今回のヤマハによる買収行為の一連の関連記事は全く十分ではない。
文化欄を書く者は、形而下と呼ばれる技術的なことも充分に勉強しておくべきで、それをもってはじめて形而上の立場からこれを語る資格がある。現場の人間に、形而上の思考が判るように示さなければいけない。
あるフランクフルトの調律師が、その楽器の事とそれを弾くピアニストのことを語った。ピアニストとその楽器の録音のロマンティックなレパートリーからすれば、これまた活きた形而上の思索などは彼らには存在しないのは、火を見るより明らかなのである。
そうしたところに、トーマス・マンの自己批評が向っていて、それは今でも何ひとつ変わらない。資源も人材もない未だに大工業輸出国ドイツ連邦共和国が生き残るには文化と智恵しかない。だから、文化欄は何は差し置いても重要なはずなのだ。
*第一次世界大戦を受けてベヒシュタインホールは、英国で最も重要な室内楽ホール「ウイグモアーホール」と改名されて今日に至る。
**カール・ベヒシュタインの孫娘は、ゲーリングとヒットラーと親密な関係を結び第三帝国の楽器となる。
参照:
Mal. Bechstein, mal!, Eleonore Büning
Sing, Steinway, sing!, Gerhard Stadelmaier
FAZ vom 13.12.2007
Kann der Ibach kein Ibach bleiben, muss er untergehen,
Von Johannes Schmitz, FAZ vom 18.12.2007
ヤマハがベーゼンドルファーを買収?(弁護士 Barl-Karth)
河島みどり『リヒテルと私』(日々雑録 または 魔法の竪琴)
学校やホールなどでは需要はあるのでしょうが、なかなか弾き手がいないのかも知れませんね。良く分りませんが。また贅沢できて、その趣味に合う個人の数も限られているでしょう。
YAMAHAには全く期待されていないとのご意見でしたから、やはり駄目なのかなと考えています。しかし、その契約が完了したとはまだ聞いていないのですが。
在庫品は破産管財人によって,換価(20パーセント~引きのバーゲンセールらしい)される様子です。
日本ベーゼンドルファーのウェッブサイトもなくなった様子です。
寂しいですね。
ヴィーン風と言えばそれまでですが、美的意識は様々ですね。