Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

一人佇んでいたハイティンク

2021-10-23 | マスメディア批評
オランダの指揮者ハイティンクが亡くなった。2019年に引退してから殆ど表には出ていなかったが、ルツェルンではなくロンドンで亡くなった。92歳であった。2018年に最後に聴いたのはチューリッヒでのブルックナー七番だった。その前には当時MeToo問題で辞めた指揮者ガッティーに変わって急遽マーラーの九番をルツェルンで振った。個人が振った最後のマーラーだった。それ以前にも同曲を指揮して転倒などを繰り返していたので、特別な意味合いがあった。本人も住居のあったルツェルンへのお別れのつもりでこの曲を選定したと語っていたようだ。しかしその翌年も引退興行でブルックナーの七番をそこで振ることになった。

マーラーの交響曲は先日も言及していたように様々な面で物足りない演奏で、期待が大き過ぎたので失望した。しかしスタンディングオヴェーションとなって余計に違和感が益した。終楽章の触りが一時ネットで流れていてDLしたのでその出来は今も確認できる。要するにそこまでの指揮はしていなかった。

しかし、その二週間ほどブルックナーの交響曲七番はとてもよかった。トーンハレ交響楽団でそれ程慣れていない楽団だと思ったが、楽曲のプロポーションやそのツボを良くわきまえていて、あのアンバランスな終楽章をもってしてもまさしく大伽藍としていた。そしてその演奏後の表情も忘れがたい。この指揮者の全てを語るような様子であった。

そもそも足が不自由になってから長く経ち、晩年には転倒こそあったが杖無しで歩けるようになっていた。気持ちの問題も大きいのだろうが、やはり不自由でない自分を取り戻そうとしていたのだろうか。またその前にはミュンヘンで第九を指揮して、舞台上に座ってせかされると怒っていた表情がヴィデオに残っている。観客の様子を見て、自身の芸術的な成果を確かめるのをなによりもの生き甲斐としていたような感じがした。それは、上のブルックナーを指揮した後で舞台脇で長く一人佇んで客席の方を向いている表情を覗き込むとそうなる。その時は一体何を見て何を考えているのだろうと不思議に思ったのだった。

スイスの独語最古の高級紙ノイエズルヒャー新聞の訃報がよかった。人を語ることに語り手の人柄が表れるとして、故人の言葉を挙げている。長く足が不自由で指揮台に椅子をおいて指揮していた。嘗ての本拠地アムステルダムのコンセルトヘボーの担当者が故人に合わせて指揮椅子を作った。そしてその仕事ぶりをして「素晴らしい専門家だ」と驚嘆して、尊重を以て語った。故人の体に合わせるために、「木から手で繊細に触りながら作り上げた、長年の職で楽団からも愛されている」と心暖かな人柄を偲んでいる。そして特製の指揮棒をプレゼントした友人はバーベキューに使っていると、マーラーの指揮棒の様に聖品になっていることを暗に皮肉っていたということになる。

この逸話を読んで、上の故人の表情を思い浮かべる。好き好んで肢体が不自由になった人はいない。心は昔の様に自由であった筈だ。そうした色気がいつもあったからこそ職人の気持ちもよく分かったのだろう。聴衆の満足や不満足な表情を見ることで自身の成果を自身にフィードバックしたのだろう。



参照:
Die Summe eines Lebens – zum Tod des grossen Dirigenten Bernard Haitink, Wolfgang Stähr, NZZ vom 22.10.2021
杖無しに立たせる指揮棒  2018-09-21 | 音
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音

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