Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ルツェルンからの光景

2024-09-11 | 
承前)ベルリンでの定期公演が近づいている。その前にブルックナーの交響曲について補完的にもルツェルン音楽祭が作曲家のスイス旅行についてまとめているものを改めて目にすると、その1880年に旅行の感興をまとめた交響曲六番にも興味が。当地でも五番の曲説明に加えて、そのリンツ駅での操車場での情景が音楽化されているとされたが、なるほどと思わせる。カトリックの神秘主義者ブルックナーにとっては蒸気機関への畏敬の念はそのもの創造主へのそれそのものなのだが、同時に有名な鉄道マニアのドヴォルジャークや路面電車ファンのマーラーと同じく乗り鉄であったことも間違いなさそうだ。特にこのスケルツォは「新世界交響曲」など同様に走行感もある。

余りに楽天的に映画音楽のようになるきらいもあるのだが、やはり注目したいのは緩徐楽章にファイヤーリッヒと書くのはどうしてもリギ山上での一晩の経験やモンブランを見上げたその時の印象が見える。するとどうしても作曲家が尊敬するヴァ―クナーが湖畔のトリプヒェンから望んだ山々の情景とその音楽の影響を考えずにはいられない。やはり最も感じるのはジークフリートであり、それは最終楽章にも第二主題として取り入れられているとなると、疑問の余地はない。

その旅の途上で立ち寄ったオバーアマルガウでの娘の住居だけでなく、トリプヒェンのことも根っからの度を越したストーカーの作曲家は気になって仕方がなかった筈だ。そこを訪ねたとはどこにもないのだが、同じ情景を体験することにも熱心だったに違いない。(続く)

承前)「我が祖国」の演奏に関して、その後BBCでの生放送を聴いた。結論からすると、会場の音響だけでなくて、やはりどうしても演奏も粗くなるだけではなくて、全体のバランスも若干異なっていた。既に言及していた様に最初の二部での表現力は汲めども汲みつけない細部があったのだが、余程上手に運ばないと全体的な印象とはならなかったのも事実だ。

ブルックナーにおいてその交響曲はノイドイチェシューレとしてヴァ―クナーに代表される劇音楽化したそしてその娘婿のリストの交響詩に代表される抽象音楽からの逸脱が批判された。それがスメタナにおいては最初から交響詩でもなく如何に物語を紡ぐかにあった。当時のその両方からの試みを二日に亘って示すのが今回の夏のプログラミングの骨子であったわけだが、やはりそこではなにをどのようにという質問が用意されている。

歴史物語を管弦楽曲としてそれどころか交響曲として描いたのはメンデルスゾーンの「スコットランド」であって、決して奇異ではないが、その「宗教改革」交響曲の讃美歌「神は我がやぐら」 のようにここでもフス教のそれが5部で主題になるようにメンデルスゾーンの存在も考えざるを得ない。

先日偶々昨年のプロムスで演奏されてBBC4で放映されたチェコのフルサ指揮バムベルク交響楽団の「我が祖国」全曲演奏を見つけた。なかなか健闘していて、指揮者は同国人だけの拘りを見せた演奏実践となっていて、とても興味深い。要するに音楽の背景にある主張を民族的なものとして普遍化した裏付けで以って演奏させているのが分かる。逆にそれが、どこまで音化されているのかどうかの疑問が、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏との比較によって浮かび上がらせることになった。(続く)



参照:
期待する天才の裏側 2024-09-06 | 女
描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
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