Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

圧倒的な後期浪漫の音

2024-09-08 | 
昨年の復活祭新制作「影のない女」の映像がアーカイヴ化された。初めてリニアPCMで聴ける。今迄はTVやラディオ放送で非可逆的な圧縮音源でしか聴けなかったからだ。勿論生放送も当夜劇場にいたので聴けていなかった。

なによりも想定以上に音響が強烈だ。三晩通ったわけだが、やはり初日の力の入り方は違った。通常のオペラもそうである。ざっと観るにやはり映像も初日のもののようで、取り分け染屋の女将のミナリーザ・ヴェレーラのデビュー歌唱が圧倒的だったの指揮者のペトレンコも花束を彼女に渡している。勿論音楽的には最終日の完成度も高く、二日目も歌手の交代以外には様々な利点があった。映像はまだ細かく観ていないので、どのように繋げてあるかなどはあまり分からない。

舞台を観ながら聴くのと、映像を消して音を流すのではまた少し異なり、より声部の絡み合いやぶつかり合いが聴きとれる。これは特に先日のブルックナー演奏から余計に耳につくようになった点で、所謂後期浪漫派のエポックにおいてはその不協和音の使い方からどのように鳴るべきかが重要になる。とても楽譜読解力の重要な要素でもあるが、一筋縄ではいかないのは当然だろう。それでも経験の薄いブルックナーの総譜とは異なり、シュトラウスのそれは指揮の能力で解決される筈だ。

然し、前世紀においては特に戦後は指揮者カラヤンなどが代表的にそうした響きを少し刺激のあるサウンドとして表現する演奏実践が一般化した。それによって失われたものは多大で、古典的な長短和声の中での色調であったりと、カラヤンサウンドなどで顕著になる音色化の表現に収斂した。それはある声部を塗りつぶしたような損失の上に響かせて得られたものであった。

作曲家リヒャルト・シュトラウスの演奏実践においても、指揮者自身が自作自演している録音などと比較する迄もなく、サウンドとして形成されて、嘗ての楽器が響くような表現は影を潜めるようになっていた。生前から楽劇作曲家として成功していたシュトラウスにおいては、こうした声に寄り添う楽器や楽器の声部に寄り添う言語の表現がその作曲を歴史的に評価できる唯一のものとすればそれを無視しての公演などは今後ともありえない。

公演前にペトレンコ自身が語っていた様に「二度ともうない完全上演」であり、その機会を得たことは運命的ですらある。ハムブルクの歌劇場による東京での公演で移住を決意した。そしてこの昨年の公演は演出を含めて更に個人的にも重要なエポックを示唆するものになったかもしれない。

なるほどミュンヘンでの公演も天井桟敷で体験したのだが、それは比較されるまでもなかった。演出の影響も大きいのだが、管弦楽の表現力がやはり異なった。然しこのハイレゾで捉えられている音はとんでもない。これだけ鳴って、更に声がしっかり通っているのは現場でしっかりと確かめているが、キャスティングの巧さもその成果に大きく寄与している。皇后のエルザ・ファンデンヒーヴァ―の声と歌唱はこれだけで歴史に残る。主役五人に抜かりはなかった。



参照:
楽譜にないものとは? 2024-09-05 | 音
ヴィーン風北独逸音楽 2024-04-03 | 音
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