Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

最大級評価の楽屋落ち

2024-09-28 | 
承前)演奏会特に独奏会で学ぶことも多い。なによりもその演奏家の歌い口はこれはどんなに同じ教育を受けてもやはり異なり個性となる。それが正しいとか誤っているとかの問題とは別にまさしくそのタレントの音楽性となる。

同じテムポ指定がメトロノームで守られていても、そのリズムも異なり、音楽的な音の運びが異なる。器楽演奏家の場合は技術以前に声楽ほどではなくても肉体感もそこにあるかもしれない。

演奏会の後半の初めに最晩年のドビュシーのサクソフォーンの為の曲のイングリッシュホルンの為の編曲が演奏された。前半のサンサーンスの曲などで期待された、より大きな楽器を使ってのより大きな音も期待されたがそうはならなかった。一つにはオーボエでも決して胴音とはならないような発声があり、楽器を持ち換えてもやはりすんなりとした発声をしていた。ソリスト活動として、後半が始まる前に楽器のマルゴーなどの話しが為されたのだが、やはりそこは何処までも合理的な発声が心掛けられていることが証明されたようなものである。まさしく無理がない。但し、この曲においてもそのピアノ伴奏と独奏ということで何かを示せたかというととても怪しい。

その次のジョージア出身の奥さんの財団の15歳の若い少年の作品は、なるほど楽器もよく知っているのかもしれないが、残念ながらこれといった将来性感じさせる作品ではなく、一体このプログラムで何を示そうとしているのかということになる。

最後のボッザという作曲家のファンタジー作品37は、1937年のコンクールの課題曲の為の作品だったようだが、民謡風の素材で如何にも学生上がりの奏者が吹きやすいような、そしてこのオーボエ奏者にとってもいいところを見せれるような作品であった。

コンクールの為に委嘱された作品がそうしたコンクールを目指す学生へこうした音大教授によってお手本を示す構図にあるというところが面白い。謂わばフランス音楽が一部こうした楽屋落ちみたいなところがあるということだろう。それならばそれで見事な細やかな演奏で魅了して貰いたい。それはアンコールにおいてガブリエル・ピエルネのピエースなどでも同じなのだ。

それは最初から書いているようにフランス音楽のアーティキュレションが素直に正しく発音されているという決まりの良さと、技術的にも優れたフレージングによって、とても大きな音が出るというのはこの難しい楽器に限らず最大級の評価でもある。

なるほど奥さんも超一流の奏者には違いない。然し、この夫婦が隣に住んでいたとしても仲良く付き合うということはないと思う。芸術家家庭ではないからだ。それに尽きる。ヴァイオリニストのアンネゾフィームターがはからずしも語った、演奏家なんてオリムピック選手と同じだからと。コロナ騒動で同じように政府に補償を求めていた頭の悪い音楽家の中に奥さんが入っていた。そういう人達にはあまり関わりたくない。(終わり)



参照:
背筋が伸びる気持ち 2024-09-22 | 雑感
理不尽そのものの主張 2020-07-27 | マスメディア批評
コメント
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