Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

体現された自由への飛翔

2022-12-09 | 
承前)フランクフルトの二つの新聞の批評を読んだ。数多いミュンヘンやシュトッツガルトの新聞評や放送局評に並んで、なぜかこの二つの批評の方向は似ている。フランクフルターアルゲマイネ紙とその子会社になった左翼紙ルンドシャウは、少なくともロシア人が指揮を絶賛していない。それどころか、管弦楽団が上手にとか総譜が素晴らしいとかで主語を上手く無効化している。なぜならば今回の指揮に関して批判しようと思えば余程チャイコフスキーの楽譜に精通していないと難しいからだ。勿論個人的にも通常ならば強い批判までは出来ないものなのだが、復活祭に同時期の「スペードの女王」を四夜、最後のオペライオランタを一回、昨秋には「マゼッパ」を二回聴いているので、流石にその語法には慣れたから良し悪しは分かる。

トレイラーとして、総稽古の映像などが上がっている。それを観ると明らかに今回の演出にはよりセンシヴィティーが要求されたと思われる。特に心理的な面は、そこで流れる音楽でも分かるのだが、もっともっと丁寧に音楽しなければ台無しである。如何に復活祭のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーのその繊細さは技術的云々ではなくてまさしく感性であり、ペトレンコの天才性でしかなかったのだ。同時にカラヤンもアバドも誰も叶わなかったオペラの指揮だったのだ。

音楽も技術だけでは芸術とはならない、主役のアスミク・グリゴーリアンが語っている。主人公のナターシャは自分自身だと。少なくとも役作りとなると完全に同一化してしまうのだろう。その優しさは、まさしく姉さん女房の其れであり、今回の演出ではただの街外れの森の食事を出す小屋の女将ではなくて画廊をやっていて、伯爵の息子の絵を描いている。彼女にとっては若い旦那への眼差しであって、それは序曲に於いて映像として以前の旦那との別れの映像として描かれている。

アスミクにとっては関心の無い事象なのかもしれないがこの若い旦那にとってはどうしても入れておきたかったものではなかろうか。それゆえに旦那が語った父親の伯爵への関心はそこにも繋がっている。

アルゲマイネ紙の方の繰り返し観たいとしているのは実はそこ迄読み込まない事には、この演出に隠されたものが分からないということにも関わっている。そして実は知っているようで知らないと感じる舞台がそこに描かれている理由は想像できる。

後半にも娘さんに変わらずお母さんが隣の席に座っていたら、彼女に語ったと思う。そこで描かれている情景はロシアの新興裕福層であり、新聞にはTV「ダラス」のような情景と書かれているが、伯爵は軍服で嫁さんの顔も見ず、「風呂、飯、寝る」の家庭情景であり、息子はサプリメントを吞んでボクシング、妹は母親とヨガ体操と、前世紀の殆ど68年代から高度成長の時代である。三島由紀夫がボクシングをしているのとそれほど変わりない。

そしてそれが今のロシアを語っている。宗教的な権威が新たなに政治的な背景になっているという時代錯誤感。この劇場感覚をどのように我々の社会で受け止めることが可能なのか。だからこそ、アスミクが体現した自由への飛翔とその優しさ、彼女がバーデンバーデンをキャンセルしてインタヴューに答えていたその内心がここでも語られている。(続く)
Trailer zu »Die Zauberin« von Peter I. Tschaikowski | Oper Frankfurt

比較して改めて分かるペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーのチャイコフスキーの見事な響き ― Festspielhaus Baden-Baden: Tchaikovsky: Pique Dame - Trailer




参照:
金持ちのチャイコフスキー 2022-11-29 | 文化一般
みんなみんな狼だか 2022-12-01 | 文化一般
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