気になっていた新聞記事を読む。クリスマスイヴの記事だが時間が無かった。今年は始めて、二日が土曜日だったこともあって、丁度日本のような年始休みとなった。そこで漸く時間が出来た。
文化欄第一面だが、要は管弦楽が間隔を空けることでどのような事が起きるか、若しくはなにか失うものがあるのかという内容だった。記事中でコメントが触れられているのはベルリナーフィルハーモニカーの二人で、ホルンソロのシュテファン・ドールとチェロの団長クヌート・ヴェーバー、先にインタヴュ―の載っていたイヴァン・フィッシャー、そして既に談話を出していたダニエル・バレンボイムとキリル・ペトレンコらの言葉を借りている。
先ずは、フルートとクラリネット間でも離れると、指揮者頼りで、指揮台で代わりに聞いて司令塔とならないと駄目だとなる。同じ楽器間においても合奏する感覚が得られずに、例えばブラームスの交響曲四番の終楽章のトロムボーンのコラールでも交ぜられて充足した音響は得られないという。
だから正しく合わせようと思えばフィルハーモニカーの注意深い様子は決して責められるべきものでは無いとしている。それどころかそもそもこうしたことに対応できるのがフィルハーモニカーの強みであって、どんなに強くも弱くも極端に吹ける金管群などは、編成が小さくても対応するものだとしている。
弦楽群においてはプルトを組まないことで単独となり、トーンマイスターのフランケに言わせると、フィルハーモニカーに座っている奏者は一人一人の音が取り出されて聞こえても当然のようなもので問題は無いとしている。しかしヴェーバーは、それをして自分の周り三四人しか聞こえない状況になって、合奏している気持が得られなく感興を欠くことになると。それをしてシュターツカペレのヴィオラ奏者ヴォルフガンク・ヒンツペーターは室内楽的な技量を求められるので、感情移入とは中々ならないとしている。これが座付楽団の特徴をよく表した表現とはならないか。
指揮者のフィッシャーは、奏者は一割しか指揮者を見ていないもので、九割は周りとの情報の交換にあるとしていて、所謂有機的な演奏とはならないことを説明している。つまり、ヴェーバーの言では、プルトのパートナー同士が無意識にフレージングや音色を合わせることで、それが更に大きな細胞となって管弦楽独自のパワーともなって音響の波となるので、若い奏者が入って来たときはそこで同化して行く過程があるらしい。それをして伝統の継承となる。
ドールに言わせると本格的に管を大管弦楽に合わせる機会が無いと勘が鈍るというような発言もしていて、弦楽陣と共通した懐疑点となる。そのようなことからフィルハーモニカーの弦楽陣はプルトを組んで1mへと、管楽器は1.5mへと間隔が縮まり、フィルハーモニーの強力な空調がこれを可能にとしたと、そしてその先には中断再開後の客席の問題となってくるとしている。
ムジークフェストでのフランク・ペーターツィマーマンとのベルクの協奏曲への言及もあって、まさしくこれこそが2020年に上げた音楽界の大成果の一つだと思う。主線、複線の指定の絡み合いだけでなくソロと管弦楽の絡みが明らかになったのも管弦楽が間隔を空けていて定位感もはっきりしたソロの集まりとしての合奏が出来たからである。なぜか今まで音楽評としての言及は見られなかったが、ここに初めて「記憶に残るもの」としてのまともな記載があった。勿論指揮者が司令塔を果たしていたからなのだが、ベルリナーフィルハーモニカーとの音楽作りが一段と進んでいたのが明らかになった演奏会だった。
奇しくもベルリンでの年末、ヴィーンでは年始に、客席の聴衆の重要性が改めて、両楽団から伝えられることになった。楽団員の多くはそれに十分に気が付いていなかったというのである。中立的な人間からすれば今更と思うのだが、少なくとも芸術におけるインターアクティヴな関係と同時に経済的にも客が入るという事の意味をもう一度再認識することになっている。
参照:
Organismus der Kontaktlosen, Clemens Haustein, FAZ vom 24.12.2020
間隔のある受け渡し 2020-09-19 | 音
要らないと思っていた 2020-09-12 | 雑感
文化欄第一面だが、要は管弦楽が間隔を空けることでどのような事が起きるか、若しくはなにか失うものがあるのかという内容だった。記事中でコメントが触れられているのはベルリナーフィルハーモニカーの二人で、ホルンソロのシュテファン・ドールとチェロの団長クヌート・ヴェーバー、先にインタヴュ―の載っていたイヴァン・フィッシャー、そして既に談話を出していたダニエル・バレンボイムとキリル・ペトレンコらの言葉を借りている。
先ずは、フルートとクラリネット間でも離れると、指揮者頼りで、指揮台で代わりに聞いて司令塔とならないと駄目だとなる。同じ楽器間においても合奏する感覚が得られずに、例えばブラームスの交響曲四番の終楽章のトロムボーンのコラールでも交ぜられて充足した音響は得られないという。
だから正しく合わせようと思えばフィルハーモニカーの注意深い様子は決して責められるべきものでは無いとしている。それどころかそもそもこうしたことに対応できるのがフィルハーモニカーの強みであって、どんなに強くも弱くも極端に吹ける金管群などは、編成が小さくても対応するものだとしている。
弦楽群においてはプルトを組まないことで単独となり、トーンマイスターのフランケに言わせると、フィルハーモニカーに座っている奏者は一人一人の音が取り出されて聞こえても当然のようなもので問題は無いとしている。しかしヴェーバーは、それをして自分の周り三四人しか聞こえない状況になって、合奏している気持が得られなく感興を欠くことになると。それをしてシュターツカペレのヴィオラ奏者ヴォルフガンク・ヒンツペーターは室内楽的な技量を求められるので、感情移入とは中々ならないとしている。これが座付楽団の特徴をよく表した表現とはならないか。
指揮者のフィッシャーは、奏者は一割しか指揮者を見ていないもので、九割は周りとの情報の交換にあるとしていて、所謂有機的な演奏とはならないことを説明している。つまり、ヴェーバーの言では、プルトのパートナー同士が無意識にフレージングや音色を合わせることで、それが更に大きな細胞となって管弦楽独自のパワーともなって音響の波となるので、若い奏者が入って来たときはそこで同化して行く過程があるらしい。それをして伝統の継承となる。
ドールに言わせると本格的に管を大管弦楽に合わせる機会が無いと勘が鈍るというような発言もしていて、弦楽陣と共通した懐疑点となる。そのようなことからフィルハーモニカーの弦楽陣はプルトを組んで1mへと、管楽器は1.5mへと間隔が縮まり、フィルハーモニーの強力な空調がこれを可能にとしたと、そしてその先には中断再開後の客席の問題となってくるとしている。
ムジークフェストでのフランク・ペーターツィマーマンとのベルクの協奏曲への言及もあって、まさしくこれこそが2020年に上げた音楽界の大成果の一つだと思う。主線、複線の指定の絡み合いだけでなくソロと管弦楽の絡みが明らかになったのも管弦楽が間隔を空けていて定位感もはっきりしたソロの集まりとしての合奏が出来たからである。なぜか今まで音楽評としての言及は見られなかったが、ここに初めて「記憶に残るもの」としてのまともな記載があった。勿論指揮者が司令塔を果たしていたからなのだが、ベルリナーフィルハーモニカーとの音楽作りが一段と進んでいたのが明らかになった演奏会だった。
奇しくもベルリンでの年末、ヴィーンでは年始に、客席の聴衆の重要性が改めて、両楽団から伝えられることになった。楽団員の多くはそれに十分に気が付いていなかったというのである。中立的な人間からすれば今更と思うのだが、少なくとも芸術におけるインターアクティヴな関係と同時に経済的にも客が入るという事の意味をもう一度再認識することになっている。
参照:
Organismus der Kontaktlosen, Clemens Haustein, FAZ vom 24.12.2020
間隔のある受け渡し 2020-09-19 | 音
要らないと思っていた 2020-09-12 | 雑感