Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

非パトス化の演奏実践

2018-06-04 | 文化一般
人に紹介しただけでラディオ放送を忘れていた。それでも20時過ぎ始まりなので思い出して、結局最後まで聞いてしまった。プッチーニの「三部作」だ。初日の演奏にはそれなりに物足りなさもあり、生中継の技術的な問題もあったので、それほど重視していなかったのだが、珍しい上演という事で放送も重なり、録音も数種類も重ねてしまった。生中継は不安定乍らその新鮮な音響は録音となるとデジタル録音でも差異が感じられるのだが、問題のORFのそれとフランクフルトのARDアーカイヴからのHR2でも音質が大分違っていて驚いた。但し「三部作」が別けてリストアップされていて三部に別ける放送体制は変わらない。つまりオリジナルの一部の後の拍手はカットされる。やはりORFのネットストリーミングは高音が伸びていない感じで、MP3的な美化が感じられる。歪感が少ない分一寸聞きには如何にもヴィーンの香りとまで感じて、そのナレーションのハリボを噛んだようなヴィーン訛りと共に独特だ。

翌朝にはベルリンからのゲストがそこの楽友協会でラトル指揮で演奏する。前々日にはフィラデルフィア管弦楽団が演奏して生中継されたばかりなので、その差異も注目される。そしてなによりもブルックナーの交響曲9番の四楽章版が楽しみだ。ラトルの指揮はマーラーよりもブルックナー向きだと思っていると同時に、その初演風景をネットで見て、繰り返して演奏する必要を感じていたが、幾らかは手慣れてきただろうか。この版が上手く定着すれば、将来的にラトルのベルリンでの代表的な成果になる可能性があると思う。その可能性を感じている。

週明けになるとワイン祭りの準備で落ち着かなくなる。暑くなるようだから快適さも無くなるが、そろそろ「パルシファル」の復習をしておかないといけない。先ずは四月のパリ公演の中継録音を聞いて録音しておこう。ジョルダン指揮であるからまともに演奏出来ているとは思わないが、その前のメトロポリタンでのネゼセガン指揮との比較になるだろうか。バーデンバーデン復活祭での域には遠いとしても、ここらあたりで一度ガラガラポン混ぜ合わせして、新たなお勉強にしないと月末の初演への心掛けが出来上がらない。正直、もはやペトレンコ指揮のオペラは彼の才能の浪費でしかないと、将来思われるようにしか、考えなくなっているが、それでも「三部作」初日の録音を聞き返すとその徹底した美しさは特筆すべきで、改めて大変なことをしていると再確認する。最後に聞いたのが二月の「指輪」の上演で、それでさえ遣り過ぎと思ったが、「三部作」でのバスの鳴らし方なども徹底している。やはり和声のベースになっていて、対位法的な扱いにおいても歌の中声部を飛翔させるのもその正確さである。

そして夏のベートーヴェンを考えると、先ほどの東京の「フィデリオ」の評判から、まさに非パトス化の枠内での「舞踏の神化」へと想いが募る。現在日本ではクリーヴランドの管弦楽団がプロメテウスと称した演奏会を開いているらしいが、それならばそこで何故この非パトスが囁かれないのかは大変謎だ。そもそもベートーヴェンにヴァークナーの「死による救済」を暗示する点で美学的評価の余地がない。日本における根強いベートーヴェン人気は研究対象だと思うが ― 毎年演奏される第九の不思議と共に、だからどうもオペラだけでなく、そうした市場への支持はサブカルチャー化したもので、ただ単にライフスタイルでしかないと予想される。そこからまた合衆国における管弦楽活動なども関連していく。

そこでベートーヴェンの演奏が如何にパトス化を避けながら大交響楽団で演奏され得るかという問いかけがなされる。一つの方法としてクリーヴランドでやられているように例えばその八番の交響曲などでの軽妙さと洒脱さの晩年の「バガテレ」などに通じる演奏実践もあるが ― その意味からも後期弦楽四重奏曲を取り上げた時点でコンセプトは定まっていたようだ ―、その点で先日のバイロイトでのヤルヴィ指揮の演奏は、その音楽的コンセプトがブレーメンの室内楽団でやるの同一であるとしても、やはりとても大きなエポックを刻むものであったと思う。いずれにしても七月から来年の二月の「フィデリオ」、「ミサソレムニス」までは「べート-ヴェン研究」を続けることになる。アルフレード・ブレンデルのベートーヴェンツィクル以来だろうか。

その傍証として、復活祭のラトル指揮のそれを見れば明らかで、カラヤンの影に怯え続けたこの指揮者が、結局はフィルハーモニカーの特徴である発し発しとしたその演奏形態から一歩も逃れえる事が無かったその演奏実践を挙げれば事足りる。晩夏に演奏される第七交響曲の演奏へと向けてヤルヴィ指揮の功績は過大評価過ぎることはないと思う。それにしてもラトル体制の最後でこれを入れたツェッチマン支配人のアーティストプロデューサーとして才能と人間関係構築の手腕には首を垂れたい。これはキリル・ペトレンコのオーケストラ芸術への新展開へのハードルを大きく下げてしまうような大功績で、サイモン・ラトルとのミュンヘンでの会合でも話題になった課題でもあったのだろう。



参照:
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
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