エルプフィルハーモニーからの中継録音を聞いた。前日に生中継されるものだったが、技術的にならず一日遅れの録音中継となった。先ず何よりもいつものフィラデルフィアからの中継とは音質が違う。会場のアコースティックではなく、録音の機材なども異なるという事だ。バーンスタインの最初のクラリネットの部分ではまるでアナログ録音のようにサーノイズが目立っていたが、後には目立たなくなった。音量調整をしていたのだろう。また、音響とも関係するが客の咳がとても喧しかった。同曲をバーデンバーデンで聞いた時は私も大変だったので、ハンカチで押さえて自分自身で窒息しそうになっていた。最近は会場で態々布で口を押さえてとかのまるで日本のような注意が表示に出るが、ハムブルクではないようだ。嘗てのドイツの会場の雰囲気を思い出した。
暫くすると、エルプフィルハーモニーのアコースティックが浮かび上がってきた。NDRの録音であるが、なによりも放饗とは比べられない超一流管弦楽団のしっかりとした歌い口や、更に指揮者とピアニストが最小音を駆使しているのが手に取るように分かった。その分ダイナミックスが広がるが、低弦も適当な硬さがあって、さぞかし会場で聞くと抜けた透明な響きがするのだろうと予想可能だっだ。ティボーデーのピアノはジメルマンとは異なって、とても細やかで感受性に富んだ音で弾いていて大変良かった。フィラデルフィアからの放送では到底聞き取れなかった細やかさは会場のお陰であり、管弦楽団の鳴りも素晴らしいに尽きた。
ハムブルクでの二日間の評も出てきているが、阿保親仁が主幹のヴェルト新聞は若手もクラオタク程度としても、地方紙の程度はバーデンなどと同じで大したことが無い。だからシューマンの弦におけるフレクシブリティーへの更なる希望と管とのすれ違いに関しては何とも言えないが、少なくともそれはルクセムブルクではベルリンのフィルハーモニー程度のアンサムブルの比では全くなかった事は既に記した。しかし弦楽陣のその批判は理解出来て、大なり小なりビックファイヴのアインザッツが揃う弦楽陣にはその傾向がある。嘗てのシカゴのような細い針金を束ねたような弦楽は最早どこにも無いだろうが、あのアジア系の多いヴァイオリンなどにはそれを感じるのも事実だろう。しかしそれでも斎藤記念とかの程度と比べるまでも無く、中声部の動きなど見事で、コンセルトヘボーのそれとは違うがやはり第一級であることは間違いない。
後半にチヤイコフスキー交響曲4番が演奏されたが、夜も更けて22時過ぎていたので窓が開け放たれたところで小さな音で流し乍ら楽譜を見ていたが、最後には居眠りをした。それでも指揮者の特徴も発揮して、また新聞が書く様に「名人技に、気の入った木管陣」も見事で、そのソロだけでなく繋がりにも惚れ惚れした。なるほどネゼセガンは、キリル・ペトレンコのように瞬時にテムポアップ・ダウン可能な技量は無いが、その分二三小節前から準備する昔通りの「演奏解釈」のアゴーギクを駆使していて、それ故に余計にそのシューマンをしてまるで「カラヤン世代の鳴り」のようだとも書かれている。これは記者が全く楽譜を見ていない証拠で、カラヤンがネゼセガンのように細やかに楽譜を音化していた試しはない。これをして如何にハムブルクの音楽水準なんてこんなもんだと思わせるに十分だ。
再び「不安の時代」に戻れば、そのジャズのイデオムとか変奏の構造とかとは別に、また具体的な「ホテルのバーとかの情景」などではなく、この曲の持っているハリウッド映画的な効果、つまり作品から客観的な、またそれとは別な視点からの自身の環境への覚醒が生じるという事から、この曲の入っているプログラムばかりをこれからヴィーン、イスラエルから執拗に生中継するというとんでもないプロジェクトへの理解が生まれてきた。つまり、私たちが生中継から感じるのは決してその日の演奏の出来不出来ではなく、その会場と聴衆を取り巻く環境であるかもしれないと気が付いた。些か馬鹿げたプロジェクトにも思えたが、もしかするとこの政治・倫理問題でもあるツアーへの決意やそのプログラミングの真意がそこに明白に示されるような気がしてきた。そしてこのバーンスタインの曲自体がそのように開かれた面を持っていることにも気付いた。もしかすると、この日もアンコールとして演奏された「(世界が必要とする)愛の挨拶」と共に、その通りネゼセガンが語っていた「記念碑的」な演奏ツアーになるかもしれないと思うようになった ― 因みにハムブルクでのもう一つのプログラムは後半にブラームスでパリなどとは前半と後半が入れ替わりアンコールが無かったという。
2018 Tour of Europe and Israel--Paul Jacobs on Touring
2018 Tour of Europe and Israel: Performance Clip from Paris
ネゼセガンがグラモフォンと契約更新する風景が報じられていたが、それやこれや管弦楽団が世界一巧いかどうかとかなんかどうでもよいことで ― ドイツでも現場を知らないジャーナリストなどに限ってアメリカの音楽文化などとしか理解していないのかもしれないが ―、こうした音楽活動がどのように、なにをしようとしているのかの表現をしっかりと見極めることこそがジャーナリズムなのである。
床についてティッターを見るとスペインのフォロワーさんがYouTubeに出たばかりのマーラーの七番のフィナーレの演奏風景を紹介していた。寝て居れずに起き上がって、ダウンロードして、あまり券が売れていないバービカンホールでの演奏会を紹介しておいた。折角HDでダウンロードさせてくれたのだからそれぐらいはしよう。素晴らしい映像で、想定以上に楽団も良く弾いていて ― 恐らくこの間のエルプフィルハーモニー、カーネギーデビューの経験の上乗せがあるのだろう ―、そしてペトレンコの指揮を見て、やはりこの人は天才だと改めて思った。何処の世界でもそんなに天才なんかいない、だからそれを基準にしたってしようがないのだ。
Kirill Petrenko: Finale of Gustav Mahlers Symphony No. 7
参照:
プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
暫くすると、エルプフィルハーモニーのアコースティックが浮かび上がってきた。NDRの録音であるが、なによりも放饗とは比べられない超一流管弦楽団のしっかりとした歌い口や、更に指揮者とピアニストが最小音を駆使しているのが手に取るように分かった。その分ダイナミックスが広がるが、低弦も適当な硬さがあって、さぞかし会場で聞くと抜けた透明な響きがするのだろうと予想可能だっだ。ティボーデーのピアノはジメルマンとは異なって、とても細やかで感受性に富んだ音で弾いていて大変良かった。フィラデルフィアからの放送では到底聞き取れなかった細やかさは会場のお陰であり、管弦楽団の鳴りも素晴らしいに尽きた。
ハムブルクでの二日間の評も出てきているが、阿保親仁が主幹のヴェルト新聞は若手もクラオタク程度としても、地方紙の程度はバーデンなどと同じで大したことが無い。だからシューマンの弦におけるフレクシブリティーへの更なる希望と管とのすれ違いに関しては何とも言えないが、少なくともそれはルクセムブルクではベルリンのフィルハーモニー程度のアンサムブルの比では全くなかった事は既に記した。しかし弦楽陣のその批判は理解出来て、大なり小なりビックファイヴのアインザッツが揃う弦楽陣にはその傾向がある。嘗てのシカゴのような細い針金を束ねたような弦楽は最早どこにも無いだろうが、あのアジア系の多いヴァイオリンなどにはそれを感じるのも事実だろう。しかしそれでも斎藤記念とかの程度と比べるまでも無く、中声部の動きなど見事で、コンセルトヘボーのそれとは違うがやはり第一級であることは間違いない。
後半にチヤイコフスキー交響曲4番が演奏されたが、夜も更けて22時過ぎていたので窓が開け放たれたところで小さな音で流し乍ら楽譜を見ていたが、最後には居眠りをした。それでも指揮者の特徴も発揮して、また新聞が書く様に「名人技に、気の入った木管陣」も見事で、そのソロだけでなく繋がりにも惚れ惚れした。なるほどネゼセガンは、キリル・ペトレンコのように瞬時にテムポアップ・ダウン可能な技量は無いが、その分二三小節前から準備する昔通りの「演奏解釈」のアゴーギクを駆使していて、それ故に余計にそのシューマンをしてまるで「カラヤン世代の鳴り」のようだとも書かれている。これは記者が全く楽譜を見ていない証拠で、カラヤンがネゼセガンのように細やかに楽譜を音化していた試しはない。これをして如何にハムブルクの音楽水準なんてこんなもんだと思わせるに十分だ。
再び「不安の時代」に戻れば、そのジャズのイデオムとか変奏の構造とかとは別に、また具体的な「ホテルのバーとかの情景」などではなく、この曲の持っているハリウッド映画的な効果、つまり作品から客観的な、またそれとは別な視点からの自身の環境への覚醒が生じるという事から、この曲の入っているプログラムばかりをこれからヴィーン、イスラエルから執拗に生中継するというとんでもないプロジェクトへの理解が生まれてきた。つまり、私たちが生中継から感じるのは決してその日の演奏の出来不出来ではなく、その会場と聴衆を取り巻く環境であるかもしれないと気が付いた。些か馬鹿げたプロジェクトにも思えたが、もしかするとこの政治・倫理問題でもあるツアーへの決意やそのプログラミングの真意がそこに明白に示されるような気がしてきた。そしてこのバーンスタインの曲自体がそのように開かれた面を持っていることにも気付いた。もしかすると、この日もアンコールとして演奏された「(世界が必要とする)愛の挨拶」と共に、その通りネゼセガンが語っていた「記念碑的」な演奏ツアーになるかもしれないと思うようになった ― 因みにハムブルクでのもう一つのプログラムは後半にブラームスでパリなどとは前半と後半が入れ替わりアンコールが無かったという。
2018 Tour of Europe and Israel--Paul Jacobs on Touring
2018 Tour of Europe and Israel: Performance Clip from Paris
ネゼセガンがグラモフォンと契約更新する風景が報じられていたが、それやこれや管弦楽団が世界一巧いかどうかとかなんかどうでもよいことで ― ドイツでも現場を知らないジャーナリストなどに限ってアメリカの音楽文化などとしか理解していないのかもしれないが ―、こうした音楽活動がどのように、なにをしようとしているのかの表現をしっかりと見極めることこそがジャーナリズムなのである。
床についてティッターを見るとスペインのフォロワーさんがYouTubeに出たばかりのマーラーの七番のフィナーレの演奏風景を紹介していた。寝て居れずに起き上がって、ダウンロードして、あまり券が売れていないバービカンホールでの演奏会を紹介しておいた。折角HDでダウンロードさせてくれたのだからそれぐらいはしよう。素晴らしい映像で、想定以上に楽団も良く弾いていて ― 恐らくこの間のエルプフィルハーモニー、カーネギーデビューの経験の上乗せがあるのだろう ―、そしてペトレンコの指揮を見て、やはりこの人は天才だと改めて思った。何処の世界でもそんなに天才なんかいない、だからそれを基準にしたってしようがないのだ。
Kirill Petrenko: Finale of Gustav Mahlers Symphony No. 7
参照:
プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般