伏見城は1592(文禄元)年8、豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため築かれました。
しかし、地震によって倒壊しため、新たな城が1597(慶長2)年に築き直されました。
秀吉はその2年後に城内で没しました。
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失してしまいました。
1602(慶長7)年ごろ家康によってみたび再建されたが、1619(元和5)年に廃城とされた。
明治時代になり、城跡は宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いそうです。
1964(昭和39)年、伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。
やがて、閉園することになりましたが、京都市に贈与され、現在では伏見桃山城運動公園として整備されています。
小高い丘を登っていくと妙に立派な駐車場の門が目に飛び込んできます。
バイク・自転車は無料です。
それっぽい土塀です。
立派すぎる大手門
よく見ると、
入場券売り場の跡でしょうか。
耐震基準を満たしていないことから模擬天守は内部非公開となっています。
5重6階の大天守と3重4階の小天守の堂々たる連結式天守です。
が、
大天守は姫路城を模したものであり、小天守は彦根城を模して作った全く史実に基づかない鉄筋コンクリート製の模擬天守です。
私は地元の人たち気持ちを考えれば再建された天守を否定することはできません。
また、以前は消防法などの関係で鉄筋コンクリート製でしか建てられず、これも致し方ないことです。
しかし、全く異なる原寸大モデルを置いておくことには強い違和感を感じざるを得ません。
2007年、映画撮影のため東映が約1億円を負担し、装飾を直して大坂城に見立てた改修がなされたそうです。
このため、表からは綺麗に見えるのですが、
裏に回ると、
蔦に浸食され、
あちらこちら、錆が出ていました。
強者どもが夢の跡を感じさせる城跡
はいくつも見てきましたが、
この城は昭和の思い出の跡を感じさせます。
伏見城は別名桃山城ともよばれています。
安土桃山時代は、安土城や桃山城が歴史の表舞台だったのでこの名が付いています。
安土城は石垣しか残っていませんが、その壮大な姿を人々に想像させ、史跡としても一級品になっているのに対し、桃山城は映画のセットとしての価値しかありません。
誠に寂しい限りです。
高度経済成長が始まった頃ですね。人々の生活に余裕ができレジャーをするゆとりができた野もこの頃でしょうか。大きく・豪華何ものが良いとされていたのですね。当時はおむつをはずす練習をしていた頃なので、詳しいことはわかりません。
信長-秀吉の時代に城造り技術は一気に飛躍します。伏見城は豊臣時代の末期ですから技術的にも、予算的にも十二分の状態でかつ秀吉の城ですから、かなり壮大でド派手だったと思われます。
活気のある頃だから なんでもやっちゃえだったのでしょうか
私は学校で南春夫先生歌唱の東京五輪音頭を練習してました
↑当時に関係するものとか他にアイデアはなかったのか残念ですね。たしかに映画のセットには使い道がありそうです。
あらら、奥様とも思い出にケチを付けてしまいました。どうもすみません。
ここには伏見城本来の史跡は残っていませんが、場所を変えると実は残っているのです。詳しくは次回の記事で報告します。
キャするランドが倒産したときに、天守閣は壊さないでほしいという住民の声があったそうです。となれば行政で面倒を見ることになります。すぐ隣に野球場・グラウンド・体育館があるので、体育協会についでにお願いしているのでしょう。体育協会は余計なお荷物を背負わされたと思っているのじゃないでしょうか。名古屋の市長さんは名古屋城天守閣を木造で建て直すと息巻いています。
町おこしのため、また歴史や文化を大切にする思いはよくわかります。であるばらばいい加減な天守閣モドキではなく、例えば地元の建設家によるユニークな形の資料館を建てればよいかと思います。現在はほとんどなくなりましたが、かつては模擬天守を作って喜んでいた時代がありました。
奇麗な天守だとおもいましたが・・・鉄骨・・・姫路城を模したモノとは・・・汗
ミロのビーナスの失われた両腕・・・肩の骨格や筋肉から、こうであったであろうと推定して再現することは可能な様ですが・・・無いことに価値がある・・・と言うことも、確かに多々あるのかも。
そうでしたか!明治時代に!・・・
それにしても市体育協会がお城の管理をしていたのですね、驚きです!体育にもいろいろとあるもんです!
しかし、勿体ないですねぇ~私がソフトバンク孫社長か、楽天の三木谷社長だったらば買い取って木造で立て直して古民家風別荘としたいところです!大阪の市長さんだったらどうするでしょうねぇ~?
しかし、現地の方の生活や街の活性化には、どうしてもという苦渋の選択も有るのかと。