大給松平家は、松平氏の庶流にあたります。
松平親忠の次男乗元を祖とする十八松平の一つで、江戸時代には譜代大名4家が出、維新後には4家とも華族に列しました。
大給城は、地元の土豪長坂新左衛門の居館を松平信光が攻め落とし、その孫であり大給松平家の始祖である乗元と二代目の乗正が1507~1510(永正3~7)年にかけて、城郭としての体裁を整備したとされています。
アクセスは簡単です。
東海環状自動車道豊田松平ICを降りて、国道301号を岡崎方面に進みます。
1kmほど行ったところにある松平トンネルをでたところ南側に「大給城」と書かれた案内板があります。
山道を400mほど進むと、駐車場(無料)があります。
ここにバイクを置き、山道をさらに120mほど歩いて進みました。
右手に登山口がみえてきました。
登山口にはこんな注意書きがありましたが、山城の中では楽な部類ですが、装備はしっかりしておきましょう。
山道を登ります。
3分ほどで分岐点に達します。
ここから先は勾配が穏やかになります。
わかりにくいですが、堀切がありました。
現地案内板
多くの山城は城域に到達するまでの山登りが辛いのですが、ここまで8分しかかからずアクセスしやすい山城です。
虎口
左は櫓台、右は自然石に挟まれています。
大給城には巨大な自然石が至る所にころがっており、これを有効に使って築城したと思われます。
曲輪2の虎口
左側に石垣がみえます。
曲輪2
曲輪2の北側の土塁
虎口
立派な石垣がみえます。
主郭1横の曲輪
「明治天皇碑」と彫られていましたが。いわれはわかりません。
虎口で見られた石垣はまっすぐに伸び、主郭1との仕切りにもなっています。
松平親忠の次男乗元を祖とする十八松平の一つで、江戸時代には譜代大名4家が出、維新後には4家とも華族に列しました。
大給城は、地元の土豪長坂新左衛門の居館を松平信光が攻め落とし、その孫であり大給松平家の始祖である乗元と二代目の乗正が1507~1510(永正3~7)年にかけて、城郭としての体裁を整備したとされています。
アクセスは簡単です。
東海環状自動車道豊田松平ICを降りて、国道301号を岡崎方面に進みます。
1kmほど行ったところにある松平トンネルをでたところ南側に「大給城」と書かれた案内板があります。
山道を400mほど進むと、駐車場(無料)があります。
ここにバイクを置き、山道をさらに120mほど歩いて進みました。
右手に登山口がみえてきました。
登山口にはこんな注意書きがありましたが、山城の中では楽な部類ですが、装備はしっかりしておきましょう。
山道を登ります。
3分ほどで分岐点に達します。
ここから先は勾配が穏やかになります。
わかりにくいですが、堀切がありました。
現地案内板
多くの山城は城域に到達するまでの山登りが辛いのですが、ここまで8分しかかからずアクセスしやすい山城です。
虎口
左は櫓台、右は自然石に挟まれています。
大給城には巨大な自然石が至る所にころがっており、これを有効に使って築城したと思われます。
曲輪2の虎口
左側に石垣がみえます。
曲輪2
曲輪2の北側の土塁
虎口
立派な石垣がみえます。
主郭1横の曲輪
「明治天皇碑」と彫られていましたが。いわれはわかりません。
虎口で見られた石垣はまっすぐに伸び、主郭1との仕切りにもなっています。
主郭1
史蹟碑
主郭1からの抜群の眺望
さらに、左に見える物見岩に立って見ると、
遙か向こうに名古屋駅の超高層ビル群が見えます。
主郭1にあった巨石
主郭1南側虎口
曲輪2に戻り、北側に進むと、巨大な窪地があります。
これは水の手曲輪とよばれ、水を蓄える施設だったそうです。
水の手曲輪は2段つくられ、それぞれの下方には石垣が組まれています。
その姿はまさにダムです。
水源地として利用されていたと思いますが、規模があまりにも大きい!
水を満たしたらプールになります。
井戸なんかとは比べものになりません。
ひょっとしたら水を満たした状態から、一気に放水し敵兵を押し返す施設だった?
水が貴重な山城にそんな施設は無理か・・・謎は深まります。
帰路、松平乗元の墓に寄りました。
大給城は、徳川家康が関東に移封となったため、廃城となりました。
所要時間:1時間
愛知県豊田市大内町字城下