光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

空は自由自在に色を変えることが出来て、さて本を探すが綿ぼこりだらけ

2015-03-06 13:45:26 | 散策
  朝は、雨だったかな。雨は止んでいた。そうそれは間違いない。


  午前5時40分というのはさほど問題ではないが、6時前に、かすかに南の窓から外が見えて、明るい青。

  ただこの色はまだ薄い。


  なかなか晴れなかった。晴れなかったが、今は晴れている。でもこのお天気もいつまで持つか。

  忘れていたが今日は啓蟄だった。もっともこんな言葉はめったに使わない。間違っているかも知れない。

  もう一度カレンダーを見よう。そのようである。もっともこの文字を漢字で書いたことはない。


  春の一番のありがたさは、まずは明るさだと思う。明日は誰にでもあるが、その明日が今日にならないといけない。

  だから、明日は永遠に明日。でもお日様は現実に今この瞬間も空にあって、雲もないので明るい。

  もう少し早くこのお日様が出たら。

  なかなかわからないもので、夜型の生活も強いられる今の時代、朝日で目が覚めるというのは贅沢な環境にあると

  いえる。


  夜間、それほど強烈な照明はいらないが、脳が活発に活動するというタイプの人はいる。今も多いのではないか。

  もっともそうゆう人は朝まで起きていて、さらにそのまま会社にいったりも出来るようで、たしかにそれくらいのこと

  は、出来ないと生きていけない。それゆえに、夜間も煌々人工の光が街中を照らす。

  あの美しさは、しかし格別だなー。



  今日は朝から小さい失敗をしている。目覚ましが鳴る5分前に起きたが、本来は8分前である。もっとも、5時半、5時40分

  そうゆう時刻には目で時計を見ている。次が、もう5時45分だった。

  1分は長くて短い。


  毎日使うキーボード。これも掃除機でゴミを取る。掃除機というと吸引力だが、入らなくていいものもさっと入る。

  先っぽで詰っているときもある。でも今日のはトイレットペーパーで、中まで入った。気持ちに余裕があって

  ゴミを入れる紙パックを取り出して、トイレットペーパーだけは取り出した。ついでにというか、わかっているが

  輪ゴムもくっ付いてきた。少しすっきりとした。紙ゴミパックに。15年1月15日と記してある。もう少し使おう。

  このゴミパック、一つで、たしか計算では、100円以上して200円はしない。びっくりである。


  灯油ヒータ、これは頼もしいが、これにも段取りがあって、間違うといけない。順番もある。

  いつもは、まずは灯油を入れているカートリッジに空気を入れる。中が陰圧になっているので。

  道具は、爪楊枝、これで油の出る先っぽを押す。これ、忘れた(書くのも忘れた)。

  すべてがなるべく油が手に付かないようにということを考えてのことだが、それは無理で、2枚の布を使う。


  灯油はいずれ蒸発してゆく。ガソリンよりははるかにゆっくりとだが、さほど気にすることはない。

  しかし、ここはなるたけ手に油を付けないということを鉄則にしている。今日は中間くらいの

  量の油は付いた。わずかであるが。これも考え事をしていての失敗で、後味が悪かった。


  終わったという安心感は持ってはいけないが、それでもどうゆうわけか、やっぱり見つからないというものが

  ときに気になる。それが本であったり、父が持っていた、いや父のために買った時計であったりだが、

  いずれも、それがどこにあるのか、結構探しているがわからない。



  今日は、それ以外に本箱にあるかどうかわかりそうでわからないものを探そうと思った。それというのも、

  かなりの本は本箱に入りきらないので、縦に積んでおいてある。本屋さんではなんと言うのかな。平積みだったか

  違うかも知れない。が、すぐに諦めた。これかも知れないで、本には触らなかった。あまりに綿埃がひどすぎる

  ので。


  ゴミを捨てられない、というのは多くの人はそのようだが、これで悩みが増えるし、いえの狭い部屋の中は

  ごちゃごちゃになる。

  そうゆうことで、何度もこれがテーマのTV番組は作られる。私にも、もうこれはいらない、というものは

  はっきりとある。でも捨てない。まずは捨てるというのは、ちゃんと習慣かあるいは決まりに従って

  ものを捨てる場所に持ってゆかないといけないので。これが大変である。

  分別もあれば、いつがそのゴミの日かというのもある。もう一つ致命的なのは、結構遠いのである。


  ゴミ置き場。最近はものを燃やして処分と言うのに罪悪感を持たなくなった。どっちにしても、最後は自分だって

  燃えて炭酸ガスになるのである。そんな偽善家ではない。

  ただ、ものを捨てるときに、見ないといけない、あるものにまとめないといけない。階段を下りないといけない。

  場所に持ってゆかないといけない。こうゆうことを考えると、ゴミといっしょでいいという結論がどうしても

  先に出る。


  TV番組で、これは批判では絶対にないが、ゴミをまとめたまではあるが、それをある場所に持って行き、そこがゴミの

  集積場で、間違いなく、たとえば市の委託された業者が回収して、ごみ焼却場へと運ぶ。それが燃やされて

  煙突からはかすかに煙が出る。そこまで放送するものは見たことがない。



  10時ころは、まだ雨が降りそうで外に温かみはなかった。

  一度、この食器棚の開けていない「引き出し」になにが入っているかたしかめようとして、開かなかった。

  無理に引っ張った。開いた。大したものはなかった。

  2段目は開かなかった。3段目は開いた。開いたが今度は閉まらなくなった。

  これだからもの探しはやりたくない。いや間違った、引き出しの中とかは、開けられないときがある。


  もっとも私の洋服の整理ダンスには、PC関係の多くの部品が入っていて、着るものよりも多い。

  これだけごちゃごちゃだと、ただただ無力感が残るだけだ。もっとも、この整理ダンスは一応開く。


  整理整頓も出来なければ、ゴミも捨てられないという、毎度のことを書いた。しかし、気になる本は、出てこない。

  父の時計も。



  空はその点いいかどうか。でもこの空を見ていても、ここ数年で青も変わったと思う。美しさ。

  それでも、わずかな時間だが、七変化よろしく、壮大な色と形を見せてくれる。

  青空、どうして青いか。雲の美しさはどうして決まる、謎は多い。




  その一。




  その二。これらはぼんやり雲だが、中に劇的なものもある。かなーと付け足さないといけないか。




  その三。




  その四。でっかい鳥のように見えなくもない。





  その五。特有しぐれ。




  その六。




  その七。このときにもう雪が降っていて、ただレンズには当たらなかった。





  その八。




  その九。きのうの空である。これは夕暮。このあとは雨。


  今も天気だが、予報は芳しくない。

  春である。



春の寒さを思い知る、虫の動きもない、オレンジ色の空

2015-03-06 07:04:58 | 散策
  寒い、春だけど、寒い。春は寒かった。


  1歳になっているので、もう少し考える能力がつかないかな、3月は寒い。これからもっと

  寒くなる。目の前の温度計が、6℃あっても、寒い。あるときは、であるときは暖かくも。

  数字と体感は一致しない。

  数字は冷酷ではない。気の毒な存在だ、何かあると、数字である。


  右肩上がりの幻想に、数字も数列も辟易している。数字は教える、有界というものを。

  最後にはゼロになる。セロに収束して、それが極限値だと教えていないか。



  3月、鳥はいる。鳥が私が起きて灯りをつけるとキーキーと鳴く。

  それだけ食べるものがない。

  虫も見かけない。あの真っ黒けもいるのかいないのか。わからない。

  このごろ食べるものもたくさんは買っていないし、ソロソロ、ゴキブリが食べられるものも底を

  ついているか。


  今のところ、蚊柱のようなものはある。翅の生えている、小さい虫もいえの中にいる。

  でも、こそこそと音をたてるゴキブリは見かけない。しかしいなくなることはない。必ずいる。


  このところ、寒い冬が続いている。このブログで、チョウの姿が増えたときがあったが、

  あれは明らかに暖冬の次の春からで、不思議なことにチョウもカメラを人を怖がらなかった。

  でも、そうゆうことは続かない。


  寒い冬が一回、2回、3回続くと、あれだけいたベニシジミもわずかになる。

  タテハチョウのいくつかは、越冬する。成虫のまま。翅を折りたたんで寒さに耐えている。

  これが春の今ごろ、枯れは色で飛んでいる。そうゆう現象を最近見ない。


  虫はやはりでる。アメリカシロヒトリ、チャドクガ。

  でも薬を撒かないといけない、それほどひどいとき、これも少なくなった。

  どこにでもいたカメムシをも見ないし。

  マメコガネ、これもわずか。


  ないものねだりみたいな文を書いた。


  オレンジ色。












  

  
  きのうの宵の時間に、それまでは晴れていたのだが、雨になってやっぱりと。

  まん丸の月もまったく見えなくなった。