ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 18 ( 民俗学の泰斗? 柳田氏 )

2022-11-15 20:39:52 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                       ・神功皇后の「三韓征伐」

 今回は、最初からコメントなしで氏の解説を紹介します。

 「この遠征は案ずるより産むが易いといった感じで、これという困難もなかったようである。対馬の和田津に立ち寄り、そこから順風にめぐまれ、新羅に押し渡った。新羅王は大いに恐れて、戦わずして素旗(しらはた) をかかげて降伏した。その時新羅王は、神功皇后に向かってこう誓った。」

 ・これより自分は御馬飼になり、毎年春秋二度馬櫛と馬の鞭を献納します。

 ・毎年男女たちを貢ぎ(労働力)として、送り届けます。

 ・東から出る太陽が西から出、川が川上に流れ、川の石が天に昇って星になるようなことがない限り、献納物を怠ることはございません。

 新羅王波沙錦は、微叱己智波珍干岐を人質として出したほか、金銀や錦を八十艘分も提供したと言います。なぜこのようなことになったのかは、次の叙述が語っています。

 「新羅の隣国である高麗と百済の二国の王たちは、新羅が簡単に降伏したと聞いて、こっそり日本軍の様子を探らせた。そして、戦っても勝ち目はない、と悟って、自分から日本軍の陣営にやってきた。そして今後は日本に貢物を奉ることを、叩頭して約束した。神功皇后はその降伏を受け入れ、両国を内宮家(うちつみやけ)としたという。これがいわゆる三韓である。」

 言外にしか述べられていませんが、新羅や高麗、百済が降伏したのは、神功皇后を戴いた日本軍が、一致団結し士気が高かったからだと思います。自分より遥かに強い相手と分かれば、朝鮮族は無駄な戦いをせず服従する方を選びます。これを朝鮮の「事大主義」と呼び、以前は軽蔑していましたが、今は違います。武力にものを言わせる国々がいて、せめぎ合っている大陸国家では「事大主義」も国が生き延びるための知恵です。

 朝鮮半島の国々は、このようにして現在まで生き延びてきました。周囲を海に囲まれ、容易に外敵に攻められなかった日本と違いますので、今は軽蔑していません。しかしウィキペディアで検索しますと、次のように書かれていました。

 「事大主義という言葉がある。 一般的には、時流や大勢に身を任せることで自身の安息を図ろうとする、自律性・主体性を欠いた人間の態度を指す言葉だとされる。」

 「 政治学者の神島二郎によると、柳田国男が民俗学研究を通じて解明しようとしたものこそ、日本人の〈島国根性と事大主義〉であったという。」

 日本に無関係な言葉と思っていましたが、民俗学の泰斗と言われる柳田氏が日本人を説明する言葉として使っていました。そうなると朝鮮人だけを軽視したり理解したりと、他人事のように言っておれなくなります。右左に関係のない民俗学者だと思っていましたが、柳田氏は左傾の学者だったのでしょうか。

 話が横道へそれますが、60年安保の時反日左翼過激派の先頭に立っていたのは、全学連でした。鉄パイプ、釘を打ちつけたゲバ棒と呼ばれる角材、火炎瓶などを使い、機動隊と激しくぶつかったのも彼らでした。その彼らがバイブルのようにしていたのが、吉本隆明氏の『共同幻想論』でした。

 その吉本氏が著作の土台にしたのが、柳田氏の『遠野物語』でした。まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の思考になりますが、柳田氏も左翼系の学者だったということでしょうか。島国根性という言葉は当たっているとしても、日本人が事大主義だという柳田氏は、私から見ればとんでもない学者です。氏の説が正しければ、神功皇后は朝鮮出兵をしていませんし、東條首相は世界を相手に戦っていません。

 それだけでなく、国運をかけた日清、日露の戦争も日本はしていません。柳田氏が民俗学の専門バカでしかなかったことを、はからずも渡部氏の著書のおかげで知りました。代わりにスペースが足りなくなり、〈二闋〉の解説紹介が先送りになりました。

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『日本史の真髄』 - 17 ( 神功皇后と、東條英機元首相 )

2022-11-15 08:26:40 | 徒然の記

  〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                       ・神功皇后の「三韓征伐」

 二闋(けつ)だけ、なぜわざわざ二節に分けて解説をしたのか。読み終わると、理由が分かりました。左翼系の学者が戦後の学界でいかに日本の歴史を書き変えたか、氏はこの点を読者に語っています。

 学界の定説に従っているウィキペディアで、日本武尊が記述されている文章をもう一度読んでみましょう。

 「日本武尊は、景行天皇12年 - 景行天皇41年、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)」

 戦後の歴史学界では生存年代が不詳とされ、中華思想に言う夷狄を意味する「王」という言葉が使われていました。

 「第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。」

 新羅(しらぎ)、高麗(こま)、百済(くだら)の三国が、神功皇后の軍に白旗を掲げ、属国になったと言う「三韓征伐」の事実も、韓国への言及がタブーとなり歴史の教科書で教えられなくなりました。日本が再びアメリカと戦えないようにするため、GHQは日本軍を解体するだけでなく、天皇そのものを無くそうと計画していました。

 敗戦直後の日本でそれをすると、内乱が生じるとマッカーサーが判断し、「十一宮家の皇籍離脱」でやめましたが、「天皇制廃止」を標榜する共産党の活動は放任しました。以来、同党の影響下にある東大の著名な学者たちが力を持つようになった経緯は、何度も「ねこ庭」で取り上げてきました。

 世間の人々が敬意を払っている高名な学者たちが、国民の見えないところでどのようにして日本の歴史を書き変えていったか・・氏が具体的に語っています。そのためには他の闋(けつ)と違った構成にし、二節に分けた、またそうしないと説明しきれない内容があったからです。日本人でありながら敵対する国に協力し、日本の歴史を歪める反日左翼系の学者たちが、今も堂々と国のトップに位置しています。

 民主主義国と言われながらこのような国は、世界広しといえどもおそらく日本だけでしょう。国会の議論を見ていれば、異常さが目視できます。日本を狙った核ミサイルが到達したら、日本が壊滅的打撃を受けるというのに、共産党を筆頭に反日野党は「専守防衛」すべきと主張しています。

 飛んでくるミサイルを撃墜することも、「専守防衛」に反すると反対します。中国や北朝鮮がミサイルを発射したら、即座に大量のミサイルで日本も反撃すれば、「専守防衛」の範囲内になると説明しても、1000キロ以上の射程は「専守防衛」の原則を超えると反対します。息子たちに伝えたいのは、日本の反日左翼政党とその勢力が日本滅亡に手を貸しているという事実、野党議員の意見に理論づけをしているのが左翼系学者だと言う事実です。公明党は政権党にいながら「専守防衛」を言い、もともと国民と国を守る気概のない党です。

 息子たちは話が飛躍すると思うかもしれませんが、氏が著作で訴えている問題点は、現在の日本につながっています。左翼系の学者たちが、歴史を歪め、国民の意識を曇らせ、日本人の誇りと魂をダメにしていると氏は解説しています。このシリーズが長くなっても、なるべく氏の言葉を省略せず息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々に紹介したいと思います。

 ここに書かれているのは、「取り戻すべき日本の歴史」です。

 「日本武尊の妃の弟橘媛が相模の海でなくなられ、その息子の仲哀天皇は熊襲征伐の途中、九州の山中でなくなられた。その時仲哀帝の妃である神功皇后は妊娠なさっていた。」

 「しかし皇后は神のお告げに従って、朝鮮半島へ出陣して、新羅を討とうと決心されたのである。武内宿禰が参謀総長のような役目であった。この時皇后はこう申された。」

 「自分は婦人であり、まだ年も若い。だから勇ましい男子の服装をして、雄大な計画を立て、伊勢の神々をはじめ、御神託をくだされた神々のお助けを仰ぎ、群臣の協力を得て、海を越えて遠征しようと思う。」

 「もしこの遠征が成功すれば、その功績は自分と群臣のものである。万一、遠征が失敗したならば、その罪を背負うのは自分一人である。」

 この潔い言葉を読み、私は一人の人物を思い出しました。昭和22年市ヶ谷の極東軍事裁判で裁かれた、東條英機元首相です。不思議な偶然ですが、平成28年に読んだ 渡部昇一氏の著書『東條英機 歴史の証言』の中に書かれていました。その一部を、転記します。

 「戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。」

 「私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。」

 「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを、希望するものであります。

                    昭和二十二年十二月十九日 於東京 市ヶ谷 供述者 東條英機 」

 責任を他に転嫁せず、自分のものとする潔さは既に神功皇后の時代から始まっていたと、渡部氏が教えてくれました。 

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