ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 16 ( 神功皇后の母系祖 )

2022-11-14 15:44:40 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 今回も日本武尊の続きですが、メインテーマは神功皇后と仲哀天皇です。私だけでなく、多くの人の知らない事実が語られていると思います。

 「系図から言えば、神功皇后こと息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) は、第九代開化天皇の五世の孫である。母系から言えば、天日桙(あまのひほこ) の6世の孫である。」

 「そして天日桙は元来新羅の王子で、日本に帰化した人であった。つまり神功皇后の母系の先祖は、新羅人である。」

 「幼くして聡く、叡智があり、容貌もいと整いとあるから、子供の頃から頭が良く利口で、しかも絶世の美人であったのである。」

 活字でしか知らない神功皇后が氏の説明で、生きた人物となります。夫君の仲哀天皇に従軍して九州へ行った時、手強い熊襲と対面されました。橿日(かしい)の宮において軍議が開かれ、武内宿禰(たけうちのすくね) が天皇の琴に合わせて神託を求めたと言います。このとき神功皇后に憑依現象が起こり、その口を通して神が語ったそうです。

 「天皇よ、どうして熊襲が降参しないのを心配するのか。それは不毛の国にすぎない。わざわざ兵をひきいて、攻めるほどのことはないのだ。」

 「この海の向こうには、日本より優れた宝の国の新羅がある。まずこの国を討て。そうすれば熊襲も自然に降参するであろう。」

 しかし天皇は、この神のお告げを疑られました。

 「西の方を見ても海ばかりで、国などは見えない。皇后に憑依した神は、インチキであろうと思われたのである。その疑った罰が当たって琴をひいているうちに急死したとか、あるいは翌日に戦死したとか伝えられている。」

 「このことを現代流に解釈すれば、元来が新羅系の皇后は、熊襲に朝鮮半島の勢力がついているので、熊襲だけを討とうとしても駄目なことを知っていた。それで神託をかりて、まず朝鮮半島に出兵するようにすすめたのである。そこの人は、戦う準備ができていないことを知っていたのではないか。」

 氏は、左翼系学者の社会科学的な考察がよほど気にかかるらしく、たびたび現代流の解釈をして見せます。今ならマルクス主義が、左翼学者の言うような科学的思想でなく、絶対的思考でもなく、矛盾に満ちた思想の一つだと誰も知っています。氏の著作が出版された平成2年当時は、学界もマスコミ界も左翼思想が威を振るっていたので、そうせずにおれなかったのかもしれません。こう言う観点から見ますと、氏の著書もまた『記紀』のように、歴史を語る記念的書物の一つになっているのかと考えたりします。

 「この詩の後半部については、次節で述べよう。」

 今回は短いブログとなりますが、切りの良いところですから私もここで一息入れます。

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 次回は二闋(けつ) の、〈・神功皇后の「三韓征伐」〉に進みます。まだやっと39ページです。

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『日本史の真髄』 - 15 ( 母校の校歌 )

2022-11-14 11:41:41 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 弟橘媛の辞世の歌の解説を、紹介します。

 「この船に乗る前に、相模の小野という野原で、偽って降参したふりをした賊軍に四方から火をかけられ、日本武尊たちは焼き殺されかかった。この時日本武尊は、伊勢神宮に仕えるおばの「倭姫命(やまとひめのみこと)」から賜った神剣である海叢雲剣(あまのむらぐものつるぎ) を振るって、草を切り払い、猛火を鎮め、賊を滅した。」

 「このために剣の名は、〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉と呼ばれるようになり、今も「三種の神器」の一つとして熱田神宮に祀られている。そしてこの火攻めのあった場所を焼津という。」

 焼津の話は知りませんでしたが、剣が熱田神宮に祀られていることは知っています。

 「四方から猛火が迫ってきた時、日本武尊は宝剣をもって火に立ち向かいながら、君は大丈夫かと弟橘媛に問いかけられた。」

 「あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危ない中でも、あなたは私のことを心配して声をかけてくれました。あの時のやさしいあなたの思い出を胸に抱きしめて、私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めて参ります。ああ愛しいあなた、というのが媛の辞世の大意である。」

 「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君かも」

 解説をされると、弟橘姫の切ない思いが伝わってきます。古今東西、女性が男性に向けた歌で、これほど愛切でしかも崇高なものはないと思うと氏が述べます。古今東西の知識はありませんが、このような歌を読んだ記憶はありません。男女の仲だけと限らず、自分以外のもののため命を捨てる行為は崇高です。野生の野ねずみでさえ、母親は子を守るため身を捨てて戦い、私たちを感動させます。まして人間おやです。

 「日本武尊も東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海を見られて、弟橘姫の悲劇が胸に迫って涙がとまらず、吾が妻ははや(いない) と嘆かれた。ここから東国のことを〈吾妻(あずま)〉と呼ぶようになった、と『古事記』は書いている。」

   東征冥勃を渉り 

   わが妻我に先立ちて没す

 紹介した頼山陽の「書き下し文」は長くなりますが、漢詩の原文では十文字です。

 「これだけの日本史上の佳話が、十文字の漢字に圧縮されているのだから『日本楽府』は難しいわけだ。しかし一度意味が分かれば、短さの中に頼山陽の天才の現れるのをみるのである。」

 頼山陽の才に敬服しますが、解説してくれる氏にも敬服・感謝します。氏の導きがなければ、1ページも読めない自分ですから・・

 「日本武尊は容貌が人並み優れていたため、東国の賊の中には遠くからその顔を仰ぎ見て、その顔はあまりすぐれていて人間のように見えない、神であるのかと言って、弓矢を捨てて降参した者もあったと言われる。当然十三代の天皇になられるはずであったが、東征の帰途病気になられ、数々の武勇伝と人間味あふれる逸話を残して三十二歳でなくなられた。」

 なぜ天皇になられなかったのか、これで理由が分かりました。

 「そのため、弟君が即位された。これが第十三代成務天皇である。しかし成務天皇には皇子がおられなかったので、日本武尊の皇子が皇位を継がれた。この方が第十四代仲哀天皇である。」

 解説されると天皇の系譜がよく分かると共に、直系男子相続が守られていることも知ります。

 「この方にどうして〈哀〉などという字が諡(おくりな) としてつけられているのであろうか。久米邦武博士によれば古代シナの例に、早世した君主に冲帝、或いは哀帝という諡をしたので、それで冲哀帝としたのであろう、冲哀が仲哀となったのは漢字の書き間違いから生じたに違いない、と言うのである。」

 仲哀天皇は九州の熊襲を攻めにいかれて、賊の矢に当たって遠征途中に亡くなられたそうです。天寿を全うされなかったという意味で、この諡がされたのだろうと氏は言います。

 「吾が児、つまり日本武の皇子は、その后を残してなくなった。これが〈西伐嶢酤こつに入り、わが児妻我に先立ちて没す〉という、二行の意である。日本武尊は妻を相模の海に失い、息子を筑紫の山中に失った。その息子の残された妻が、神功皇后なのである。」

 ここまで教えられますと、母校の校歌も新しい息吹を得て蘇ります。後輩たちに歌い続けて欲しいと思います。

    磨くは叡智 修むる徳義

    〇〇、〇〇 栄ある母校

    帆柱の峰に 日ぞ照り渡る

 

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