渡部昇一氏の著書『日本史の真髄』について、氏の解説を紹介している途中で、偶然検索したネットの情報がショックの始まりでした。
「事大主義という言葉がある。 一般的には、時流や大勢に身を任せることで自身の安息を図ろうとする、自律性・主体性を欠いた人間の態度を指す言葉だとされる。 政治学者の神島二郎によると、柳田国男が民俗学研究を通じて解明しようとしたものこそ、日本人の〈島国根性と事大主義〉であったという。」
いくら国民が憲法改正のための安定多数を与えても、反日マスコミの報道に惑わされ右顧左眄する現在の自民党議員諸氏を語る言葉なら、そうかもしれないと納得する気持ちがあります。
しかし日本人自体が、事大主義の国民だと柳田氏が述べているのだとしたら、それはうなづけません。結局私は前回のブログを、次のような言葉で終わりました。
「右左に関係のない民俗学者だと思っていましたが、柳田氏は左傾の学者だったのでしょうか。」
「柳田氏が民俗学の専門バカでしかなかったことを、はからずも渡部氏の著書のおかげで知りました。」
意外な結論に気持ちが沈んでいところへ、「ねこ庭」を訪問される方の一人から、ショックを受けたというコメントがありました。「ねこ庭」が「学びの庭」でもあるとするなら、果たして事実がどうなのかを調べなくてなりません。疑問を解く鍵になるのは、二人の人物です。
1. 柳田国男氏が民俗学を通じて解明しようとしたは、日本人の〈島国根性と事大主義〉だったと説明する神島二郎氏
2. 柳田氏の『遠野物語』を基にして、過激派左翼学生のバイブル『共同幻想論』を書いた吉本隆明氏です。
昨年の12月から今年の1月にかけて、私は『遠野物語』と『共同幻想論』を読み、「ねこ庭」で取り上げています。検討の材料として「ねこ庭」の書評を加えると、最初に言えることは、神島氏の説明の間違いです。
『遠野物語』の解説には、民俗学を通じて氏が求めたものは「日本人とは何か」であったと書かれていますし、私自身も〈島国根性と事大主義〉に関する叙述を目にしていません。
渡部氏の著書に出てくる頼山陽の漢詩が、短いにもかかわらず、氏の解説なしに理解不可能だったように、柳田氏の『遠野物語』も専門家の手助けなしには読みこなせない書だったのかと、今は分かります。
簡単に言えば『遠野物語』は、遠野地方に伝わる昔からの話、約400篇を紹介した本です。後書きや前書きで氏の解説がありますが、本文中はそのままの説話が番号を付して並んでいます。神島氏がこの本を読み、日本人の〈島国根性と事大主義〉を研究した本だと言うのなら、それは本に書かれている事実でなく、氏の解釈です。間違いだと言いたい気持ちもありますが、あえて「氏の解釈」と言うに留めておきます。
吉本隆明氏について言いますと、これはまさに『遠野物語』の解釈の問題で、柳田氏の意見ではありません。氏自身の説明がありましたので、以前のブログから転記して紹介します。
「『遠野物語』にも『古事記』にも、編者たちの問題意識の自然な表れとして、それぞれの方法が貫かれている。そしてこれらの方法は、私の問題意識とは違っているため、記載された内容について重点の置き方が当然違っている。」
「そのため引用に際しては、私の問題意識に沿って、要約や読解や勝手な引用がなされた。ただし、改ざんされていることはない。」
つまり氏は柳田氏の予測する解釈をせず、自分の問題意識に沿って解釈しています。この時私は次のように考えていました。
1. 『遠野物語』
・文章は平易ですが、書かれている内容が、何を伝えようとしているのか、理解できないという「分かりにくさ」がある。
2. 『共同幻想論』
・使われている言葉そのものに、著者の造語が多く馴染めないことと、著者独特の思考回路があり、理解に時間がかかるという「分かりにくさ」がある。
「分かりにくさ」とは、「曖昧」と言うことではありません。著者の中にはちゃんとした思考の論理と体系があるが、同レベルの知識のない者には理解できないという「分かりにくさ」です。「分かりにくさ」と同じ言葉は、「難解」です。内容の違う本ですが、『遠野物語』と『共同幻想論』に共通しているのは「難解さ」です。「分かりにくい」書は、読者が色々な解釈をする余地が生まれてくる。現時点での結論はこれです。
知識のない私は、昨年『遠野物語』を読んだ時次のような感想を述べました。
「私には〈醇乎たる文芸作品〉と言うより、〈取り留めのない話〉でしかありません。番号を付した〈話〉には、体系も論理も見当たりません。私の前にあるのは、〈取り留めのない話〉の羅列です。これらの話に学問の要素であるのなら、整理・分類された上で、氏の説明が要るのではないでしょうか。」
「全国を訪ねている氏の頭の中では、各地の民話が比較検討され、〈日本人とは何か〉という学問的探究心につながるものが見えているのだと、思います。整理していない個別の話を、読者の前に並べるだけの作品なら、私はこれを〈未整理の研究材料集〉と呼びたくなります。」
氏と同レベルの知識と素養のある人物は、この書を高く評価していました。
1. 田山花袋 ( 最も古い友人 )
2. 島崎藤村 ( 柳田氏から、著書を贈られた作家 )
3. 泉鏡花 ( 晩年まで親交のあった作家 )
4. 周作人 ( 中国人民俗学者 作家魯迅の弟 )
検証の結果、柳田国男氏は左翼系の学者でないことがだいぶ明らかになりましたが、苦い失敗を繰り返さないため、次回もさらに検討を進めます。