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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

村上誠一郎氏の思考 - 2 ( 支援者の言葉 )

2022-11-21 12:43:23 | 徒然の記

 デモクラシータイムスの動画のチャンネル登録者数 13.6万人が、多いのか少ないのかよく分かりませんが、私が以前見ていた動画にの登録者数と比較すると、そこそこ影響力のある動画である気もします。青山氏の「僕らの国会」は今も見ていますが、他の動画はほとんど見ていません。

 1. 京本和也氏

  ・昭和63年、北海道生まれ、33才 帯広工業高校卒

  ・管理動画名 「KAZUYA」

   ・チャンネル登録者数  72.5万人

 2. 竹田恒泰氏

  ・昭和50年、東京生まれ、45才  慶應義塾大学卒  旧皇族の竹田家出身
 
  ・管理動画名 「竹田恒泰チャンネル 2」
 
  ・チャンネル登録者数      39.9万人
 
 3. 北畑 淳也氏  
 
  ・平成4年奈良県生まれ、28才 早稲田大学卒
 
  ・管理動画名 じゅんちゃんの「哲学入門チャンネル」
 
  ・チャンネル登録者数      4.7万人
 
 4. 青山繁晴氏  
 
  ・昭和27年神戸市生まれ、70才 早稲田大学卒
 
  ・管理動画名 青山繁晴チャンネル「僕らの国会」
 
  ・チャンネル登録者数      36.6万人

 村上氏の経歴の前に、動画に寄せられた視聴者のコメントを紹介します。保守系・左翼系いずれの動画にも、ヤラセのコメントが混じっていると言う噂がありますが、それもコメントのうちかと考えています。

  ・村上さんは今の自民党の中でもまさに国を思い、国民を思い、国の将来を案じて活動をされていることは素晴らしいと思います。今後も安倍-菅政権の愚作に疑問を呈して声をあげる姿勢を末長く貫いて頂きたいと思います。村上頑張れ
  ・今日の対談は大変充実した内容でした。有難うございました。
 
  ・村上誠一郎さんも石破さんも自民党を出るべきですね。又は自民党を割るべきです。今の自民党内で絶滅危惧種がものを言っても遠吠えに聞こえます。自民・公明・維新(国民民主)連合では、どう見ても未来は見えない。
 
 
  ・私は愛媛2区の選挙民で、村上誠一郎さんには2期目から連続10回投票しています。選挙のたびに迷わず投票できる唯一の政治家であり、今回のお話しからも愛媛の誇りだと再確認しました。良い番組をありがとうございました。お三方の益々のご健康とご活躍をお祈りします。
 
 コメントはほんの一部ですがいずれも真面目なコメントですから、そう言う見方もあるのかと、うなづきながら読みました。こうした視聴者の声を聞いていれば、氏の意見が変わらない理由も分かります。次回は氏の経歴を紹介いたします。
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村上誠一郎氏の思考 ( 「戦争反対」「憲法改正反対」 )

2022-11-20 23:44:28 | 徒然の記

 今回から、渡部氏の著作の紹介に戻ると言いましたが、偶然村上誠一郎氏の動画を観て予定を変更しました。安倍氏を国賊発言して物議を醸した議員で、氏の考えは私の対極にあります。

 今日まで無視してきましたが動画を観て、息子たちのため、真面目に取り上げようと考えました。神島教授のように知的遊戯が先に立ち、学問的珍説を述べるタイプでなく、氏は情に厚く、心に訴える政治家です。

 「憲法を改正して、戦争に行くのは20代の若者ですよ。前の戦争でも多くの若い人を殺し、憲法を改正してまた若者の人生を奪うのですか。そんな可哀想なことを、どうしてできますか。」

 氏は語りながら涙目になり、声が詰まりました。本気なので、聞く人の心に響きます。「戦争反対」「憲法改正反対」というより、「東京裁判史観」の一点で、氏は反日左翼野党の意見と一致しています。

 実は3年前の9月に、「村上誠一郎議員の動画 」というタイトルで一度氏を取り上げています。この時見た動画は、その4年前の動画でしたから、現在から計算すると7年前のものになります。

 今回急遽「ねこ庭」で紹介しようと考えた理由は、7年前から氏の思考が変わっていないところにあります。プーチン氏の核の脅し、北朝鮮の度重なるミサイル発射、習近平氏の台湾・尖閣侵略の公式宣言があっても、「戦争反対」「憲法改正反対」を語っています。信念を曲げない政治家という見方もできるのでしょうが、国際情勢の読めない人物とも言えます。

 今回見たのはデモクラシータイムスの動画(チャンネル登録者数 13.6万人)で、去年の6月9日に放映されたもので、タイトルは次のようになっています。

 自民党 異端の本流 村上誠一郎(自由民主党)【山田厚史のここが聞きたい】」

     ・昭和31年4月生まれ。早稲田大学法学部卒業。昭和61年弁護士登録。仙石山法律事務所所属。自由人権協会理事。

 〈 山田厚史氏 〉 元朝日新聞社編集委員 デモクラシータイムス代表

  ・昭和23年生まれ。同志社大学卒業後昭和46年朝日新聞入社。平成5年から経済部編集委員「国際経済と金融」担当。

  ・平成8年からテレビ朝日コメンテーターとして、「サンデープロジェクト」「朝まで生テレビ」などに出演。

  ・平成29年からインターネットメディア「デモクラシータイムス」で、「山田厚史の闇と死角」を担当。 同年10月、第48回衆議院選挙で立憲民主党候補として千葉5区で立候補、落選。

 山田氏の経歴を詳しく紹介しているのは、こういう人物の主催する番組に出演した氏の姿が、かって赤旗のインタビューを受け安倍氏批判をした、自民党元幹事長の古賀誠氏と重なるからです。

 私の言葉を嫌がる人もいると思いますが、山田氏は反日左翼マスコミの筆頭にいる朝日新聞の元編集委員で、升味氏は反日左翼弁護士です。二人の聞き手に持ち上げられながら、笑顔で応対している村上氏を見ているとどうしても首をかしげたくなります。動画には、視聴者のコメントも表示されていますが、私と同じ意見を言う人はなく氏への賞賛ばかりです。世間の広さ、自由な意見のあふれる日本を教えられます。

 次回は、投稿者のハンドルネームを外して言葉だけをいくつか紹介します。( たった82人の方の登録しかない「ねこ庭」のブログですから、goo事務局には無視してほしいものです。)

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『日本史の真髄』 - 19 ( 再確認できたこと )

2022-11-20 15:28:02 | 徒然の記

 今日は11月20日、日曜日です。15日から昨日まで、柳田国男氏に関する左翼系学者の間違った意見を検討していました。久しぶりに渡部氏の著書に返ると、調子がすぐに戻りません。柳田氏の話は敗戦前後のつい77年前ですが、神功皇后の漢詩は1700年前の出来事です。

 だからもう一度、当時の時代区分を確認し気持を調整しています。

     旧石器時代 ・・ ( 紀元前約12万年前 ==>   紀元前約1万4,000年前 )

  縄文時代  ・・ ( 紀元前約1万4,000年前 ==>   紀元前約500年前 )  土偶・土器

    弥生時代  ・・ ( 紀元前約500年前 ==>   紀元300年代 )  銅剣・銅矛 

           神功皇后・応神天皇  秦氏百済より渡来・帰化 文字伝来

  古墳時代  ・・ ( 紀元300年 ==>   紀元500年代 ) 埴輪 聖徳太子(574年) 

  飛鳥時代  ・・ ( 紀元600年 ==>   紀元700年代 ) (白鵬時代)  古事記・日本書紀 天武天皇(686年)

  奈良時代  ・・ ( 紀元800年 ==>   紀元900年代 )  ( 天平時代  )

 気持が慣れた来たところで、氏の著作へ戻り目次を眺めます。全部で23闋(けつ)ありますが、まだ下記二闋の「三韓来 ( さんかんきたる)」の後半部分でした。

   一闋 日出処 ( ひいずるところ )  「日本」という国名の起源   6行詩

   二闋 三韓来 ( さんかんきたる)  古代の大英雄、日本武尊   11行詩

                     神功皇后の「三韓征伐」

   三闋 炊煙起 ( すゐえんおこる  )  仁徳天皇の仁政       6行詩 

   四闋 四天王  ( してんわう )    用明天皇の「改宗」     5行詩

   五闋 大兄靴   ( おほえのくつ )   大化の改新                         7行詩

   六闋 復百済   (くだらをふくす)     白村江の戦い                    9行詩

   七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                  7行詩

 ウィキペティアの解説が神島氏の奇妙な説を紹介したため、「ねこ庭」の学徒である私は、柳田氏が左傾の学者???と慌てふためき、神島氏の間違いを再確認しました。昨日の話です。

 しかし結果としては、これが幸いでした。敗戦後の77年間だけでなく、1700年前の神功皇后の歴史も左翼系学者が改変している事実を知ることになったからです。渡部氏の著書は頼山陽の漢詩を通じ、古代史を教えるだけでなく、左傾の学者たちが中国と韓国の歴史書を重視し日本史を書き換えていることも解説しています。彼らは今、神功皇后だけでなく、聖徳太子さえ教科書から削除しようとしています。

 「罪を憎んで人を憎まず」と言いましたが、こうした学者の動きは全て敗戦後の南原氏から始まっています。「憲法研究委員会」と「東大社会科学研究所」を氏が作り、同時期に「日本学術会議」が再出発しました。南原氏は「日本学術会議」には関係していないようですが、GHQがこの三つの学者組織の設立に関与していたことを再確認しました。

 現在の「平和憲法信仰」も、神功皇后の「三韓征伐」削除も、根っこは同じ左翼系学者の仕事と分かりましたので、次回からのテーマに力が入ります。

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

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柳田国男氏の「民俗学」 - 6 ( 神島氏の間違いの証明 )

2022-11-19 06:26:26 | 徒然の記

 南原氏がGHQに絡め取られた理由は、とても簡単です。GHQは東洋一の荒馬だった日本を占領するため、次の2点に力を入れていました。

  1. 米国は日本統治をするにあたり、日本の社会、政治、経済、文化等について、事前に詳細な研究をしていた。

  2. 軍部、政界、財界、学界、法曹界、マスコミ界等について、どのような人物がトップにいるのか、その人物たちの経歴、家族、友人関係など、詳細なデータを持っていた。

 この膨大なデータをもとに、強大な武力と資金力で敗戦後の日本のエリートたちを攻略しました。「飴と鞭」という言葉は一般的ですが、彼らが実行したのは「資金と脅迫」でした。敗戦のショックで自信喪失したエリートたちを、さまざまな口実で脅し、協力した者には資金と名声を与えました。

 これ以上述べていきますと、〈 柳田国男氏の「民俗学」〉 という表題からかけ離れますので、そろそろ終わらなくてなりません。始めた理由が、「柳田氏の民俗学は丸山氏の政治学となんの関係もない。」と反証するためでした。

 神島氏は亡くなられていますが、今後「知の遊び」をする学者が似たような珍説を発表し子供たちを惑わさないよう、最後に二つだけ紹介したい事実があります。

  1. 丸山氏の「日本のファッシズム論」・・・「八月革命説」同様の珍説

  2. 我妻栄氏の講演記録 ・・南原氏とGHQの関係を示唆

〈 1. 丸山氏の「日本のファッシズム論」〉

  「ファシズムとは、反革命の最も先鋭的な、最も戦闘的な形態であり、イタリアやドイツのファシズムは、議会制社会下の大衆運動による下からのファシズムであったが、日本のそれは、軍部や官僚による上からのファシズムであった。」

 ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニがいて、国民を戦争に駆り立てましたが、日本にはもともと独裁者がいません。これではファシズム論が成り立たないので、天皇を独裁者と見たり、東条英機を独裁者にしたりしますが、事実が伴いませんでした。氏は窮余の案として、「八月革命説」同様の珍説を主張し、帝国陸軍の上層部がファシズムの中心とこじつけましたが、これもピタリと該当しません。

 日本が戦争へ突き進んだ原点は、幕末に生まれた尊皇攘夷思想であり、列強の侵略から国を守ろうという危機感と愛国心ですから、西欧のファシズムに結びつけようとするところに無理があります。しかし氏は、アメリカの報復裁判に協力し、日本のファシズムを積極的に主張しました。今なら、誰も信じないのではないでしょうか。

〈 2. 我妻栄氏の講演記録 〉

 昭和21年に南原氏が、「憲法研究委員会」を設立した当時の思い出話を、民法学者我妻栄氏が披露した講演記録です。

 「委員会が議論を始めた時、突如として政府の憲法改正要綱が発表された。委員会が発足してから、わずか二十日の後である。」 

 「当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。」

 「今一つは、〈憲法改正要綱 〉が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。」

 「それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだ。」

 「当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかしこれを〈 押しつけられた不本意なもの 〉と考えた者は一人もいなかった。」

 ここで氏が言う「極秘にされていたその出所」は、GHQを指しています。政府に渡されると同時か、あるいはそれ以前か、微妙な時期にGHQが南原氏を通じて「憲法研究委員会」に渡しています。

 集まっている委員たちは、自由主義や社会主義を信じる教授ですから、戦前は保守系の教授たちに攻撃され、押さえつけられていましたので、マッカーサーの「お墨付き」が、彼らを解放したと言うことになります。東大学内というより、日本の学界での大勝利ですから、その驚きと喜びが分かります。

 以上、ほとんとが過去の「ねこ庭」からの引用文ですが、息子たちのためにはこの流れで読む方がわかり易いのでないかと思います。

 次回から、中断している頼山陽の「漢詩」の紹介に戻ります。 

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柳田国男氏の「民俗学」 - 5 ( 丸山真男氏の経歴など )

2022-11-18 16:38:15 | 徒然の記

 ウィキペディアで神島氏の履歴を読み、「神島は、丸山真男と柳田国男に師事し、」という文章を目にした時、真っ先に浮かんだのが、終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の東京帝国大学総長南原繁氏が学内に 設けた「憲法研究委員会」でした。

 平成29年の「ねこ庭」で、私は「変節した学者たち」のタイトルでブログを綴り、この「憲法研究委員会」の中に、丸山氏の名前があったこと思い出し、メンバー名を探しました。

 全員がそうとは言えませんが、皇国史観を語っていたのに戦後に変節し、東京裁判史観を認め社会主義者になった恥ずべき学者が名前を連ねています。その筆頭が宮沢俊義氏ですが、ここでは繰り返さず、参考としてメンバー名をもう一度紹介します。

 〈 憲法研究委員会メンバー 〉

 委 員 長   宮沢俊義 ( 法学部 )

 特別委員  高木八尺 ( 法学部 )  杉村章三郎         岡 義武   末弘厳太郎

       和辻哲郎 ( 文学部 )  舞出長五郎 ( 経済学部 )

 委  員  我妻 栄 ( 法学部 )  横田喜三郎          神川彦松   尾高朝雄

       田中二郎        刑部 荘           戸田貞三 ( 文学部 ) 

       板沢武雄        大内兵衛 ( 経済学部 )     矢内原忠男

       大河内一男       丸山真男 ( 法学部助教授 )    金子武蔵 ( 文学部助教授 )  

 メンバー名の最後の方に書かれていた丸山氏が、「日本国憲法」制定の実務中心者だったと知ったのが、「〈ねこ庭〉の学徒もびっくり」の一つでした。その氏が南原繁氏に師事していた事実が二つ目の驚きです。南原氏はGHQとつながりのある著名な学者でしたから、その彼に師事していたとなれば丸山氏がよく理解できます。三つ目のびっくりは、「八月革命説」でした。

 明治憲法から日本国憲法へと移行するにつき、憲法学者たちはどうしても理論的な裏づけができませんでした。マッカーサーが押しつけた憲法だと正直に言えば簡単ですが、学者の世界ではできません。苦肉の策として、宮沢氏がGHQに助言したのが、「日本は革命によって突然明治憲法を破棄し、日本国憲法を施行した。」という、八月革命説でした。

 マスコミはもちろん報道しませんし、経緯を知る人も沈黙し、日本国憲法が国民の総意で制定されたという作り話が広がっています。このおかしな「八月革命説」を考えたのが丸山氏で、自分の意見としてGHQに伝えたのが宮沢氏でした。これを証明しているのが、前回の氏の経歴の記述にありました。

  ・昭和21年2月14日、東京帝国大学「憲法研究委員会」の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆

  ・委員長の宮沢俊義は、丸山が提示した「八月革命説」を丸山の承諾を得て論文発表

 「変節した学者たち」のブログで、憲法学者・宮沢俊義氏を、GHQに魂を売った「獅子身中の虫」と批判しましたが、丸山氏はその氏を支えた学者です。

 宮沢氏は、当時の日本で第一流の憲法学者と言われていました。これを知るGHQが圧力をかけ「憲法研究委員会」の委員長にしたのだから、協力しても無理はないと弁護する教授もいます。戦犯の罪名で総理や高官たちを処刑するGHQですから、氏が膝を屈したのも責められないという意見です。

 しかし国難を前にした吉田松陰は死を恐れず、獄に入れられても信念を曲げず、二十代の若さで亡くなりました。そんなご先祖さまを知れば、20才をとうに過ぎた著名な学者がアメリカの脅しに屈した姿は、やはり軽蔑するしかありません。

 丸山氏の経歴を離れ、話が宮沢氏や南原氏に飛びますが、これらは全て繋がっており、無関係ではありません。こういう丸山氏に師事していた神島氏が、丸山氏と柳田氏を結びつけるなどとんでもない、という証明をしているつもりです。

 南原繁氏はGHQに協力し、「日本国憲法」の理論づけと普及のため「憲法研究委員会」を作り、同じ時期に「東京大学社会科学研究所」を創設しています。

 この辺りの説明は、過去の「ねこ庭」から大半を引用していますが、大事なことなので重複して紹介します。

 私が調べた情報では、GHQは「憲法研究委員会」だけでなく、「東京大学社会科学研究所」と「「日本学術会議」の設立にも関与しています。昭和20年9月にGHQの統治が始まると、翌年に彼らは南原氏を動かして反日・左翼系の学者を集め、「東京大学社会科学研究所」と「憲法研究委員会」を立ち上げさせています。

 時系列で示しますと、次の通りです。

  1. 昭和20年 9月、ミズーリ号にて降伏文書調印。GHQの統治始まる。

  2. 昭和21年8月、南原総長 東大内に 「東京大学社会科学研究所」創設 

  3. 昭和21年8月、 南原総長 東大内に「憲法研究委員会」設立  

  4. 昭和21年11月、「日本国憲法」公布 ( 国際法違反の憲法 )

  5. 昭和24年1月、「日本学術会議」設立  ( GHQが関与し、物理学者仁科芳雄氏協力  )

 南原氏が、なぜGHQに協力したのかについては次回紹介します。

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柳田国男氏の「民俗学」 - 4 ( 丸山真男氏の経歴 )

2022-11-18 11:27:52 | 徒然の記

 今回はウィキペディアから丸写しの、丸山氏の経歴です。「神島は、丸山真男と柳田国男に師事し、」と書かれていましたので、丸山氏は神島氏より年長かと思っていましたら、6才も年下でした。しかも神島氏同様、軍隊経験を持っていました。

 しかしこの発見は「インド人もびっくり」「〈ねこ庭〉の学徒もびっくり」の話ではありません。経歴をじっくり読まれると分かりますが、氏こそが「日本国憲法」成立に手を貸した反日左翼教授の筆頭でした。新進気鋭の若手学者として東大の長老教授たちに一目置かれ、大事にされ、敗戦後の学界で縦横無尽の活躍をしていました。戦後民主主義のオピニオンリーダーとして数々の発言を行い、60年安保では過激派学生の先頭に立ちマスコミにもてやされました。

 こういう人物と柳田国男氏を結びつけたというのですから、神島氏を「知の遊び」をする学者と私が評するのも分かってもらえるのではないでしょうか。異質のものを繋ぎ合わせ、奇妙な意見を考え出すのは、吉本氏や神島氏のような異質の頭脳を持った人間にしかできないことです。

 丸山氏は私が嫌悪する東大の反日左翼学者の中で、第一位にランクされる人物となりますが、「奢れるものは久しからず、ただ春の世の夢の如し」で、晩年は酷評され病を得て、失意のうちに亡くなります。こうなりますと、酷評が難しくなります。

 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、今の私のためにあるのでしょうか。氏の経歴を紹介致しますが、「ねこ庭」を訪問される方々は叙述のトーンが変化する理由をどうかご理解ください。

 〈 丸山氏の経歴 〉

  「丸山真男は、大正13年大阪市生まれ、平成8年82才で没」「日本の政治学者、思想史家、専攻は日本政治思想史」「東京大学名誉教授、日本学士院会員」

  ・大正10年父が読売新聞・経済部長となったため、四谷尋常小学校へ転向。父の友人長谷川如是閑らの影響を受け、思想形成

  ・昭和8年4月10日、本郷仏教青年館で開催された唯物論研究会の講演会に参加。同講演会は警察の命令により、長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や解散。

  ・聴衆の一人であった丸山は本富士警察署に勾留され、特高の取り調べを受ける

  ・昭和9年、一高を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学。「講座派」の思想に影響を受ける

  ・昭和12年、大学卒業後南原繁の研究室の助手となる

  ・昭和15年、東京帝国大学法学部助教授となる

  ・昭和19年7月、すでに30歳で徴兵年齢を過ぎていたが、陸軍二等兵として教育召集を受けた。思想犯としての逮捕歴を警戒した一種の懲罰だったとする見方もある

  ・大卒者は召集後でも、幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島へ送られた。9月、脚気のため除隊決定。11月、応召より帰還。

  ・昭和20年3月、再び召集され広島の船舶通信連隊で暗号教育を受けた後、宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。

  ・4月、参謀部情報班に転属。6月に一等兵に昇進。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され被爆

  ・丸山は司令部棟の建物の影となるところにいたため、爆風に晒されることは免れた。自分がたまたま建物のおかげで死ななかったことから、被爆した死者に対する申し訳なさを抱え、戦後24年間被爆体験を語らなかった

  ・昭和20年8月15日に終戦を迎え、9月に復員。「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。この経験が、戦後「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという指摘がある。

  ・昭和21年2月14日、東京帝国大学「憲法研究委員会」の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆

  ・委員長の宮沢俊義は、丸山が提示した「八月革命説」を丸山の承諾を得て論文発表

  ・昭和25年6月、東京大学法学部教授に就任。

  ・昭和35年の、いわゆる60年安保闘争をを支持する知識人として、理論を重んじる学界の領域を越え行動を重視し、戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言をするなど、大きな影響を与えた

  ・1960年代後半になると逆に、「欺瞞に満ちた戦後民主主義」の象徴として全共闘の学生などから激しく糾弾された。

  ・昭和44年3月、肝機能障害により入院。

  ・昭和46年心労と病気が重なったことで、、東大を早期退職

  ・昭和49年に東京大学名誉教授。昭和53年には日本学士院会員会員

  ・平成8年8月15日(終戦の日)に死去、82歳。家族のみで密葬を行い、約1週間後に死去が公表

 軍隊でも氏は士官候補生になることを拒み、二等兵からから出発し、上官にしごかれ続けます。思想犯としての逮捕歴から、懲罰的召集だったと言いますので、過酷な軍隊生活だったと想像されますが、変節しなかったところは筋の通ったマルキストだったと敬意を評します。

 「日本国憲法」成立の立役者だった事実は、許すことのできない罪というより、犯罪行為だと思いますので、次回は息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々のため、驚くべき事実を紹介いたします。

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柳田国男氏の「民俗学」 - 3 ( 神島二郎氏と、柳田国男氏の略歴 )

2022-11-17 17:33:23 | 徒然の記

 神島二郎という人物について、今回ウィキペディアの説明文の中で初めて知り、経歴を検索してみました。

 「神島二郎は、大正7年東京市四谷生まれ、平成10年没」「日本の政治学者、思想史家、立教大学名誉教授」

  ・昭和17年 東京帝国大学法学部政治科入学

  ・昭和18年 東部第六部隊

  ・昭和19年 仙台予備士官学校 フィリピン方面軍特別情報部

  ・昭和21年 復員

  ・昭和22年 東京大学法学部卒 大学院特別研修生

  ・昭和29年 明治大学講師  翌年 立教大学嘱託

  ・昭和34年 立教立教大学法学部教授  

  ・昭和48年 立教立教大学法学部部長 

 すでに故人となられていますから、あまり酷評しないように心がけます。学徒兵として動員され軍隊経験を持つ人物で、復学してからは大学一筋で過ごしています。軍隊経験があるから反日にならないと限らないのは、司馬遼太郎氏の例があります。ウィキペディアの経歴情報の中で、私の目を引いたのが次の説明でした。

 「神島は、丸山真男と柳田国男に師事し、両者の業績(丸山政治学と柳田民俗学)を架橋したと言われる。」

 「戦争に敗れた衝撃から、近代日本の歩んだ道筋を追究し、神島が提唱した〈第二のムラ〉という概念は、近代日本史を解くキーワードの一つと評価されている。」

 丸山政治学と柳田民俗学は相容れない異質の学問ですが、それを結びつけたというのですから驚きました。もしかすると氏は、吉本隆明氏に似た人物だったのではないでしょうか。明晰な頭脳と知的探究心に溢れた吉本氏は、柳田氏の愛国の民俗学を反日過激派の書と結びつけましたが、神島氏は大学の研究室で同じ作業をしていたことになります。

 この説明では、息子たちは事情が飲み込めないと思いますので、違いをハッキリさせるため、まず柳田氏の略歴と丸山氏の経歴を紹介します。

〈 柳田氏の略歴 〉

 「明治8年に生まれ、昭和37年に88才で没。」「日本の民俗学者。官僚」「明治憲法下で、農務官僚、貴族院書記官長」「終戦後から廃止になるまで、枢密顧問官」「日本学士院会員、文化勲章受賞、勲一等旭日大綬章」

 ウィキペディアの説明に驚くあまり、自分が書いていた書評を忘れて「専門バカ」と失礼なことを言ってしまいました。お詫びのため、当時の書評と大藤時彦教授の解説文を転記して紹介します。

 「当時の書評」

  「相変わらず、少しずつしか読み進めませんが、ここまでで発見できたことが四つあります。」

   1. 信心深い人は、神様が助けてくださるという思想

   2. 人を騙すような悪いことをする者は、神様が罰を下されるという思想

   3. 民話では、権現様、地蔵さま、龍神、明神様、狼様など、八百万( やおよろず )の神様が扱われている

   4. 氏の文章は簡潔で、推敲された名文である

 この書評を思い出していれば、「専門バカ」という言葉は出ていません。成城大学教授で民俗学者の大藤氏の解説文も、すっかり忘れるという失敗を重ねています。解説文を読めば、柳田氏が左傾の学者か? などという疑問は生じる余地がありません。

 「大藤時彦教授の解説文」

  「柳田先生が、晩年力を注がれた祖霊信仰も、こういう遠野の生活などでみられた実感に支えられ、動きなき信念となって、一つの体系にまで成長したものに違いない。遠野が先生にとって、忘れられぬ土地であり、今日は、民俗学のメッカと言われているのも偶然ではない。」

 愛する故郷の土地と結びついた「祖霊信仰」は、そのまま日本の神話と繋がり、時代を経て皇室への敬愛となっていきますから、民俗学は日本の文化や歴史を否定する左系の思想とは、異なる学問だと分かります。

 神島教授が、戦後反日左翼の先頭にいた丸山氏と柳田氏を結びつけた行為も、学問的には吉本氏に似た「知の遊び」だったような気がしてきます。柳田氏と丸山氏がどのように異質の人間だったかを知るには、丸山氏の「略歴」でなく「経歴」の方が良いと考えます。

 昔テレビのコマーシャルで、「インド人もびっくり」という言葉が流行ったことがありました。次回の「ねこ庭」の話は、私には「〈ねこ庭〉の学徒もびっくり」の発見です。( スペースの都合で続きを次回といたします。)

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柳田国男氏の「民俗学」 - 2 ( 難解な吉本氏の著書にも、自由な解釈 )

2022-11-17 07:25:20 | 徒然の記

 神島二郎氏について言及する前に、多くのファンがいると言われる吉本隆明氏の『共同幻想論』について、私の考えを整理しておきたいと思います。以前の「ねこ庭」のブログを読まれている方は、重複する部分があり、時間の無駄になりますのでスルーしてください。

 「幻想」と言う言葉は氏が独自に使う造語ですが、「幻想」と言わずに、「思考」または「考え」とすれば分かりやすいのに、氏はそうしません。その概要は下記の通りです。

  〈 全幻想領域 〉・・人間の思考の全体構造

  1. 自己幻想 ・・芸術理論  文学理論

  2. 対幻想  ・・家族 セックス 男女関係

  3. 共同幻想 ・・政治 国家 法律 宗教

 氏はこの三つの幻想の内部構造と相互関係を考えると、世界の全てが理解できると主張しています。何年間かの思索と読書の積み重ねで得た、氏独特の思考体系ですから、簡単に分からなくて当然ですし、分かる必要も感じません。そこまで言い切れるのは、柳田氏と違い氏には「自己愛」があっても「愛国心」がないからです。

 私は哲学書を読む時、その難解さに苦労します。しかし氏は優れた理解力、読解力を持つ人でどんな書も読みこなし、自分のものにしています。

 フロイト、ヤスパース、フォイエルバッハ、ニーチェや、カントの言葉をたくさん引用し、彼らに同調するというより、反論したり批判したりし、「共同幻想論」の妥当性の補強材として使っています。氏の著書を難解にしているのは、哲学者たちの言葉をそのまま使うところにもあります。

 しかし西欧の哲学者たちが語る「神」は、一神教「キリスト教」の神です。日本の「八百万の神」が、思考の中にあるのではありません。氏が使っている「家族」、「共同体」、「国家」の概念は、一神教の風土と文化の中でのものです。同じ言葉でも中身が異なっているのですが、氏は頓着せずに使っています。私から見ますと、頭脳明晰な氏の意見ですが、それでは本気で読む気になれません。

 吉本氏が言おうとしているのは、日本人の心の一部である「祖霊信仰」の否定です。つまり「ご先祖」のご苦労と尊い犠牲のおかげで、現在の自分たちがあるとする「感謝と尊敬の念」の否定です。

 1.2.3.という〈全幻想領域構造〉の中で、氏が一番重きを置くのは〈自己幻想〉です。いわば、確立された個人の考えのことで、誰にも犯されてならない思考です。ところが〈共同幻想〉が〈自己幻想〉を侵食し無理やり変えます。〈共同幻想〉の中身が、政治、国家、法律、宗教 と定義されているのを見れば分かりますが、こうしたものが国家権力と結びついて〈自己幻想〉をダメにする。だから、こういう権威や権力とは戦わねばならない。妥協してはならないと、氏の意見はこのようになります。

 氏は戦前の〈自己幻想〉をダメにした最大のものが天皇制であるとし、否定しますから、学生たちがこの意見に飛びついたとも言えます。氏は同時に国家権力と結びついて〈自己幻想〉をダメにする社会主義リアリズムも否定していますから、左翼思想家ではありません。

 左翼過激派の学生たちが、氏の著書をバイブルのように大事にしている理由が、今も私には分かりませんし、分かる必要も感じません。非凡な才能が縦横無尽に論旨を展開していますが、私にとって氏の著書は「知の遊戯」としか受け取れません。難解な書なので、「知の遊戯」をしたい学生には今後も読まれるのかもしれません。

 「俺は、吉本隆明を理解したぞ。」「隆明の本を読んだぞ。」

 かって学生たちの間では、こんなことが自慢の種になったと聞きます。言葉の難解さに幻惑された学生が、氏の著書を読んで誤解し、皇室反対のデモをしたり騒ぎを起こしたりするというのなら、やはり氏の著書は悪書の仲間に入れるしかないと、これが私の意見です。

 これでまた、goo事務局から警告が来て、色々な雑音が入るのかもしれませんが甘受することとし、次回は神島二郎氏に関し調べたことを、報告します。

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柳田国男氏の「民俗学」 ( 難解な書は、読者が多様な解釈をする )

2022-11-16 18:16:39 | 徒然の記

 渡部昇一氏の著書『日本史の真髄』について、氏の解説を紹介している途中で、偶然検索したネットの情報がショックの始まりでした。

 「事大主義という言葉がある。 一般的には、時流や大勢に身を任せることで自身の安息を図ろうとする、自律性・主体性を欠いた人間の態度を指す言葉だとされる。 政治学者の神島二郎によると、柳田国男が民俗学研究を通じて解明しようとしたものこそ、日本人の〈島国根性と事大主義〉であったという。」

 いくら国民が憲法改正のための安定多数を与えても、反日マスコミの報道に惑わされ右顧左眄する現在の自民党議員諸氏を語る言葉なら、そうかもしれないと納得する気持ちがあります。

 しかし日本人自体が、事大主義の国民だと柳田氏が述べているのだとしたら、それはうなづけません。結局私は前回のブログを、次のような言葉で終わりました。

 「右左に関係のない民俗学者だと思っていましたが、柳田氏は左傾の学者だったのでしょうか。」

 「柳田氏が民俗学の専門バカでしかなかったことを、はからずも渡部氏の著書のおかげで知りました。」

 意外な結論に気持ちが沈んでいところへ、「ねこ庭」を訪問される方の一人から、ショックを受けたというコメントがありました。「ねこ庭」が「学びの庭」でもあるとするなら、果たして事実がどうなのかを調べなくてなりません。疑問を解く鍵になるのは、二人の人物です。

  1. 柳田国男氏が民俗学を通じて解明しようとしたは、日本人の〈島国根性と事大主義〉だったと説明する神島二郎氏

  2. 柳田氏の『遠野物語』を基にして、過激派左翼学生のバイブル『共同幻想論』を書いた吉本隆明氏です。

 昨年の12月から今年の1月にかけて、私は『遠野物語』と『共同幻想論』を読み、「ねこ庭」で取り上げています。検討の材料として「ねこ庭」の書評を加えると、最初に言えることは、神島氏の説明の間違いです。

 『遠野物語』の解説には、民俗学を通じて氏が求めたものは「日本人とは何か」であったと書かれていますし、私自身も〈島国根性と事大主義〉に関する叙述を目にしていません。

 渡部氏の著書に出てくる頼山陽の漢詩が、短いにもかかわらず、氏の解説なしに理解不可能だったように、柳田氏の『遠野物語』も専門家の手助けなしには読みこなせない書だったのかと、今は分かります。

 簡単に言えば『遠野物語』は、遠野地方に伝わる昔からの話、約400篇を紹介した本です。後書きや前書きで氏の解説がありますが、本文中はそのままの説話が番号を付して並んでいます。神島氏がこの本を読み、日本人の〈島国根性と事大主義〉を研究した本だと言うのなら、それは本に書かれている事実でなく、氏の解釈です。間違いだと言いたい気持ちもありますが、あえて「氏の解釈」と言うに留めておきます。

 吉本隆明氏について言いますと、これはまさに『遠野物語』の解釈の問題で、柳田氏の意見ではありません。氏自身の説明がありましたので、以前のブログから転記して紹介します。

 「『遠野物語』にも『古事記』にも、編者たちの問題意識の自然な表れとして、それぞれの方法が貫かれている。そしてこれらの方法は、私の問題意識とは違っているため、記載された内容について重点の置き方が当然違っている。」

 「そのため引用に際しては、私の問題意識に沿って、要約や読解や勝手な引用がなされた。ただし、改ざんされていることはない。」

 つまり氏は柳田氏の予測する解釈をせず、自分の問題意識に沿って解釈しています。この時私は次のように考えていました。

  1. 『遠野物語』

   ・文章は平易ですが、書かれている内容が、何を伝えようとしているのか、理解できないという「分かりにくさ」がある。

  2. 『共同幻想論』

   ・使われている言葉そのものに、著者の造語が多く馴染めないことと、著者独特の思考回路があり、理解に時間がかかるという「分かりにくさ」がある。

 「分かりにくさ」とは、「曖昧」と言うことではありません。著者の中にはちゃんとした思考の論理と体系があるが、同レベルの知識のない者には理解できないという「分かりにくさ」です。「分かりにくさ」と同じ言葉は、「難解」です。内容の違う本ですが、『遠野物語』と『共同幻想論』に共通しているのは「難解さ」です。「分かりにくい」書は、読者が色々な解釈をする余地が生まれてくる。現時点での結論はこれです。

 知識のない私は、昨年『遠野物語』を読んだ時次のような感想を述べました。

 「私には〈醇乎たる文芸作品〉と言うより、〈取り留めのない話〉でしかありません。番号を付した〈話〉には、体系も論理も見当たりません。私の前にあるのは、〈取り留めのない話〉の羅列です。これらの話に学問の要素であるのなら、整理・分類された上で、氏の説明が要るのではないでしょうか。」

 「全国を訪ねている氏の頭の中では、各地の民話が比較検討され、〈日本人とは何か〉という学問的探究心につながるものが見えているのだと、思います。整理していない個別の話を、読者の前に並べるだけの作品なら、私はこれを〈未整理の研究材料集〉と呼びたくなります。」

 氏と同レベルの知識と素養のある人物は、この書を高く評価していました。

   1. 田山花袋   ( 最も古い友人 )

   2. 島崎藤村 ( 柳田氏から、著書を贈られた作家 )

   3. 泉鏡花   ( 晩年まで親交のあった作家  )

   4. 周作人   (  中国人民俗学者 作家魯迅の弟 )

 検証の結果、柳田国男氏は左翼系の学者でないことがだいぶ明らかになりましたが、苦い失敗を繰り返さないため、次回もさらに検討を進めます。

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『日本史の真髄』 - 18 ( 民俗学の泰斗? 柳田氏 )

2022-11-15 20:39:52 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                       ・神功皇后の「三韓征伐」

 今回は、最初からコメントなしで氏の解説を紹介します。

 「この遠征は案ずるより産むが易いといった感じで、これという困難もなかったようである。対馬の和田津に立ち寄り、そこから順風にめぐまれ、新羅に押し渡った。新羅王は大いに恐れて、戦わずして素旗(しらはた) をかかげて降伏した。その時新羅王は、神功皇后に向かってこう誓った。」

 ・これより自分は御馬飼になり、毎年春秋二度馬櫛と馬の鞭を献納します。

 ・毎年男女たちを貢ぎ(労働力)として、送り届けます。

 ・東から出る太陽が西から出、川が川上に流れ、川の石が天に昇って星になるようなことがない限り、献納物を怠ることはございません。

 新羅王波沙錦は、微叱己智波珍干岐を人質として出したほか、金銀や錦を八十艘分も提供したと言います。なぜこのようなことになったのかは、次の叙述が語っています。

 「新羅の隣国である高麗と百済の二国の王たちは、新羅が簡単に降伏したと聞いて、こっそり日本軍の様子を探らせた。そして、戦っても勝ち目はない、と悟って、自分から日本軍の陣営にやってきた。そして今後は日本に貢物を奉ることを、叩頭して約束した。神功皇后はその降伏を受け入れ、両国を内宮家(うちつみやけ)としたという。これがいわゆる三韓である。」

 言外にしか述べられていませんが、新羅や高麗、百済が降伏したのは、神功皇后を戴いた日本軍が、一致団結し士気が高かったからだと思います。自分より遥かに強い相手と分かれば、朝鮮族は無駄な戦いをせず服従する方を選びます。これを朝鮮の「事大主義」と呼び、以前は軽蔑していましたが、今は違います。武力にものを言わせる国々がいて、せめぎ合っている大陸国家では「事大主義」も国が生き延びるための知恵です。

 朝鮮半島の国々は、このようにして現在まで生き延びてきました。周囲を海に囲まれ、容易に外敵に攻められなかった日本と違いますので、今は軽蔑していません。しかしウィキペディアで検索しますと、次のように書かれていました。

 「事大主義という言葉がある。 一般的には、時流や大勢に身を任せることで自身の安息を図ろうとする、自律性・主体性を欠いた人間の態度を指す言葉だとされる。」

 「 政治学者の神島二郎によると、柳田国男が民俗学研究を通じて解明しようとしたものこそ、日本人の〈島国根性と事大主義〉であったという。」

 日本に無関係な言葉と思っていましたが、民俗学の泰斗と言われる柳田氏が日本人を説明する言葉として使っていました。そうなると朝鮮人だけを軽視したり理解したりと、他人事のように言っておれなくなります。右左に関係のない民俗学者だと思っていましたが、柳田氏は左傾の学者だったのでしょうか。

 話が横道へそれますが、60年安保の時反日左翼過激派の先頭に立っていたのは、全学連でした。鉄パイプ、釘を打ちつけたゲバ棒と呼ばれる角材、火炎瓶などを使い、機動隊と激しくぶつかったのも彼らでした。その彼らがバイブルのようにしていたのが、吉本隆明氏の『共同幻想論』でした。

 その吉本氏が著作の土台にしたのが、柳田氏の『遠野物語』でした。まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の思考になりますが、柳田氏も左翼系の学者だったということでしょうか。島国根性という言葉は当たっているとしても、日本人が事大主義だという柳田氏は、私から見ればとんでもない学者です。氏の説が正しければ、神功皇后は朝鮮出兵をしていませんし、東條首相は世界を相手に戦っていません。

 それだけでなく、国運をかけた日清、日露の戦争も日本はしていません。柳田氏が民俗学の専門バカでしかなかったことを、はからずも渡部氏の著書のおかげで知りました。代わりにスペースが足りなくなり、〈二闋〉の解説紹介が先送りになりました。

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