ねこ庭の独り言

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『敗戦日本の内側』- 8 ( 東條首相の二つの顔 )

2018-03-02 00:05:59 | 徒然の記

 今回は東條氏が首相になった背景と恐怖政治の概要を、富田氏の著作から紹介します。

   ・近衛公の後継は、重臣会議で協議された。

   ・ どの出席者も戦争に反対だったので、戦争反対の宇垣大将を押す若槻氏の意見も出たし、陸軍が政権を倒したのだから、陸軍にやらせたらどうかという岡田氏の意見もあった。

  ・木戸内府は、次の理由で東條首相を強く押された。

  ・陸軍を抑えなければ戦争になるのであるが、その陸軍を抑え得るものは、東條以外になく、戦争回避の勅命があれば、日米交渉を再考するであろう。

  ・従って戦争回避、日米交渉継続ということであれば、東條以外に適任者なし。

 東條首相には、運の悪いことがありました。松岡洋右氏が外相だった頃、米国の日本駐在大使は知日派のグルー氏でした。反米感情の強い松岡外相は、グルー氏をまともに相手にせず、日米交渉を行き詰まらせてしまいました。

 ちょうど同じことが、米国で生じていました。

 松岡外相の対応に怒りを持っていたのが、ハル国務長官で、首相が変わっても長官の強硬姿勢は変わりませんでした。野村大使補佐のため派遣された来栖大使に関する、ハル長官の酷評が紹介されています。

  ・来栖は、野村とは正反対の人間のように思われた。

  ・彼の顔つきにも態度にも、信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。

  ・私は初めから、この男は嘘つきだと感じた。

  ・来栖が来た目的は日本の攻撃準備ができるまで、会談でわれわれを引きずっておくことだった。

 ここまで誤解されては、交渉成功の望みがなくなります。東條首相はもともと対米強硬派であり、陛下への忠誠心が厚くても、陸軍の押さえができる人物ではありませんでした。

 とうとう日本は、有名な「ハル・ノート」を突きつけられます。これがいかに酷い内容であったか、東京裁判でのパール判事の意見があります。

 「真珠湾攻撃の直前に、米国務省が日本に送ったと同じような書面を受け取ったら、モナコ王国や、ルクセンブルグ大公国でさえも、米国に対し、武器を取って立ち上がったであろう。」

 世界一の小国でさえ、「ハル・ノート」には傷つけられると、判事は述べました。開戦後にこれを初めて知った、グレーギー英国大使も次のように言っていました。

 「ハル・ノートは、法外な条件を含んでいた。」

 「少なくとも、日本人の気持ちを理解している者なら、交渉の決裂を招来することくらい分かっていたはずだ。」

 松岡外相以来、外務省の失態や現地大使の思い違いなど、日米がすれ違っていました。昭和天皇と近衛公の平和への思いもうまく伝わらず、ルーズベルトの思いも、ハルが壁となり日本に届きませんでした。

 戦後の外務省は、威丈高だった松岡外交への反省からなのでしょうか。卑屈なほど腰をかがめ、お詫びばかりしています。

 ここで、肝心の東條内閣への富田氏の酷評を紹介します。 

   ・東條内閣は発足当時から、政治的にはいかにも子供くさい、力づく一方のキザな内閣であった。

  ・にもかかわらず長期政権たり得たのは、時代が戦時下であったことと、強力な陸軍という背景があったからである。

  ・戦争反対論者は勿論のこと、東條に少しでも批判的な者には、濃淡はあるが、圧迫が加えられた。それは憲兵であり、唯々諾々と陸軍の手先となっていた、特高警察だった。」

  ・東條の、幼稚にして気障なことも、また異常なるものがあった。」

  ・首相兼陸相兼内相の彼は、早朝、戦時体制下の市民活動の激励視察と称し、」築地の魚河岸に、午前四時乗馬姿で突然出現する。

  ・その日の夕刊に、宰相の記事は写真とともに、デカデカと報道される。

  ・首相は北海道にも出かけ、札幌市内で、得意の早朝視察をやり、ゴミ箱のふたを開け、卵の殻を見つけ、何という勿体ないことをしているのか、戦時意識の高揚が足らぬとて、随行の市長が叱咤される。

  ・名士にして東條反対の者には、名誉の召集令状がどしどし出され、遠く戦線に放り出される者が続出し、まさに恐怖政治の様相を、呈してきた。

 戦況は刻々と悪化し、日本の劣勢が日増しに隠せなくなり始めました。当時の事情は、『岡田啓介回顧録』にも書かれていましたが、岡田、平沼、若槻氏など、東條内閣に批判的な四人の重臣が、とうとう密議をすることとなります。

 近衛公を中心とする別のメンバーの動きもあり、ついには木戸内府を動かし、陛下も動かす次第となります。

 こうして東條首相は、辞任させられますが、東京裁判の時の潔さはなく、「すべては重臣達の陰謀だ。」と怒り、「敗戦の責任は重臣にある。」と声を高め、新聞に発表すると息巻き、短慮をたしなめられる一幕もあったそうです。

 しかし一連の叙述の中で、心に一番残ったのは、富田氏の次の言葉でした。

  ・ちなみに、こうして東條氏を持ち上げていた新聞が、戦後の今では、この東條氏を、封建的、軍国主義者と罵り、総評と日教組に、拍手を贈るのである。

  ・実に時代の移り変わりの、甚だしさを思わされる。」

 新聞は昔も今も、国民を扇動するだけで責任を取りません。

 2年前、渡部昇一氏の著書『東條英機  歴史の証言』を読みました。東京裁判での、東條首相の宣誓供述書の解説書でした。

 アメリカは彼を日本軍国主義の中心人物と捉え、アジア侵略の首謀者として断罪し、ドイツ・イタリアとの三国同盟も、真珠湾への攻撃も、独断専行の彼が計画実行したと決めていました。

 一方的に進められる裁判に、東條氏は言い訳をせず、事実を語り、戦争責任を他に転化しませんでした。

 富田氏の書で新たな事実を知りますと、東條氏への評価が変わります。知らなかったときの自分と、今の自分は別人のような気がします。「知ると知らない」の差の大きさを、また一つ学びました。

 今日の「マスコミ報道」と「学校教育」で、過去を知らされない子供が、そのまま大人になる恐ろしさを考えます。良いことも間違ったことも、両方を教えないと、賢明な国民は育ちません。

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