ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 日本が軍事大国になる日 』 - 40 ( 「孤立した文明国」ではない日本」 )

2022-04-03 15:14:02 | 徒然の記

 日本が「孤立した文明国」でない根拠を述べる前に、ASEANに関する江畑氏の意見を紹介しておく必要があります。

 「1993 ( 平成 5 ) 年7月の、シンガポールにおけるASEAN拡大外相会議では、」「ゲストとして参加したロシアや中国も含め、アジア太平洋地域の安全保障のため、」「本格的な枠組みづくりに着手することが、決められた。」

 こうしてアセアンは、東南アジア唯一の、地域全体の連帯機構への道を歩き始めました。同時に、太平洋全域にまで連帯を拡大する機構となる可能性を、見せ始めました。

 「しかし現在のアセアン諸国が、米軍の誘致に積極的なのは、」「アジア太平洋インド地域の巨大勢力、なかんずく中国の進出に対抗する目的が大きく、」「果たして中国を含めた連帯機構となりうるのかについては、なお大きな疑問が残る。」

 アセアンは中国、ロシアだけでなく、米国や日本をゲストとしてメンバーに加えていますが、順調な船出は先の話になりそうです。氏の意見も、楽観的ではありません。

 「各国の地域的特性、宗教の違い、経済力の差、領土領海問題などを考慮すると、」「ASEANを、集団安全保障機構と発展させることは、相当の困難を伴うかもしれない。」

 「だがそれでも、現在のところ、この地域においては、」「紛争の予防と解決を図り、地域の安全保障を高めるための、」「唯一の既存組織なのである。」

 必ずそうなると言わず、希望的予測が、ASEANに関する氏の結論です。これからの日本が国際社会で生き抜くためには、「孤立した文明国」のままではダメで、沢山の仲間が必要です。アメリカや中国、ロシアなどの大国ばかりに目を向けず、ASEANとともに進むという選択もあるのだと思います。

 現在の日本はまだ、明治維新以来の「脱亜入欧」の進路を変えていません。「追いつけ追い越せ」の時代は終わっているのですから、アジアに位置する国として、軸足をアジアに乗せる時がきているのではないでしょうか。

 日本が「孤立した文明国」でない根拠を説明すると言いましたが、ここからはそのことを述べます。

 平成6年、当時の村山首相が、土井たか子衆議院議長と共にマレーシアを訪問し、この時マハティール首相が、二人に語った言葉を紹介します。
 
 「日本が、50年前に起きたことを謝り続けるのは、理解できない。」「過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ。」
 
 「日本は、これからのアジアの平和と安定のため、」「国連の安保常任理事国となり、すべての責任を果たしてほしい。」「過去の反省のため、日本がPKOの派遣もできないのは、」「残念なことだ。」
 
 社会党の党首でもあった村山富一首相と、土井たか子衆議院議長は、帰国してもマハティール氏の言葉を国民に伝えず、マスコミも得意の「報道しない自由」で、ほとんど記事にしませんでした。
 
 左翼政党のトップだった村山氏と土井氏が、マハティール氏の言葉を伝えなかったのは、当然と言えば当然です。認めることのできない意見ばかりだったからです。息子たちのため、私なりの説明をしてみます。
 
 「日本が、50年前に起きたことを謝り続けるのは、理解できない。」
  いい加減に、東京裁判史観から卒業してはいかがですか。地域のために、平和維持軍も出せないようでは、一人前の国ではありません。
 
 「過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ。」
  日本は力のある国なのだから、アジアの国々のため、もっとリーダーシップを発揮してほしい。ASEANにも、積極的に協力してもらいたい。
 
 マハティール氏の意見を実行するには、「日本国憲法」の改正がなくてはできません。東京裁判史観と日本国憲法は、戦後の日本を動けなくしている土台ですから、村山氏と土井氏は国民に伝えるどころでなく、自分たちの耳を塞ぎたかったのではないでしょうか
 
 日本は「孤立した文明国」でなく、アジアの国々の指導者たちは日本の協力とリーダーシップを求めています。肝心の自民党の議員たちが、東京裁判史観と日本国憲法に縛られ、聞く耳を持たない現実があります。
 
 反日左翼の人々は、自分に都合の良い意見を紹介すると反発するかもしれませんが、もう一つ紹介します。「ねこ庭」で紹介していますので、覚えている方もいると思います。
 
 〈 ククリット・プラモート氏の意見 (昭和50年 タイ首相) 〉
 
  「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。」「日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、」「生まれた子供は、すくすくと育っている。」「今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、」「いったい誰のおかげであるのか。」「それは身を殺して、仁をなした、」「日本というお母さんがあったためである。」
 
 「12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、」「一身を賭して、重大な決意をされた日である。」「さらに8月15日は、我々の大切なお母さんが、」「病の床に伏した日である。」「われわれは、この二つの日を忘れてはならない。」
 
 ここまでくればもう一つ、マレーシアのラジャ・ダト・ノンチック氏の詩を紹介しなくてなりません。氏は戦時中に日本が受け入れた、東南アジア留学生の一人で、戦後マレーシアの上院議員になっています。アセアンの設立に尽力した、リーダーの一人です。
 
 氏は現在の日本人に手厳しく、戦前の日本人の方を評価しています。しかし単純な評価でなく、批判も忘れていません。「ねこ庭」で何度か紹介していますから、覚えている方はスルーしてください。 1989年 (平成元年)にクアラルンプールで作られていますが、題名は知りません。
 
  かって 日本人は 清らかで美しかった
  かって 日本人は 親切でこころ豊かだった
  アジアの国の誰にでも
  自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
 
  何千万人もの 人の中には 少しは 変な人もいたし
  おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
  いなかったわけじゃない
 
  でも その頃の日本人は そんな少しの いやなこととや
  不愉快さを超えて おおらかで まじめで
  希望にみちて明るかった
 
  戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  まじめに
  自分たちの父祖や先輩は
  悪いことばかりした残酷無情な
  ひどい人たちだったと 思っているようだ
 
  だから アジアの国に行ったら ひたすら ぺこぺこあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと
  いえばよいと思っている。
 
  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや 口先では すまなかった 悪かったといいながら
  ひとりよがりの 
  自分本位の えらそうな態度をする
  そんな 今の日本人が 心配だ
 
  ほんとうに どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも 歯がゆくて 
  悔しい思いがする
 
   自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや
  ぜいたくに ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている その国と国民のことを
  さげすんだ目で見たり バカにしたりする
 
  こんなひとたちと 本当に 仲良くしていけるのだろうか
 
  どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ         
 
 次回は197ページ、「インド洋の軍事環境」です。           
コメント (2)
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