OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

東北の思い出 追補 鉄道好きの始まり

2011年04月21日 | 鉄道
前に「東北の思い出 1965」・「同 1967」を連載したがその続き。
当時は現在ほどの鉄道マニアではなかった。それでも記録の随所にマニアの萌芽が見られるのでその部分だけを取り出してみた。
仙北鉄道(乗車時には宮城バス)登米線 1965・1967: 最初に夜行で小牛田に着いて、朝の登米線に乗車したが、夜行明けで眠かったのか記録はあるが記憶がない。1967年にも乗車したはずだがやはり記憶がない。第一、今の私なら米谷まで乗るなら、ついでに終点の登米まで行ってくるのが当然。登米線は1968年に廃線(1964年から社名が宮城バス)となったので、この部分はもう乗るチャンスはない。米谷でスイッチバックとなって登米に向かう不思議な線形になっていたことはかすかに記憶している。

岩手開発鉄道 1965: 1992年に旅客運送を停止して現在は貨物のみになっている。貨物は日頃市付近の石灰石である。


岩手開発鉄道

当時も長い鉱石運搬列車が走っていた。混合列車もあったような気がする。なお、1967年にも長安寺などに行っているが往復ともバスを利用したと記録されている。

仙山線 1967: 国鉄電化の歴史の中で特別の存在で、テストのため日本で初の交流電化を行った線である(最初は全線ではない)。仙台と山形という県庁所在地を直接結ぶが、途中に長い仙山トンネルがあるので、電化が急がれた面もある。このトンネルは「面白山トンネル」として知られるが、トンネル入口の標記は「せんざんずいどう」となっていた。


仙山隧道入口


仙山線の交流試作機関車。現在利府に静態保存されているという。

国鉄乗り潰し: 2回の東北旅行の時には、全線乗り潰しは意識していなかった。初めての遠征であり、乗り潰した線も大船渡線と久慈線ぐらい(他に気仙沼線があるが、後に延長された)だった。東北地方は住んでいたところから離れていたので乗り潰しを志してからも乗車が遅れた。例えば1985年中ごろの数字で、県別(県境があるので正確な数字ではない)のリストを見ると、ワースト5県に、未乗車距離では岩手(1位:約300km)・秋田・山形・福島が並んでいる(もう1県は兵庫)。未乗車率でも岩手(3位)・秋田(4位)が40%ぐらいであった。これをクリアするために1986年に休みを使って東北に行き9線ほど乗った。その結果1986年には未乗車距離でも率でも東北の県はワースト10から姿を消した。その後も機会あるごとに努力したが、残った線があり、JRの最後の線は2008年乗車の大湊線になってしまった。
国鉄の乗車距離は、1965年の旅行が2029.9km、1967年が1022.8kmと記録されている。乗車距離の積算は1977年途中までで止めてしまった。その時の積算が13万km弱だったので、そのまま記録し続けていれば、現在月までの距離に近づいているだろう。

均一周遊券
現在の「フリーきっぷ」などに近いが、発駅が数多く設定されていた。この「東北周遊券」の場合、磐越西線・磐越東線・信越本線の新津―新潟間・只見線より北の本州内の国鉄(バスも)が乗り降り自由な範囲(急行列車まで。)。使った切符は名古屋出発で、東北との往復には5つのルートが設定されていた。
1 常磐線(水郡線を含む。)・東海道本線
2 東北本線・東海道本線
3 信越本線・上越線・高崎線・東海道本線
4 信越本線・篠ノ井線・中央本線
5 信越本線・北陸本線・東海道本線

1965年の旅行で帰途米原周りという行程をとったのは、上記の5のルートをとったため。現在の交通体系とは大分異なる。
周遊券は表紙のほか、二枚の券片があって、「A券片」「B券片」と記入されている。Aは東北に入って最初の下車駅で回収され、B券片を持って旅行する。写真は1967年に使ったB券片で、下車印が多く捺してある。左から陸前??(たぶん階上:気仙沼線)・尻内(八戸線)・三厩(津軽線)・塩釜(東北本線)・気仙沼(大船渡線)・青森(東北本線)・不明。最後のものは大府(東海道本線)かもしれない。この券を手元に残すために、名古屋市内に入る直前駅で途中下車し、別に切符を買って帰る事があったから。他に使用開始日とか、学割印、手荷物印(裏面)が捺してある。途中で2度鉄道小荷物を名古屋に送った。もちろん中身は化石。久慈と気仙沼で重量はそれぞれ20kgと18kg。


手荷物の送付票

その他に鉄道小荷物で米谷から(宮城バス:15kg)・陸前高田から(25kg)送っているので、結構な量を採集したことが分かる。現在のように便利な宅配便はなかったので、運送にも手間がかかった。


東北周遊券B券片


花梗

2011年04月18日 | 今日このごろ
花梗と書いて「かこう」と読む。花の付け根の部分で、一つ一つの花を支えるものは小花梗というのだそうだ。
数日前の花ふぶきのなごりで、道路の片隅に花びらの吹きだまりができていたのが、今日の強風でどこかに吹きやられ、無数の花梗が残っている。そのために白かった吹きだまりの赤味が目立つ。


2011年4月18日撮影。小倉南区志井川沿い。

満開が季節の目印になるソメイヨシノは、雑種であって種子を付けることがない。それで使われることのない花梗がこの時期にすべて落ちるのだ。もし種子ができれば花梗は果梗と名前が変わって、口の中で結ぶというサクランボの柄になるのだが。


2008年7月25日撮影。札幌市藻岩山麓の街路樹。この桜の種類は何だろう?

4月の藍島

2011年04月16日 | 化石
気持ちのいい一日となりそうだったので、小倉北区の藍島に出かけた。今日は大潮の数日前なので、ちょうど島にいる時間に汐が引く。下関の干潮4月14日:12時29分。藍島の干潮はそれより少し(20分程度?)遅れる。
10時30分の船に乗る。といっても一日3便の藍島・馬島渡船は、これに乗らなければ滞在時間は全くなくなってしまうから、選択肢はこの便しかない(日祝日は別ダイヤ)。帰りも、15時30分藍島発と決まっている。往復800円。
さて今日はどこにいこうか?南北に長い藍島の背中を通る通称「縦貫道」をたどって、北に向かう。昔の水道施設の方に行く道に右折して、20分ほどで海岸に降りる。汐はよく引いている。


旧浄水場付近の藍島海岸

ここから海岸の岩場を反時計回りに回るが、このあたり化石が少ない。藍島では少ないなら少ないなりに、目が届いていないので珍しいものにあたる…….はずだったが、なにもない。
そのまま千畳敷に着いてしまう。ここで昼食をとり、漂着物・メノウの採集を試みるが、良いものはない。化石の方は鳥の烏口骨かと思うものを採集。芦屋層群の砂岩は掘りやすいので、周りに溝を作り、化石が台に乗った形で掘り上げる。写真はその手順。最後の一枚は家に帰って洗ってから撮ったもの。


発見時の化石


周囲に溝を作る


溝が完成したら深くしていく


いよいよ掘り上げ。いろんな方向からたがねを打つ。


掘り上げたら残りがないか確認


採集した標本

少し移動して二枚貝化石を採集。


ベネリカルディア

「縦貫道」をもどって、途中で海岸に降りる。ここは適当な大きさの転石が多いので、貝などの化石採集に良い。転石の間にハツユキダカラを見つける。擦れていない良いもの。


最大長 約3.6cm

潮が満ちてきたのでもどって、瀬崎の手前の砂浜をちょっとのぞく。ここは打ち上げ貝の多いところで、楽しみにしていたが先客がいてすぐに引き上げる。船着き場に15時10分着。
今日の成果はこれぐらい。あまり良い成績ではないが、一日のどかに過ごせたので満足。後日、骨化石の剖出の様子をレポートする予定。

東北の思い出 1967年 その3

2011年04月12日 | 昔の旅行
東北の思い出 その2から続き

次の日は、1975年に行っていない気仙沼大島に向かう。南端の龍舞岬という景色の良いところに行った後、横沼というところでネリネアという白亜紀の巻き貝を採集できたが、化石は少ない。大船渡市盛町(七重旅館;1000円;ネットに出てくる。)泊。


渡船から見た気仙沼港。


大島産の白亜紀ネリネア。

大島には渡船で渡った。海水浴客で込み合っていた。船から見た気仙沼港は漁船が多くさすがに大漁港と思ったが、現在は全く景色が変わってしまっていることだろう。

三陸の海岸を見た後、内陸部の化石産地をまわる。
翌日の長安寺・樋口沢も思った通りでまあまあ。1965年に行けなかった雪沢を訪れる。沢の中に豊富なサンゴ化石が見られるが、露頭は狭く、また大きな岩についているので採集は難しい。陸前高田の宿屋は亀屋旅館(1000円)。


雪沢の川に見られる石炭紀サンゴ化石。

この後、また岩井崎を訪問。採集できないので岩の表面の化石を撮影。


岩井崎の石灰岩に見られるペルム紀ウミユリ化石。

同行者と分かれ、山形の大学同級生のお宅を訪れ、歓迎を受ける。さらに蔵王のスカイラインに案内される。その後30年以上あまりおつきあいがないが、深く御礼申し上げる。帰途は仙台から急行「第2みちのく」東京から夜行臨時急行「ながら3」で帰着。

均一周遊券を利用して夜行列車にばかり乗っていたこの旅行である。旅館代を節約したつもりだろうが、疲れがたまり翌日にはあまり動いていない。
夜行列車・夜行バス・夜行フェリー・夜間フライトには、これまで79回乗ったという数が記録されている。といっても1973年までの41回の内20回には詳しい記録がない。1977年まではしばしば夜行列車を利用したが、その後は就職したこともあってほとんど使わなくなった。関釜フェリーや海外への夜行フライトばかりである。最近乗った「北斗星」については以前の記事を参照してほしい。




均一周遊券(使用者名のところをぼかし処理)。途中下車印は捺してくれない駅も多く、全部というわけではない。

化石産地の近くまでバスに乗り、後はどんなに遠くても歩く、というのが当時の採集のパターンだが、現在見直すとずいぶん歩いている。
この記事も、1965年の記事と同じく採集日記とフィルムのデータから作成したが、フィルムの内の1本は失われており、竜飛岬付近の写真がない。前回訪れたところの記述は略記した。どの場所も今回被災した地域で、この「思い出」を記すことの是非は分からない。繰り返しになるが一日も早い日常生活をお祈りする。

後で東北旅行1965・1967について、鉄道関係だけをピックアップする予定。

東北の思い出 1967年 その2

2011年04月09日 | 昔の旅行
1967年 の2回目

宮古から久慈のあたりの三陸海岸は現在北リアス線が通っているがこのころはそれもなく、バスが主な交通手段である。
平井賀からバスで久慈に向かう。北山崎や黒崎でしばらく観光停車するバスであるが、生活にも利用され、バスの中で地元のおばあさんがじっと観光客の帰ってくるのを待つ。この日のスケジュールは非常識で、久慈から東北本線に出ると上り列車に乗り、深夜の好摩で下りの普通夜行列車に乗り換え、早朝青森に着くというもの。しかも、竜飛岬やその手前の今別(メノウの礫が拾える)に立ち寄った後、再び上りの夜行急行八甲田で塩釜に着く。ふた晩連続夜行というのは今の私がやったら体を壊す。


このころは、切符も硬券

本塩釜から市営渡船で松島の景色を見て大鷹森へ。野蒜・石巻を経て陸前稲井という小駅に着く。稲井の駅前に大きな石切り場があり、ここは三畳紀のアンモナイトを産する。石切り場の前にアンモナイトの入っている石が積み上げてあるが、中には入れてもらえない。お願いして一つだけ標本をいただいて帰る。


石切り場に積み上げてあった三畳紀アンモナイト。

小牛田、瀬峰を回って米谷へ。ここからは一昨年と同じところを回る。米谷(東和)泊は八島旅館(1000円)。米谷では大きなサンゴのかたまり(ペルム紀)の採集に成功。さらに寺沢というところで三葉虫も見つかった。


米谷産のペルム紀サンゴ化石ミケリニア。

韮の浜・荒砥浜と採集し、気仙沼へ。駅前のまるよし旅館(1000円:現在HPあり。)泊。上八瀬の茂路沢は、炭焼きのため伐採が進み、一昨年とまるで印象が異なる明るい谷となっていた。この伐採のため採集はしやすく、多数の三葉虫などの採集ができたのは運が良かった。


伐採後で明るく開けた茂路沢。人物は筆者。


上八瀬産のアビキュロペクテン。


上八瀬産の三葉虫シュードフィリプシア。尾部しか見つからない。

東北旅行の記録はあと2回続く。