OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古い本 その50 満州関連

2021年03月25日 | 50年・60年

 中国東北部に関連する本がいくつかあるので紹介する。

110 大興安嶺探検 1991

 この本は、朝日文庫の一冊として1991.10.1に発行されたものであるが、そのずっと前の1952年7月に毎日新聞社から単行本として出版されている。文庫本では、「学術報告」と索引が省かれているという。それでも597ページもあって読破するのに覚悟がいる。とくに地名がわかりにくく、そして全体の地形が掴みにくいことも理解を妨げている。インターネットの衛星写真を見てもやっぱり地形は把握しにくい。下の図は探検隊の行程を大興安嶺の水系図に記入したもの。

110-2 北部大興安嶺水系図 18・19ページ

 図の右上の端に向かって東に流れるアムール川が中国とロシア(当時ソビエト連邦)の国境。中国では黒龍江と呼ぶ。アムール川はこの図から直線距離で500k以上流れて間宮海峡近くでオホーツク海に注ぐ。アムール川を名乗るのは図の上辺左から3分の一あたりが最上流で、北西からロシア内を流れてくるシルカ川と南西から中ロ国境を流れるアルグン川が合流するところ。地図の左中央部は現在の中国内モンゴル自治区、右側は中国黒竜江省に属する。すべてアムール川=黒龍江の流域であるが、西側はアルグン川の流域、東側の河川は南に流れて途中松花江となりハルビンなどを通って迂回し、結局アムール川に合流する。なお、有名なノモンハンはこの地図の左下の角から300kmほど南にある。
 北部大興安嶺探検隊は今西錦司を隊長として、京都大学関係者を中心とする21名のメンバーが、当時地図のなかった大興安嶺を踏破して地形を把握することなどを目的に1942年5月から7月に挙行したものである。探検は南から北に未知の地域を通過するもので、とくに中央部の広い空白地域では稜線を直進する隊と、川伝いに迂回する隊に分かれて、空白を埋めようとするもの。なお、満州国は1932年に発足、探検が行われた1942年はそれから10年が経っていたが大興安嶺付近は軍事的に注目されるところではなかった。探検隊が軍からの保護を受けることもなかった。
 今西錦司(1902−1992)は京都大学教授で、生態学者。生物の進化に関して独特の考察をしたことで有名だが、進化論の主流とは離れた論議であった。私はお見かけしたことがあるがお話ししたことはない。今西氏以外の20名の隊員中の著名人は次の方々。森下正明(昆虫学1913-1997)吉良竜夫(植物生態学1919−2011)川喜田二郎(地理学・文化人類学者1920−2009)梅棹忠夫(生態学者1920−2010)藤田和夫(地質学1919-2008)他。
 ここからの3つの著作(2冊に分けて出版されたものが2つあるから合計5冊)は、満州帝国と「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀(1906−1967)のことを調べたくて読んだ本。1991年に中国武漢に行った時に最後の皇帝の血縁者の方とお会いし、どんな関係かを調べようと読んだもの。

111・112 満州帝国(I・II)1983 カバー

 児島 㐮・著 文春文庫。著者(1927−2001)は「こじま・のぼる」と読み、戦史研究家。日露戦争から東京裁判までの多くの日本の戦争についての著作がある。「I」の発行は1983.1.25、手元にある本は1983.5.15発行の第5刷、345ページ。「II」の発行は1983.2.25、手元にある本は1987.2.25発行の第3刷、342ページ。愛新覚羅溥儀の清国皇帝在位は1908-1912だったが、1934年に満州国皇帝になり、1945年に日本の敗戦とともに退位し、日本への亡命の途中でソ連軍に抑留された。
 私は戦争史にはあまり興味がないから読み飛ばした。内容は覚えていない。

112 図説満州帝国 1996 カバー

 「図説満州帝国は、1996.7.25初版の河出書房新社で、同社の「図説」シリーズのひとつ。手元の本は 2001.9.20発行の9刷であるから、結構販売されたらしい。縦21.5cm横17cm、159ページ。著者は「太平洋戦争研究会」となっている。編集者は同会の平塚柾緒・森山康平・平塚敏克・大原 徹 が記されている。満州時代の写真を数多く収録していて、その背景の記録も詳しい。写真は撮影のためにポーズをとったようなものが多いのは当時の写真の性格から当然である。今後一番参考になりそうなのは、巻末の「満州帝国関係年表」であろう。

114・115 世紀風雪 上・下 2007 カバー

 「世紀風雪」は上下2巻で、NHK出版の単行本、縦21.5cm横15.5cm。上(325ページ)・下(319ページ)ともに2007.3.30発行。それぞれに副題があって、上巻は「幻のラストエンペラー」、下巻は「清朝皇族の末裔たち」。著者は(あいしんかくら・こうい)(1947—)で、アメリカ在住の画家。愛新覚羅溥儀の甥である愛新覚羅毓岳(いくがく)(画家)の娘である。訳者は李 珍・水野衛子・横山和子・佐野もなみ。
 多くの出来事が記憶・記録をもとに記されているが、当事者のものだけに詳細すぎて何かを調べるのには不都合。私がこれら5冊の本で知りたいのは、1991年に武漢でお会いした人物が皇帝とどういう関係だったのかなのだが、とうとうわからなかった。

116 日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか 2016 カバー

 「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」は、2016.1.20発行の文春新書、253ページ。著者は岩瀬 昇(1948−)、三井物産・三井石油開発に勤めて、現在エネルギーアナリストとして多くの著書がある。題名だけで見ると満州地方の石油開発の話だけかと見えるが、そうではない。まず、石油の重要性に早く気づいた海軍の話から始まり、次には外交交渉で大失敗した北樺太石油の開発、そして満州の石油探査の開始、南方石油の軍事的奪取と本国への石油輸送の困難 という順に語られていて、表題よりも広い範囲の歴史が詳細に語られている。満州の石油の徴候のある地域の探索は1929年ごろから開始された。このブログですでに登場した新帯国太郎博士の調査である。その場所は、今回の最初の本「大興安嶺探検」の出発地と、ノモンハンの中間付近であった。後に遠藤隆次なども参加したが、結局確実な油田を確認することができないままとなった。その原因は、「陸成層からは石油を産しない」という先入観と、先進的な物理探査技術を持たなかったからだろう(小松直幹, 2006)。また、調査は満鉄と軍部の協力で行われたため結果は公表されず、機密とされた。これらの調査が終わってから20年ほど経った1959年に大慶油田が発見された。
 日本は満州帝国を作って傘下においた。そこの資源を調査するために「満蒙学術調査」をおこなった。その成果は二十数冊に分けて1935年頃の数年間に発行された。石油の調査はこれとは別に満鉄の指導で行われ、詳しい結果は公表されなかった。「第一次満蒙学術調査報告書」は少ししかコピーを持っていない。後で触れるかもしれない。

117 第一次満蒙学術調査報告書*

 *写真は北九州市立自然史・歴史博物館書庫。すでにこのブログに掲載したように、中国東北部を2000年5月に訪れた。次の写真はそのときに掲載したものの一枚で、「熱河省」の語源となった温泉の石碑(現在温泉は出ていない)で、承徳にある清国皇帝の夏の別荘の中にある。

118 承徳の「熱河」石碑 2000.5.31 再録

古い本 その49  捕鯨

2021年03月13日 | 50年・60年

 捕鯨関連の本もたくさんあるが、論評しないで以下に書名を挙げておく(発行年順)。

103 クジラは食べていい! 2000 カバー
 宝島社新書2000.4.24発行。小松正之(1953−)著・宝島社、218ページ。


104 くじら紛争の真実 2001 カバー
 地球社2001.4.28発行・小松正之(1953−)編著、326ページ、A5版。


105 クジラを捕って、考えた 2004カバー
 徳間文庫2004.10.15発行。川端裕人(1964−)著、329ページ。


106 日本はなぜ世界で一番クジラを殺すか 2007 カバー
 幻冬社新書2007.3.30発行。星川 淳(1952−)著、214ページ。


107 クジラは誰のものか 2009 カバー
 ちくま新書2009.1.10発行。秋道智彌(1946−)著・筑摩書房、231ページ。


108 イルカを食べちゃダメですか? 2010 カバー
 光文社新書2010.7.20発行。関口雄祐著・光文社、212ページ。


109 クジラ博士のフィールド戦記 2019 カバー
 光文社新書2019.5.30発行。加藤秀弘(1952−)著、285ページ。

 まだ他にも数冊あるがこれくらいにしておく。捕鯨に関連する本はたくさんあるが、いろいろな立場からの意見が錯綜している。どれも他の人の意見には耳を貸そうとはしない....ように感じるのは私だけだろうか。野生生物の保護に関する根本的な感覚が異なっているのだろう。だから本の論評はしない。

古い本 その48  鯨について

2021年03月07日 | 50年・60年

 現生の鯨に関する古い本を挙げる。初めにことわっておくが、次にあげる本のほか、捕鯨に賛成する立場や反対する立場の多くの本を読んだ。いずれも感情的な記述が多く、科学的な検討が述べられていないという傾向を感じたので、ここでは次回に書名などの簡単なデータだけを記す。以下では古い本や特殊な(手に入りにくい)6冊に絞った。

97 鯨類・鰭脚類 1965 函

 鯨類に関する図鑑は、勉強を始めた頃にこれしかなかった。東京大学出版会の発行(1965.9.25)でサイズはB5、439ページ。著者は西脇昌治(東京大学海洋研究所教授)(1915−1984)、鯨類の体型を示すには写真による図鑑というわけにはいかないから、図鑑類の動物画家として有名な薮内正幸(1940−2000)によって描かれたイラストを使っている。
 内容は11ページまでの概説の後、種類ごとに特徴や分布などの情報が詳しく記されているから、イアンターネットが使えるようになるまでは、博物館で解説文を作るのに必須の本だった。284ページまでが鯨類、その後の110ページほどが鰭脚類にあてられているが、鰭脚類の部分では分布が見やすくなっていなことなど見づらいところがある。鯨類、とくにナガスクジラ科の分類はこの本が発行されてのちに大きな変更が行われたので、現在は参考にできない。またコククジラは1987年に食性について新しい観察がされたから、変更する必要がある。もう一つの問題は進化についての考察がほとんどされていないことである。

98 鯨 1965 カバー

 「鯨」は東京大学出版(1965.11.10)発行のB5版、426ページの本。細川 宏・神谷敏郎・訳で、原著はEverhard Johannes Slijper(1907-1968)著, 原題は「Walvissen」(オランダ語)。著者はアムステル大学の教授だったが、61歳で急逝した。細川 宏(1922−1967)は東京大学医学部の解剖学者。神谷敏郎(1930−2004)は東京大学医学部の解剖学者。神谷氏とは私の駆け出しの頃に東大の鯨類研究所でお会いし、鯨について教えていただいたことがある。左手首にイルカ類の第一頚骨を腕輪として付けておられた。
 本書で一番興味を持って読んだのは2章の「進化と外形」。とくに注目すべきなのは、蛋白質の類似から鯨類の祖先が「食肉類と有蹄類に近縁であることが明らかで、とくに偶蹄類と近縁である」としていること。この意見は非常に先駆的なもので、この時代には鯨類の祖先は肉歯類であるとする意見が一般的だった。前に記した「鯨類・鰭脚類」は日本での出版がほとんど同時期であるがそこでもその考え方を取っている。この本の原本は1958年の発行だからずっと古い。1981年に報告されたパキケタスやその後の多くの種類の研究、またDNAに記録された分化の過程から現在はカバに近い偶蹄類から派生したと考えられるようになった。

99 南氷洋捕鯨史 1987 カバー

 「南氷洋捕鯨史」は、中公新書(1987.6.25)233ページ。著者は板橋守邦(1929−1994)で、毎日新聞社に勤めていた人。捕鯨の歴史について詳しく述べた本である。

100 捕鯨盛衰記 1990 カバー

 「捕鯨盛衰記」は1990.7.30発行、(株)光琳の「食の科学選書 1」として出版されたもの。この「食の科学選書」というシリーズは他に読んだことがない。ネットで見ると5冊が発行されているようだ。1捕鯨盛衰記の他、2食べものの毒 3食文化と嗜好 4みちのく食の歳時記 5乳一万年の足音 となっているが、読んでないから分からないとしても、あまりまとまった方向性はなさそう。「捕鯨盛衰記」は奈須敬二(1931−1996)著。氏は水産庁に勤務して捕鯨に関する研究を行っていた。

101 徳屋秘伝鯨料理の本1995 カバー

 ちょっと変わったジャンルの本「徳屋秘伝鯨料理の本」は講談社1995.4.15発行B5サイズで108ページ。著者は大西陸子という方で大阪・千日前にあった鯨料理店「徳屋」(徳は心の上に横棒のある字)の女将だった。徳屋は2019.5.25に惜しまれつつ閉店した。実を言うと私はこの本を全く読んでいない。しかし次に記す理由でお勧めする本である。
 単なる料理本ではない。この本には英題があり「Mrs. Onishi’s Whale Cuisine」というものだが、そればかりではなく、各所に短い英文の解説があり、巻末には6ページにわたる英文テキストがあって、C. W. Nicol、 秋山庄太郎他の寄せた短文が翻訳されて掲載してある。捕鯨を日本の食文化として残したいという意見の方はこういった本を用いて英語圏の方たちに主張されるのが良い。
 大西女将は1991年レイキャビクで開催されたIWC総会で鯨料理のパーティーを催したという。

102 関門鯨産業文化史 2006 カバー

 「関門鯨産業文化史」は海鳥社2006.7.10発行のA5サイズ、102ページの本。著者は岸本充弘(1965−)で、下関市職員を経て下関市立大学所属となっている。下関・北九州の捕鯨に関する歴史を記したもので、各種資料がそろっている。

古い本 その47 福島原子力発電所

2021年02月25日 | 50年・60年

 東日本大震災の最大の、そして今後も長く残る傷跡は、原子力発電所の「事故」である。ここでも大震災以前の本から順に紹介する。

90 原子力発電 1976 表紙

 「原子力発電」は岩波新書(1976.2.20発行)、206ページである。著者は武谷三男(1911-2000)で、物理学の認識の発展に三つの段階があるという論議で知られているが、そういう本を書店で立ち読みして「手に負えない」と手をつけなかった記憶がある。このブログを書いていて「原子力発電」の著者が武谷氏であることを初めて意識した。原子力発電に関する技術的な解説を行っている。今読み返してみると、先見性のある問題を提起していて今日でも考えさせるところが多い。例えばプルトニウムの処理問題が未解決であることは現在も同じ論調で新聞紙上に見られる。例えば2020.12.12の朝日新聞ではプルサーマル計画の頓挫(目標を先延ばしした)を報道している。つまり50年近く経ってもほとんど解決されていないことに驚く。これでは国際的に「日本はプルトニウム爆弾を作る能力がある」と判断される可能性があろう。また、143ページから、美浜1号機の一次冷却水漏洩事故(1972.6.13)の経緯を記しているが、その場当たり的な復旧にはあきれる。さらに排出物の問題としてトリチウムがあることも正しく指摘している。
 文中の幾つかの単位が古いものである(ベクレルではなくキュリー、またシーベルトでなくレム)から、現代の文献と比べるのはちょっとめんどう。

91 恐怖の2時間18分 1986 カバー

 「恐怖の2時間18分」は、柳田邦男の著作で、1986.5.25初版発行の文春文庫の本である。手元にあるのは第3刷(1988.7.1)。1977年9月24日にアメリカ・ペンシルバニア州のスリーマイル島原子力発電所で事故が起こった。世界中で起こった原子力発電所の重大事故は、福島・チェルノブイリと、このスリーマイルが知られている。スリーマイルの事故は、ちょっとしたミスが重なって起こったらしい。それを解決する段階で十分な理解の上で作業を行わなかった結果、悪い方へ状況を変えていった、といったもの。さらに運転状況を表示する方法がわかりにくかったことも混乱に拍車をかけたと言うことらしい。写真や図表が多いのは良いが、内容を簡潔に説明できたかというとやや混乱が見られる。

92 九電と原発 2009 表紙

 「九電と原発」は、「南方ブックレット2」として南方新社から2009.11.20に発行された。「①温排水と海の環境破壊」となっているが、ネットで見たところでは②以後は発行されていないようだ。表紙写真は九電川内原子力発電所付近の砂浜に打ち上げられたサメの死体である。内容は 1 ウミガメの死亡漂着(中野行雄:ウミガメ保護活動) 2 海の生物を殺し、海を温暖化する原発(佐藤正典;鹿児島大・底生生物学) 3 川内原発の温排水による海洋環境破壊(橋爪健郎:鹿児島大・環境物理学)の3章にまとめられている。私は1章のクジラ類のストランディングのデータを見たくて、出版社から購入したが、むしろ3章の九州電力の不誠実な排水温度に関する主張が興味深かった。
 この本とは関係ないが、後に公表された川内原発付近の卓越風から推測される排気の方向を見ると、九州電力のデータをあまり信用できないと思った。何しろ冬季の川内付近の卓越風が、東北・西南方向を向いている、というのだから。私の感覚とは90度違う。理科年表で調べるとやはり東シナ海を超えてくる大陸からの風が卓越しているようだ。どうしてだろう?

 東日本大震災に伴う福島第一原発の事故に関する本はたくさん出版されているようだが、「買い揃える」というようなことはしていない。ここでは興味を持って読んだ、読み進むことができなかったものをいくつか挙げる。

93 原発安全革命 2011 カバー

 「原発安全革命」は文春新書(2011.5.20発行・247ページ)だが、同じく文春新書『「原発」革命』(2001.8)の増補新版。福島事故の直後にそれを踏まえて増補したものであるが、事故を批判するために書かれたようにみえる時期に発行したために内容の良さを誤解されたのではないだろうか。「トリウム溶融塩炉」という、あまり実用化されていないタイプの原子炉の安全性や将来性などを書いた本。現在実用化されている原発が、ペレット型の固体燃料を使っているために燃料体の変形事故や、緊急時の作動の遅れなどの問題があるのに対して、溶融塩炉では燃料が液体の形であることから、流量などの調整が容易であること、緊急時に下方に流すだけで動力も使わずに臨界を避けられることなどの利点があることを力説している。さらに、燃料となるトリウムの資源としての普遍性や運搬などの安全性も有利であるとする。一番の利点は、できたプルトニウムを再生することなく溶融塩の形で「混ぜて」使用できることをあげている。確かに日本の原子力発電の直面する問題を「廃炉」以外の点でほとんど解決できそうである。実用化には今ひとつ実績がない。また現在のウラン・プルトニウムの固体燃料方式がなぜ世界中で使われていて、溶融塩炉への移行が試みられていないのかについては、説得力のある説明が読み取れなかった。

94 国会事故調報告書 2012 カバー

 2012.9.30に徳間書店から発行されたもの。B5サイズで592ページ+CD1枚という大作である。奥付のページに著者が記してあり、その上に著者の解説らしきものがあってそこには「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」と題し、以下のように記してある。「福島第一原発事故を受けて、平成23(2011)年10月30日に施行された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会法」に基づき、同年12月8日、両議院の議長により黒川清委員長をはじめ10人の委員長・委員が任命され、日本の憲政史上初めて政府からも事業者からも独立した有識者による調査委員会が国会に設けられた。6カ月間に及ぶ精力的な調査活動の結果を報告書にまとめ、平成24(2012)年7月5日、両議院の議長に報告書が提出された。」
 3ページに衆議院議長・参議院議長殿としているから、これがその報告書なのだろう。それを一般に販売するというのは良いことと思う。それも1,600円+税という安価である。付属しているCDが報告書の一部なのか単行本発行に際して添付されたのかはどこかに書いてあるのかもしれないがわからなかった。
 私は半分ほど読んで諦めた。何しろ、同一の(または酷似した)文章が何度も出てくるなど、冗長である。もう一つケチをつけておくが、本の表題「国会事故調報告書」というのはいかがなものか。正式な報告書に略称を掲げるなんて。他にも意見があるが、しっかり読んでいないからここに記すだけの自信はない。

95 福島第一原発事故 7つの謎 2015 カバー

 「福島第一原発事故 7つの謎」は、2015.1.20講談社現代新書として発行された。副題があって『吉田所長が生前に遺した「謎の言葉」に迫る!となっている。吉田昌郎は事故当時に福島第一原子力発電所所長であったが2013年7月9日に死去。この本では、副題に「生前に遺した」とあるくらいだから、亡くなったことや、せめて弔意を記してあるのかと思ったが、「はじめに」のところで「生前、思わぬ言葉を…」と出てくる。あとの方で少し書いてあるようだが。著者は『NHKスペシャル「メルトダウン」取材班』として6名の記者などNHK職員の名が記されている。318ページ。
 内容は、1 ICの停止の認識 2 ベント実施の遅れ 3 ベントの実行の有無 4 2号機の放射性物質 5 消防車の水の行方 6 緊急時の減圧装置の不具合 7 格納容器の破損 の7つの項目ごとにその経緯と著者らの考えるその直接的な原因が記されている。なお、上にあげた項目は、私の判断で省略して記したから、正しくは本書を見て欲しい。とくに4番目の項目は、本書の見出しは「放射能大量放出」と書いているが、文中では正しく「放射性物質」となっている。
 内容は詳しくて調査が行き届いているが、7つの事象に整理したことで全体的な事故を作り出した機構や環境、人間的な環境や科学に対する態度などの点を十分に捉えているとは言えない。

96 福島第一原発廃炉図鑑 2016 カバー

 「福島第一原発廃炉図鑑」は、2016.6.17太田出版発行のA5(より少し大きい)の本。395ページ。著者は開沼 博・編としてある。内容は福島原発の各炉について、廃炉に向かう道の現状を記したもので、この本の立場としては東京電力の説明をそのまま踏襲して、「現状はかなり改善されている。以前の状況の記録・記憶だけで判断しないで欲しい」ということだろうか。分析があまりに甘く、興味を引かなかったから半分ほどしか読んでない。あとは流し読みしたから上の判断は正確かどうか保証しない。

 福島原発事故に関しては、たくさんの項目に分けて論議する必要がある。過去の地震・津波の記録が生かされたか。地震の際の原子炉の破壊は東電の言うように軽微なものだったのか。非常電源の位置が十分に検討されていたのか。上記の「七つの謎」で扱ったような事象の検討、特に原子炉設計上の、または施工上の欠点は検証されたのか。事前に適切な訓練が行われなかったのはなぜか。技術的なアドバイスを任務とした学術関係者はなぜ適切なアドバイスができなかったのか。政府の関与の仕方はまずかったのか。モニタリングポストなどの観測は適切だったのか、そしてそのデータの読み取りは正しく行われたのか。「事故」の最初の段階までについてもまだまだ色々な疑問が湧く。そして廃炉の問題に関しても同じように多くの疑問がある。そして一番の悪い影響は、政府や東京電力の発表が信じられなくなってしまったことだろう。

 柳田氏の事故関連の古い本の紹介をする計画だったが、関連図書をたくさん挙げすぎたようだ。ちょっと反省して「古い本」に戻ろう。

古い本 その46 東日本大震災

2021年02月19日 | 50年・60年

 「古い本」シリーズでは、目安として発行後約40年経った本を紹介している。前回は1995年の兵庫県南部地震に関連するものを記したが、すでに例外だった。今回はそれに関連するということで、さらに新しい本を挙げる。
 東日本大震災は2011年3月11日14時45分に発生した宮城県沖130kmを震源とするM9.0の地震。死者・行方不明者の合計は2万人を大きく超える大きな被害をもたらした。これによる被害は大きく分けて、地震の振動による被害 津波の被害 福島原子力発電所のもたらした被害 の三つ。原子力発電所関連の本は次回に記す。
 この地震はその後10年経つが、最近の2021年2月13日夜遅くにも大きな余震が発生し、地質学的な時間の長いことを実感させた。
 まず地震発生以前の書籍から。

84 新・地震の話 1967 表紙

 「新・地震の話」は岩波新書で、著者は坪井忠二(東京大学・地球物理学)。211ページ、出版は1967.5.20。同じ岩波新書で「地震の話」が同じ著者によって1941年に発行されている。地震学の初歩をかなり詳しく紹介していて、教科書的な本で、実際の大地震の記録は詳しくない。日本の大地震の記録として1963年の南千島地震(M8.1)までがリストアップされている。何しろプレートテクトニクス理論がようやく出てきた頃の著作であるから、地震で放出されるエネルギーが、長期間で見ると一定の幅に収まるという現象が述べてあるが、その理由についてはプレート論のように明瞭ではない。

85 地震の日本史 2012 カバー

 「地震の日本史」「大地は何を語るのか」は中公新書で2007.11.25初版発行であるが、東日本大震災の直後2011年5月25日に「増補版」としてその初版を発行、私の持っているのは2012年3月15日の増補板5版(276ページ)である。「増補」したのは、261ページから268ページの増補版のための補遺「東日本大震災の後で」という部分と思われる。初版部分は「地震考古学」と呼んで日本史に現れる大きな地震が列記してあるが、やはり西日本の記録が一番詳しくて他の地域と同列に比較できないのが弱み。そのため、記録の乏しい東北地方の古い地震の記述は少ない。東日本大震災の参考になる貞観地震(869年)に関しても短い記事しかない。地震による津波も同様に発生し、1000人ほどが亡くなったという。この初版発行の頃から古い地震について紙に書いた記録よりも、発掘による調査が注目されるようになった。それについては2014年の「巨大津波 地層からの警告」に記されている。
 ここからが東日本大震災発生後の本。

86 河北新報のいちばん長い日 2014 カバー

 この本は文春文庫(2014.3.10発行)301ページ。2011年10月に単行本として文芸春秋社から発行されたものの文庫版。副題があって「震災下の地元紙」となっている。河北新報は宮城県を中心とした地方紙で、もちろん大きな被害にあって、新聞作成、用紙の調達、印刷、配送など多くの機能を失った。それでも記者たちは現地に踏み込んだ取材を続けた。号外の発行は当日の夕刻であったが、翌日朝刊の発行には新潟日報の大きな協力があった。印象的なドキュメントである。

87 東日本大震災 2014.4.2 表紙 

 サンデー毎日緊急増刊として、地震直後に発行されたもの。79ページ、A4。この地震の被害は私たちが経験した中では最も深刻なもので、その表れ方も多様である。津波の押し寄せる状況など印象の強い写真が多数集められている。ただし、原子力発電所に関する記事はほとんどない。22ページから4ページにかけて記事があるが、写真は5枚しかなく、破壊された建屋の姿もあまりよく見えない。これは、発電所の状況が時間とともに厳しくなっていったために、4月発行の本書ではまだ深刻な状況を示すような状態でなかったためだろうか。

88 巨大津波 2014 カバー

 「巨大津波 地層からの警告」は、新書版で日経プレミアシリーズとなっている。2014.5.8発行で。著者は後藤和久(東北大・災害科学国際研究所)。東日本大震災の前から、歴史的な文書から古い時代の地震記録を探すよりも発掘によって津波堆積物や倒壊した構造物、そして液状化や地下構造に残る痕跡を調べることが重要視され始めていた。その成果として東日本大震災の直前には貞観地震津波の規模が非常に大きなものであったことが推定されるようになり、警告をする論文も発行されたが、原子力発電所の対抗処置が取られることは少なかった。残念ながら、この本の大津波に対する警告は「後出し」の感がある。なお、カバー写真の下部3分の1はカバーと同色だが「帯」である。写真では境目に細線を入れた。『「千年に一度の」次はどこか』というフレーズは帯によく書かれる宣伝用のものであり、本文にその答えが明確に記されているようではない。

89-1 震災と鉄道 全記録 2011 表紙

 雑誌「AERA Mook」(朝日新聞出版)として2011.9.5発行のA4、162ページの本。東日本大震災の被害ばかりではなく、過去の大地震の新聞記事など広範囲の情報を記したもの。首都圏の鉄道の復旧経過の図も面白い。終わりの方の一章は「原発30キロ圏内 全鉄道46路線と駅」と題して、各原発周辺の鉄道の地図が示されている。1999年の東海村JCO臨界事故にも言及している。
 東日本大震災では、発生直後に東北地方の半分以上の鉄道が運行できなくなった。その復旧は10年近く経った現在も完了していない。直接・間接的にこの地震を契機として廃止(またはBRT化)した路線は、十和田観光鉄道(2012.3.31廃止14.7km)JR岩泉線(2014.3.31廃止38.4km) JR気仙沼線(2020.3.31BRT化55.3km)JR大船渡線(一部2020.3.31BRT化43.7km)である。JR山田線(一部55.4km)は三陸鉄道に移管。またJR石巻線・仙石線・常磐線では経路の変更が行われた。

89-2 東日本大震災後の鉄道の変化 

 上の地図は赤:廃止・BRT化、青:移管 緑:経路変更 を示す。なお私は経路の変更されたところは以前も乗車したが変更後も行って来た。震災で廃止された鉄道は全て既に乗車している。