季節の変化

活動の状況

チェコ・シリーズ2

2013-05-05 00:10:01 | Weblog
チェコ」シリーズの2回目。
東西が「冷戦状態」で、
まだ「ベルリンの壁」があったときにチェコを訪問している。
まさかと思ったその「ベルリンの壁」が崩壊した。
1989年11月だった。
東欧革命」が吹き荒れた。
チェコは、「プラハの春」から「ビロード革命」を経て、
共産主義」陣営から、「民主主義」陣営へ移行する。
「プラハの春」は1968年、「ビロード革命」は1989年だった。

チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
  2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「 日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。

「チェコ」シリーズの第2回は、つぎの6)~9)。
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、

「チェコ」シリーズ2の閲覧状況はつぎです。

長いタイトルは、短い文字でも検索した。

6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/85526e7526f5ae6a30938b6ab3cdae3b
共産政権の崩壊は、「経済戦争」が遠因である。
「計画経済は市場経済に負けた」という市民の反応を、
西ドイツのBMWと東ドイツのトラバントにみた。
それは、東ドイツのハレという町で開催された、
国際見本市でのことである。

国際見本市」の会場。ハレ。1989年3月。

中央の尖塔には赤いが掲げられ、
会場の前には、レーニンの大きな頭像がある。

まだ、ドイツが東西に分割されていた。それに、
ベルリンは、「ベルリンの壁」で東西に分断されていた。
ベルリンの壁」。1988年。

西ベルリンの仮設スタンドから東ベルリンを眺める。

東西ベルリンを遮断する「一式」が、ここにはある。
手前の「ベルリンの壁」、奥にある「内側の壁」、その間の「無人地帯」、
無人地帯にある「照明」と中央に白くある「監視塔」。
監視塔の上には「サーチライト」、
黒い部分から、無人地帯を越える人を監視し、
下にポツンとある「銃眼」から射殺する。
銃眼は4面にある。

このベルリンの壁が崩壊するのは、1989年11月で、
東ドイツのハレを訪れたのは、1989年3月。
まさか、8か月後にこのベルリンの壁が崩壊し、
1年後の1990年に東ドイツが崩壊するとは、
思いもよらなかった!

東西ドイツが統一するのはであり、
それに、流血の惨事がある、
と思っていた。

そのハレの見本市会場の脇には、赤いBMWが駐車していた。
ナンバープレートから、西ドイツからの出展者の車だ。

見本市を見にきた東ドイツの若者たちが、
ひきも切らずに集まって来ては、
BMWの中をのぞきこみ、外も観る。
スタイルや性能、塗装、内装、材料、装備、環境対策……が、
東ドイツの国民車トラバントとは段違いだ。

「西側の連中は、こんなにいい車に乗っているのか?」
と、設計の思想と、それを実現できた技術力にショックを受け、
「追いつくのは難しい、トラバントは完全に負けている!」
と、いけないものを見たかのように、すごすごと去っていく。

これは、生きた見本市だ!
近未来の製品を展示したわけではない。
技術の差は歴然で、安全や公害対策も遅れている。
計画経済は負けていることを、東ドイツの市民は、肌で感じた。
くやしいだろうな? 自分の国が劣っているわけだから。
そして、自分の国は1年後になくなる。
東ドイツが崩壊する直前を見た。

チェコの車に「シュコダ」。2006年。

シュコダは、トラバントと同じように技術レベルが低かった。
まったく魅力がない、売れない。これでは市場経済では、勝てない。
企業として生き残れないから、共産政権が崩壊すると1990年に、
ドイツのフォルクスワーゲンに買収された。

西の市場経済では、スタイル、性能、デザイン、価格、
品質、安全、環境対策……において、厳しい競争をして、
優秀な製品や、市場に適合したものだけが生き延びて、
デファクト・スタンダード」(実質的な標準)になった。

「お上に逆らわずに、決められたとおりに働いていれば、給与はもらえる」
という、半世紀も続いた共産政権の無気力状態では、
市場経済では勝てない。
共産政権が崩壊したのは、内部の「腐敗や無気力」のほかに、
市場経済と計画経済による、「経済戦争」の結果が遠因である。
武力戦争」の結果ではない……自由主義国家と共産主義国家が、
直接ドンパチして、共産主義国家が滅びたわけではない。

西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント、
西ドイツのフォルクスワーゲンとチェコのシュコダ、
市場経済と計画経済による「経済戦争」の決定的な優劣を
目の当たりにした。


7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/89109cc9c5fcb8382a7c20c1142dc23f
「父は、仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらっていた。
さからわずに、工場にいれば給料がもらえるし、解雇はなかった」
これは、チェコ人、ロマーンが、共産政権下にあったときの、
チェコについて、話したものである。

ソ連が崩壊した原因は、ミハイル・ゴルバチョフの政治改革、
ペレストロイカと情報公開グラスノスチによる民主化である。

共産主義体制が崩壊した遠因は、「経済戦争」である。
東西が、ドンパチの「武力戦争」をしたのではない。
「計画経済」が、「市場経済」に負けたのである。

「計画経済が市場経済に負けた」ことを示す事例はないか?
ソ連の車「ラーダ」と、チェコの車「シュコダ」がある。

ラーダ」をチェコで見た。2006年。

ラーダには塗装のムラがあり、サビがあるが、まだ堂々の現役だ。
後方の黄色の車は、チェコの新しい「シュコダ」である。

チェコは、1989年の「ビロード革命」(無血革命)で、共産政権が倒れた。
チェコのビロード革命は、ベルリンの壁が崩壊したことによって、
勢いがついて成功し、民主主義国家、チェコ共和国が生まれた。
1989年は、チェコにとっても、劇的な変化が起きた年である。

そして、シュコダは西ドイツのフォルクスワーゲンの子会社となった。
その新技術で製造された新しいシュコダである。

「赤のラーダを買うか? 黄色のシュコダを買うか?」
シュコダがフォルクスワーゲンの子会社になったことが回答である。
ラーダには、技術力がないことは、明らかである。

共産主義体制の計画経済で、いくら優れた指導者が、
企画・開発した製品でも、世界規模の市場経済では、
まったく競争力がなかった。

国には売れるものがない。売れない。
それで、共産政権は立ち行かなくなった。
一党独裁による硬直、内部の腐敗、無気力、
それに、計画経済の破綻で、国は破滅状態になった。

「父には、利益を生み出して、給料を稼ぎ出そう、という意識や、
能力を向上して、実績を上げれば、給料が上がる、という発想には、
なじめないでいる」
と、ロマーンは言う。
言われるままにやっていればよかった、
国家公務員に共通するとまどいだ。

「共産主義から民主主義になったが、生活はちっとも良くならない。
仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらった昔の方が良かった、
と言うのです」

市場経済に移行したから、きょうから生活が良くなる、
とはならなかった。たまった半世紀分の垢(あか)を、
これから、そぎ落としていく。

チェコは、「ヨーロッパへの回帰」を目指して、
2004年5月に、EUヨーロッパ連合に加盟した。
しかし、その前にすることがある。
西のNATO北大西洋条約機構という軍事同盟に加盟することである。
西への忠誠心を誓う「踏み絵」である。

「学校で、きのうまでだ、と教えられていたNATOに、
加盟することには抵抗がありました」
と、ロマーンは複雑な気持ちであったことを話す。

国が立ち行かなくなって体制が変わり、
敵軍に組み入れられた。
市民までが感じる「屈辱」だ。

「それまでは、ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構に加盟していた。
1991年にソ連が崩壊して、当然、ワルシャワ条約機構も解消となった。
1999年にNATOに加盟して、ワルシャワ条約機構の軍事秘密を、
NATOにオープンにした」

「今では、NATOから軍事指導を受け、NATOに積極的に協力して、
ミサイルを配備する防衛計画にも取り組んでいます」
と言う。

「チェコが市場経済で世界と競合していくには、無気力状態から、
活力を取りもどさなければならないが、世代があと2回くらい、
代わらないとダメだ。半世紀も続いた共産政権の習慣や意識は、
すぐには変えられない」
と、ロマーンは言う。


8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/abada8a132c511457bc63fade5c9e442
世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
これは、チェコ人、ロマーンの悲痛である。

「現地人から、こんな悲痛な叫びを、これまでに聞いたことがない」
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

21年続いた悲惨な状況とは、
1968年の「プラハの春」から、
1989年の「ビロード革命」までである。

「プラハの春」は、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和するという、民主化運動である。

このプラハの春は、ソ連との決別を意味したために、
1968年8月20日の夜11時、ソ連軍がチョコに侵攻して、
数十人の犠牲者をだし、プラハを占拠した。
チェコ事件である。
そして、ソ連はチェコの改革運動をやめさせた。

チェコの改革運動、
「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、プラハの春を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。

ソ連の戦車で占拠されたプラハのヴァーツラフ広場に行きたい。
できれば、プラハの春の「おもかげ」がないか?

プラハ一番の繁華街、ヴァーツラフ広場は、
市民と観光客でにぎわっていた。
正面に見える国立博物館に向かうと、
ヴァーツラフの銅像の手前に花壇があり、
その中に、手作りのようなシラカバの十字架があった。

小さい! 見落としそうだ。しかも、地面にある。
有刺鉄線で輪をつくって、十字架にかけてある。

幅80センチメートルほどの、黒いぴかぴかの石があって、
ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が写っている。
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日、
とあるから、20年と18年の人生だったことになる。

手前の茶色の石には、3行の文があって、2行目は英語である。
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して
1行目はチェコ語で、3行目はドイツ語。ロシア語はない。
2人の学生の死の抗議の「記念碑」であり、
共産主義との「決別」である。

ソ連のチェコ侵攻で、プラハの春は終わった。
そして、「秘密警察」は弾圧を再開した。
チェコは「恐怖社会」にもどって、民主化運動をすれば、
仕事を失い、投獄され、人生を失う。大学生は退学させられる。
恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ……ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」


9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8b07996a29d81579bde2e8e789e4dd56
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
「しかし、重い意味の言葉だな!」
共産主義との決別で、悲惨さを体験したチェコ人でなければ、
出てこない言葉だ。
それに、歴史の劇的な変化、
パラダイム・シフトを表す言葉だ。

この小さな記念碑から、
「世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
と言う、チェコ人、ロマーンのやりきれない気持ちが、
ひしひしと伝わってくる。

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンが言うのは、つぎである。
アメリカは、ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、ソ連は国際連合安全保障理事会で、
拒否権を行使して、葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、手出しができなかった。
身内の共産主義陣営からも、民主主義陣営からも、
チェコには、援助の手は差し伸べられなかった。
世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンの悲痛になったのである。

「この悲惨な状況は、21年続いた」
と、しぼり出すように言った。
1968年の「プラハの春」から、
1989年の「ビロード革命」までである。
希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。

1969年の2人の学生の死の抗議が、
20年後の「ビロード革命」につながった。
それまで、口をつぐんでいたチェコ人が口を開いたのは、
1989年11月17日のデモ行進である。それは、第2次世界大戦で、
ナチスに殺害された学生の、追悼(ついとう)50周年のデモ行進だった。

それが民主化運動と重なって、学生に市民が加わり、
日ごとに広がって、1週間後には80万人にふくれた。
ロマーンは、ビロード革命は体験している。
「私たちは、素手なんだ」
「勝利すべきは、真実と自由だ」
と、掛け声をあげた。
1968年のチェコ事件で、
ソ連の戦車が占拠したヴァーツラフ広場は、
民主化を要求するチェコ人で埋め尽くされた。

この「無血革命」で共産党体制は崩壊した。
ビロードのようにやわらかかったことから、
ビロード革命とよばれ、そのとき、
イギリスに赴任していたから、
ニュースは身近に伝わってきた。

ビロード革命に先立つ1985年に、
ソ連では、ミハイル・ゴルバチョフが、
書記長になって、政治改革ペレストロイカを進めた。
東ドイツでは、1989年11月9日に「ベルリンの壁」が崩壊する、
歴史上の劇的な変化があって、ビロード革命を勇気づけている。
1989年は「東欧革命」の年で、東欧の共産党体制が次々と崩壊した。

ビロード革命は成功して、
言論は自由になり、出版物の検閲は廃止され、
国外旅行の規制はなくなり、市場経済に移行した。
ヨーロッパへの回帰」を目指して、EUに加盟した。
プラハの春からビロード革命まで、
21年の悲惨を体験したチェコは、
もう、あともどりはしない。したくはない。
ヨーロッパへ回帰し、EUに加盟して、国を復興させていく。

カレル橋で、親子の写真を撮らせてもらった。幸せそうだった。
後方はプラハ城。2006年。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チェコ・シリーズ1 | トップ | チェコ・シリーズ3 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事