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『デミアン』(読書メモ)

ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『デミアン』新潮文庫

この小説の「つかみ」の部分は読ませる内容である。ラテン語学校で上級生にイジメられる(強請られる)シンクレールが、年上のデミアンに助けられるという場面だ。

しかし、後半になると小難しくなる。要は、牧師の息子であったヘッセが、お父さんやキリスト教にしばられ、苦悶していた自分の半生を小説にしているのだろう(ヘッセの略歴に「神学校に入るも脱走」と書いてあった)。

「神の礼拝とならんで悪魔の礼拝を行わねばならない」という持論を持つデミアンに惹きつけられていくシンクレールの揺れる気持ちが後半に書かれている。

結局何をいいたいのかよくわからない部分も多かったが、最も印象に残ったのは次の箇所(p.190-191)。

「ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。新しい神々を欲するのは誤りだった」

「目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった」

「肝要なのは、任意の運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった」

この部分を読んだとき、フランクルの次の言葉を思い出した。

「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。人生こそが私たちに問いを提起しているからです」(V.Eフランクル『それでも人生にイエスと言う』)

人生が私たち一人一人に問うているもの。それを見いだし、受け入れ、くじけずに生きることが大切になるのかな、と感じた。



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