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色川武大『あちゃらかばい』(読書メモ)

色川武大『あちゃらかばい』河出文庫

戦前・戦後の浅草で活躍した芸人たちの生き方を描いたのが本書。

土屋伍一、鈴木桂介、林葉三、清水金一など、ビッグではないが個性派芸人に着目しているところが渋い。実際にはエッセイなのだろうが、ほとんど小説のようである。

小学校の頃から色川さんは学校をさぼって浅草をうろついていた。なぜか?

「どうして、あんなに頻々と学校を無断欠席していたのか。その点を記さないと、私と浅草の関係が説明しにくい。筋道立っていえることでもないけれど、ひとつの理由は、私の頭の形が異様にいびつだったことによるだろう。私は出産時、鉗子という、器具を使ってひっぱりだす処置をとる必要があったらしく、多分その影響だろう」(p.185)

「幼稚園も小学校も、地獄だった。孤立を鎧にしなければ居たたまれなかった。しかし、皆と同じことを強要される瞬間がある。私は皆と競って手を上げることすらできない」(p.186)

「学校を足蹴にし、学業を無視した。が、それは同時に、自分の将来を足蹴にし、無視することなのだと気づかざるをえない。だから重苦しい。私は十歳で世捨人の気分であり、その不安と戦うことで精一杯だった」(p.186)

そんな状態で、浅草を発見した。はじめて父親に連れていって貰ったとき、本能的に何かを直観した。不具ではないが、奇形の巷だと思った。私は水が低きにながれるように浅草を求めた」(p.187)

強い劣等感をもっていた色川さんが、自身と同一視できたのが浅草だったのだ。実はこのときの体験が色川さんの自信にもなっている。

「けれどもその私が唯一、よりどころにしているのは、自分は小さい頃からグレていたんだ、という矜持である。他人が学校へ行って勉強しているとき、俺は各種の個人芸を専門に見、遊びの表裏を見て育った。大きな能力を隅々まで理解することは或いはできないかもしれないが、贋物にまどわされないだけの年期は入っている」(p.67)

本書に出てくる登場人物たちは、どこか危なげで不安定な人たちなのだが、その人しか発揮できない魅力も備えている。同様に、色川さんの作品群も色川さんしか書けないものばかりである。

私たちも、それぞれの「浅草」を持っているのだろう。


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