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『東京の戦争』(読書メモ)

吉村昭『東京の戦争』ちくま文庫

「東京での戦争は、開戦から五か月後の昭和十七年四月十八日の東京初空襲からはじまった、と言っていい。中学三年生に進級したばかりであった」(p. 9)

多感な中学時代に、東京の戦争を経験した小説家・吉村昭さんの手記である。自分の眼で見て、体感した戦争が語られている。

心に残ったのは次のエピソード。

肺結核のために那須温泉で静養していた吉村さんのもとに、子宮癌に罹っていた母の死が知らされる

「駅の切符売り場の前には長い人の列が出来ていて、坐っている人も多かった。翌朝売り出される乗車券を入手しようとしている人たちであった」(p. 42)

これでは切符を買えそうもない。一刻も早く家に帰りたい吉村少年は、列をはなれ、駅の事務室に入る。

「私はひるむ気持ちをふるい立たせて近づき、駅員と打合せを終えた駅長の前に立ち、「母が死にました。家に帰りたいのです」とふるえをおびた声で言って、電報を差し出した。それを手にした駅長は、電報を見つめ、私に視線をむけた。全くの無表情で、私はにべもなく断られると思ったが、駅長は駅員を呼び「上野駅まで一枚、この中学生に渡してやってくれ」と、言った」(p. 42-43)

この時のことを、吉村さんは次のように振り返っている。

「今でも乗車券を渡してくれた駅長の顔を、はっきりおぼえている。細面の黒いふちの眼鏡をかけた、四十年輩の人であった。乗車券の枚数はきびしく制限されていて、即座にその場で渡してくれるようなことは、軍関係の重要な所用のある人以外になかったのではあるまいか。駅長は、思いつめた表情で自分の前に立つ少年であった私に心が動き、乗車券をあたえてくれたのだろう。その時からすでに五十六年、戦争下の遠い日の記憶だ」(p. 44)

人から受けた恩を、心の中に大切にしまっている吉村さん。

自分もそうありたい、と思った。



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