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ラーニング・ラボ

松尾睦のブログです。書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。

『プラグマティズム』(読書メモ)

2024年01月25日 | 読書メモ
W. ジェイムズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム』岩波文庫

ジェイムズによれば、哲学は「経験論」と「合理論」に分けることができる。

「『経験論者』とはありのままの雑多な事実を愛好する人を意味し、『合理論者』とは抽象的な永遠の原理に偏執する人を意味する」(p. 17)

もう少し詳しく言うと、経験論は「科学的、帰納的、唯物論的、実証的、多元論的」であり、合理論は「宗教的、演繹的、精神的、観念論的、一元論的」である。

プラグマティズムとは、この2つの考え方の橋渡し、調和させる「方法」であり、「主義」ではない。

では、どんな方法なのか?

それは、「その考え方が有用であるかどうか」という基準で、経験論と合理論を使い分けるという方法である。

アメリカ資本主義的なものの考え方であるらしい(本書表紙)。

「プラグマティックな原理に立つとき、われわれは生活に有用な帰結が流れ出てくる仮説ならばいかなる仮説でもこれを排斥することはできない」(p. 271)

ただし、ジェイムズが経験論者であるため、本書では「合理論」がメタメタに攻撃されていて、せっかくのプラグマティズムの考え方が歪められている。つまり、「プラグマティズム=経験論」という印象を受けてしまうのだ。

しかし、本書を読み、哲学が「経験論」と「合理論」に大別できることがわかったのは収穫だった。


『マルクス:生を吞み込む資本主義』(読書メモ)

2024年01月11日 | 読書メモ
白井聡『マルクス:生を吞み込む資本主義』講談社現代新書

『共産党宣言』は面白かったが、『資本論』を読む根性はないので、本書を買ってみた。

一番印象に残ったは、「資本とは価値増殖の無限運動である」(p.102)という点。

つまり、「資本主義社会は生産力を不断に増大させることを運命づけられた社会なのだ」(p. 28)

著者の白井先生いわく「人間社会から生まれたにもかかわらず、人間の意図や欲望とは別のロジックで作用し、したがって人間の手に負えないものとなる、それが資本である」(p. 97)

マルクスが言うように、人間は「自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使い」(『共産党宣言』p. 50)状態である。

本書の後半では、「包摂(subsumption)」という概念が説明されるのだが、これが怖い。

賃金労働者は、職場において生産性向上を目指す絶えざる競争に巻き込まれる(包摂される)だけでなく、職場外においても、より便利で快適な生活を目指す消費活動に駆り立てられており(包摂されており)、それは資本主義社会の構造によるものなのだ。

一見、職場において働き甲斐を感じ、稼いだお金でいろいろなものを買って幸せに暮らしてしているつもりでいても、実は、資本主義という仕組みに踊らされているといえる。

研究の世界においても、学術雑誌の影響力指標である「インパクトファクター」や「引用数」といった数値によって論文が商品化されていて、それを巡る競争が世界中で展開されているので、おもいっきり資本主義によって包摂されている

ただ、「包摂されている」ことに気づいているかいないかは大きな差である。

資本主義による競争を無視して働くことは難しいけれども、その仕組みを知り「巻き込まれすぎない」ことは大事だと思った。


『私の旧約聖書』(読書メモ)

2023年12月29日 | 読書メモ
色川武大『私の旧約聖書』中公文庫

天才・色川武大による、旧約聖書論。本質を見抜く目はさすがである。

「ただ一点、神と人間との契約、これが根幹になっておりますから、双方が、つまり神も人間も、その契約を守っているかどうか、これが問題なのです。人間は、神に対して違反し、その尊崇を捨て去ってはならない。それから、神も、人間と約束したことを履行しなければならない。もし忘れれば、神という存在もたちどころに無に帰してしまうのです。旧約が述べている道徳とは、これ以外にないのですね。これが、非常に気持ちいい。読んでいて、清潔感すら感じてしまいます」(p. 64-65)

「たとえば、アダムとイヴが、禁断の木の実を食べた、あれがどうして歓迎されないかというと、ただ一点、神との約束を破ったからなのですね。その他の心証は関係ないのです。そういうところが、旧約聖書というのは首尾一貫、みじんも崩れません」(p. 66)

おっしゃるとおりである。

旧約の中では、一見理不尽に思えることがたくさん起こるが、この点は一貫しているのだ。

「もっと大ざっぱにいうと、旧約の歴史は、(人間たちが)困って神に泣きを入れる、そして神に忠実になる時期と、困惑がのぞかれて神が不必要に近くなってしまう時期との反復だということもいえましょう。愚かだといったって、まるでそれでバランスがとれるかのように、長いことそうやってくりかえしてきたのだから仕方ありません」(p. 114)

まったくその通りで、あきれるほどこの繰り返しの連続なのである。よく考えると、ユダヤ民族に限らず、人間の一生も、この繰り返しであるような気がする。

とにかく、つながっていることが大事なのかな、とあらためて感じた。






『ツァラトゥストラはこう言った』(読書メモ)

2023年12月21日 | 読書メモ
ニーチェ(氷上英廣訳)『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』岩波文庫

『この人を見よ』『道徳の系譜学』を経て、本書を読み、ようやくニーチェのすごさがわかってきた。

いちばん感銘を受けたのは「運命愛」「永遠回帰」の考え方。

「人生は偶然によって、良いことも悪いことも起きるが、それをまるまる感謝して受けとめよ。同じ人生が何回も繰り返されたとしても、それを受け入れることができるくらい、自分の人生を愛せよ」という考え方だが、それができるのが「超人」である。

ツァラトゥストラ(ニーチェ)は言う。

「わたしはしばしば自分を慰めるためにこう言った。『よし、よし、親愛なるわが心よ!おまえは不幸な目にあったな。その不幸をおまえの — 幸福として喜び味わうがいい!』」(上、249)

人生という贈り物を与えられたと考え、いつもこれに対して、何を報いたらいちばんいいかと考える!そしてまことに、つぎのように言うのが高貴な者にふさわしいことばである。『人生がわれわれを選んで、何か約束してくれるなら、— その約束を、われわれは守ってやろう』」(下、p. 97)

「わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ」(下、p. 139)

「陰気くさい人間や夢想家などではなく、どんな困難なことにもまるで自分の祭りに行くようにいそいそと応じる、健やかで明るい者でなければならぬ」(下、p. 252)

こうした「困難や不幸を含む人生=贈り物」という考え方には、神に感謝するニーチェの気持ちが込められているような気がした(表面上、ニーチェは神を否定しているが)。

気になったのは、「よろこび」についての次の箇所。

「すべてのよろこびは、万物の永遠を願う(中略)それは愛を欲する。それはあまりにも豊かであり、贈り与え、ほどこし、だれかによって奪われることを懇望し、奪う者に感謝し、好んで憎まれようとする。— よろこびはそのように豊かであるから、嘆きだろうと、苦労だろうと、憎悪だろうと、恥辱だろうと、畸形だろうと渇求する」(下、p. 326-327)

イエス・キリストをイメージさせる文である(表面上、ニーチェはキリスト嫌いであるが)。

しかし、永遠回帰を信じ、つらいことも喜ぶためには、どうしたらよいのか?

そのヒントは、第1部で語られる「精神の三段の変化」にあるような気がした。

「わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝(ラクダ)となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ」(上、p. 37)

「こうしたすべてのきわめて重く苦しいものを、忍耐づよい精神はその身に引きうける。荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へといそいで行く。しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。(中略)しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん、獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。一つの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」(p. 38-40)

この箇所を読み、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイによる福音書18章3節)というイエスの言葉を思い出した。

ただ、「獅子マインド」から「幼な子マインド」への変化が難しい。究極のアンラーニングだな、と感じた。


『幸福な王子』(読書メモ)

2023年12月07日 | 読書メモ
オスカー・ワイルド(西村幸次訳)『幸福な王子』新潮文庫

9編からなる、オスカー・ワイルドの短編集。

一番有名な「幸福な王子」は悲しいけれどもハッピーエンドなのに対し、「ナイチンゲールとばらの花」「王女の誕生日」は切なすぎる。

「忠実な友達」は悲惨だが、あるあるな話。

「すばらしいロケット」「星の子」は?という感じである。

一番響いたのは「若い王」

王様の贅沢品のために、貧しい人々がつらい目に遭っているのを知った若い王は、あえてみすぼらしい恰好になって町に出る。

すると、ひとりの男が王に忠告する。

「陛下、富める者の豪奢から貧しき者の生活が出てくることを、ご存じありませぬか?陛下の虚飾によってわれわれは養われ、陛下の悪徳がわれわれにパンを与えるのでございます」(p. 120)

ふーむ、深い。

全体的に、やや「ベタ」なストーリーが多いが、さまざまなバリエーションの作品を描ける力を持ったオスカー・ワイルドの才能と感性に感銘を受けた。

『ここから世界が始まる』(読書メモ)

2023年11月30日 | 読書メモ

トルーマン・カポーティ(小川高義訳)『ここから世界が始まる』新潮文庫

カポーティが若いころ書いた14の短編を収めた本。

弱者やマイノリティを題材とした「沁みる」作品群である。

特によかったのは「ミス・ベル・ランキン」。

近所でも悪評高い老婆ミス・ランキンは、夫と娘に出ていかれ、黒人の召使と住んでいるだが、いつも不機嫌である。

「リリーが生まれた年には、あたしはまだ十九で、きれいな若い女だった。ジェドなんて、こんな美人は見たことないと言ってたもんだが、そんなのは昔の話―。いつからこんなになったのか、自分でもさっぱり覚えがない。また覚えがないと言えば、いつから貧乏になったのか、いつから年寄りになったのか」(p. 48)

うーん。なんとなくわかる。この間まで若かったのに、いつのまにこんな歳になったのか驚くことがあるからだ。

なお、この作品のラストは本当に美しく、慈愛に満ちている

ちなみに、本作を書いたのはカポーティが17歳のときだという。

やはり天才である。

『共産党宣言』(読書メモ)

2023年11月16日 | 読書メモ
マルクス・エンゲルス(大内兵衛・向坂逸郎訳)『共産党宣言』岩波書店

1848年に出版された本書は、資本主義の本質を鋭く指摘している(特に前半)。

「自分の生産物の販路をつねにますます拡大しようという欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球をかけまわる」「ブルジョア階級は、世界市場の搾取を通して、あらゆる国々の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた」(p. 47)

170年以上前に書かれた本であるが、現在のグローバリズムを端的に表している。

「かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている」(p. 50)

様々な紛争、気候変動、貧困等の問題を抱える今の世界は、まさにこうした魔法使い状態である。

なお、第1章で「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(p. 40)、第2章には「社会の一部による他の部分の搾取は、過去のすべての世紀に共通な事実である」(p. 75)と書かれている。

階級闘争を終わらせてプロレタリア階級中心の世界を作るための提案をしているマルクスとエンゲルスであるが、これまでの歴史を見る限り、搾取の構造を変えることは難しいといえる。


『エチカ(上・下)』(読書メモ)

2023年11月09日 | 読書メモ
スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ(上・下)』岩波文庫

読むのに苦労したが、響く書であった。

1632-1677年に生きたスピノザは、汎神論的な神の概念(自然=神)を提唱したため、当時の教会から異端視された哲学者である。ただ、この神の概念は日本人にはなじむように感じた。

本書のメッセージは、「人間は神のうちにあるのだから、神からいただいた本性(活動能力)を、理性や知性によって正しく認識・発揮し、喜び、神の導きに素直に従って生きるとき、幸せになれる」というもの。

逆に、「いろいろな外部の出来事に惑わされ、自分の本性を発揮できずに悲しみ、ネガティブな感情に流されてしまう」と不幸になる。

自由」についての考え方も共感できた。

自由人とは、「自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなす」人である(下巻、p. 95)。

要は、神様から与えられた賜物や使命に忠実な人であろう。

さらに、ポジティブ思考もスピノザの特徴である。

「しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から行動へ決定されるようにしなければならぬことである(下巻、p. 134)

このあたりは、中村天風の思想と一致している。

ちなみに、スピノザは「一切のことは神の永遠なる決定から生ずる」「我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに耐えなければならぬ」(上巻、p. 197)と言っている。

感動したのは、こうした考え方の利点である。

「この説は、何びとをも憎まず、蔑(さげす)まず、嘲(あざけ)らず、何びとをも怒らず、嫉(ねた)まぬことを教えてくれるし、その上また、各人が自分の有するもので満足すべきこと(中略)を教えてくれるからである」(上巻、p. 197-198)

ふーむ、深い。




『生家へ』(読書メモ)

2023年10月26日 | 読書メモ
色川武大『生家へ』講談社文芸文庫

『狂人日記』『離婚』(あるいは『麻雀放浪記』)で知られる色川武大が、家族(特に父親)との関係を綴ったノンフィクション的な小説

元軍人で、恩給で暮らしていた父親は、かなりの変人

第2次世界大戦中、床下に防空壕の穴を掘りまくったり、木に登ったり、仕事もせずにブラブラしているがプライドは高い

そんな父親と、家に返ったり帰らなかったりする著者との関係が語られているのが本書。

作品1~作品11というエッセイ的作品の後に、著者のデビュー作『黒い布』が掲載されている。

この作品の主人公は父親で、戦争中、そして退役してからの息子との関係が描かれているが、これが絶品である。

これまで、色川氏のエッセイを何冊か読んできて、「きっと父親が嫌いだったのだろうな」と思っていたが、どうも違っていたようだ。

世の中の息子は、多かれ少なかれ、父親から影響を受けていることを、改めて感じた。

『人間をみつめて』(読書メモ)

2023年10月12日 | 読書メモ
神谷美恵子『人間をみつめて』河出書房新書

ハンセン病患者を支援した精神科医である神谷美恵子氏の書。人間の生き方について語られている。

『生きがいについて』に比べて、より考え方が整理されているように思った。

印象的だったのは「古い脳と新しい脳」のはなし。

「大ざっぱにいうと、私たちの脳は二重構造になっている。いわゆる古い脳のほうには他の動物と共通な「動物的な」本能の中枢がある。食・性・集団欲にかかわる欲望、衝動、情動の中枢が、地域的に極めて近いところに配置されている。ところが新しい脳には感覚や運動の中枢のほか、言語、認識、思考などの中枢があり、ことに前頭葉には自発性、社会性、倫理性などを発揮するのに必要なしくみのあることが、たくさんの臨床例や手術例などによって、またちかごろでは生理学的実験によって証明されている」(p. 33-34)

「こうしてみると、古い脳には動物性が、新しい脳には精神性が宿っている、と言えそうである。この二つの脳を自らの中にかかえ、その双方から指令を受けて生きている人間とは、たいへんな矛盾のかたまり、と言わねばならない。そのために悩まずにいられないのは当然のことであろう」(p. 34)

この「古い脳、新しい脳」のはなしが、本書の全編にわたって出てくる。

よく考えてみると、精神分析における「超自我、自我、衝動」も、「古い脳、新しい脳」の観点から説明ができる。つまり、古い脳に「衝動」が存在し、新しい脳に「超自我や自我」があるのだろう。

ちなみに、神谷さんは精神分析があまり好きではないらしく、基本的に脳の機能で説明しており、科学的な人であることがわかった。

また、「生きがい」について語っている後半では、次のように述べている。

「人間は生きがいを『何かをすること』に求めて捜しまわる。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝とよろこびのうちに謙虚にうけとめる「存在のしかた」、つまり「ありかた」がたいせつに思える。それは何も力んで、修養して自分のものにする性質のものでなく、前章でのべた「愛の自覚」から自然に流れでるものであると思う」(p. 171)

これはまさにエーリッヒ・フロムの言う「ある様式(to be)」である(その反対は「持つ様式(to have)」)。

では、何もしなくてもいいのかというとそうではない。

「大いなるものを信頼して、卑小な自分をまもることや、自分が所有するつもりになっているもろもろの物や力をまもることに、それほど熱中しなくなれば、どんなに多くのエネルギーが解き放たれることであろう(中略)そうすれば『何かをすること』を捜しまわる必要はない。なすべきことのほうから、こちらに押しよせてきて、応接いとまなし、ということになるだろう。「使命のほうがわれわれを探している」というハマーショルドのことばはあくまでも正しい」(p. 172)

「持つ様式」から「ある様式」に変わることで、やるべきことが見えてくる、といえそうだ。