W. ジェイムズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム』岩波文庫
ジェイムズによれば、哲学は「経験論」と「合理論」に分けることができる。
「『経験論者』とはありのままの雑多な事実を愛好する人を意味し、『合理論者』とは抽象的な永遠の原理に偏執する人を意味する」(p. 17)
もう少し詳しく言うと、経験論は「科学的、帰納的、唯物論的、実証的、多元論的」であり、合理論は「宗教的、演繹的、精神的、観念論的、一元論的」である。
プラグマティズムとは、この2つの考え方の橋渡し、調和させる「方法」であり、「主義」ではない。
では、どんな方法なのか?
それは、「その考え方が有用であるかどうか」という基準で、経験論と合理論を使い分けるという方法である。
アメリカ資本主義的なものの考え方であるらしい(本書表紙)。
「プラグマティックな原理に立つとき、われわれは生活に有用な帰結が流れ出てくる仮説ならばいかなる仮説でもこれを排斥することはできない」(p. 271)
ただし、ジェイムズが経験論者であるため、本書では「合理論」がメタメタに攻撃されていて、せっかくのプラグマティズムの考え方が歪められている。つまり、「プラグマティズム=経験論」という印象を受けてしまうのだ。
しかし、本書を読み、哲学が「経験論」と「合理論」に大別できることがわかったのは収穫だった。
ジェイムズによれば、哲学は「経験論」と「合理論」に分けることができる。
「『経験論者』とはありのままの雑多な事実を愛好する人を意味し、『合理論者』とは抽象的な永遠の原理に偏執する人を意味する」(p. 17)
もう少し詳しく言うと、経験論は「科学的、帰納的、唯物論的、実証的、多元論的」であり、合理論は「宗教的、演繹的、精神的、観念論的、一元論的」である。
プラグマティズムとは、この2つの考え方の橋渡し、調和させる「方法」であり、「主義」ではない。
では、どんな方法なのか?
それは、「その考え方が有用であるかどうか」という基準で、経験論と合理論を使い分けるという方法である。
アメリカ資本主義的なものの考え方であるらしい(本書表紙)。
「プラグマティックな原理に立つとき、われわれは生活に有用な帰結が流れ出てくる仮説ならばいかなる仮説でもこれを排斥することはできない」(p. 271)
ただし、ジェイムズが経験論者であるため、本書では「合理論」がメタメタに攻撃されていて、せっかくのプラグマティズムの考え方が歪められている。つまり、「プラグマティズム=経験論」という印象を受けてしまうのだ。
しかし、本書を読み、哲学が「経験論」と「合理論」に大別できることがわかったのは収穫だった。