森野旧薬園
『450年前より吉野で葛粉の製造を始めた森野家の先祖。
後、良質の水と寒冷な気候を求めて大宇陀に移転
11代目の当主森野道貞(通称 藤助)は薬草木を愛好しその研究が幕府にも認められ、広く薬草を採取献上 幕府からその報償として貴重な中国産の薬草が下付され、当時では唯一の私設薬草園を開設した』パンフから抜粋
幕府から下付された薬草は「テンダイウヤク ナンキンハゼ カンゾウ ニンジンボク ニッケイ サンシュユ」との看板があった。今も残っているものもあるという。
ナンキンハゼも薬草として入ってきたのか・・
「アマ」と名札あり。見慣れない植物 シャラ(ナツツバキ)
名札がなかったが、ムラサキ? シチダンカ
葛の根 寒晒しをする水槽
葛粉を作るのは手間がかかる。先ず原料の葛 今は近くでは取れず、九州など他地域から調達するらしい。それを砕き「寒晒」と言われる地下水を使った古来からの製法で沈殿ー撹拌ー排水を繰り返して不純物を取り除き乾燥させるまで3カ月ぐらいかかるとのこと。これが「吉野本葛」といわれる上質の葛澱粉。
ボランティアさんの案内付きで薬草園を廻る。
今の時期花は少ないが、知らない植物、知っている植物、こんなものもというものも薬草として植えられている。
アジサイにタマムシがとまっていてびっくり イタチササゲ
アミガサユリ果実 セリバオウレン
オオハンゲ
資料館にも入る。森野家が漢方薬普及に貢献したことがわかる。
阿騎野 人麻呂公園
宇陀は推古天皇の頃より「薬猟」が行われた所
この頃薬猟とは若鹿の角をとることで、大宇陀は猟場だった。
「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」
軽皇子(後の文武天皇)が猟に来て泊まった時、付き添った柿本人麻呂が詠んだ歌。
柿本人麻呂像 大型建物 復元 ここに泊まった?
かぎろいとは冬の早朝に見られる赤い陽光のことで、毎年旧暦の「11月17日」に「かぎろひを観る会」が行われているが、なかなか見られないらしい。
旧暦の「11月17日」は「かぎろいを見る会」を行うに当たって気象台の統計から割り出した日とのこと。
阿紀神社は通過
今日は本当ならここで「あきの蛍能」が行われるはずが、天候の都合で宇陀市文化会館に変更になっている。
松源院 大亀和尚民芸館
今は無住となっている松源院 大亀和尚民芸館
大徳寺の塔頭寺院であった松源院は明治の廃仏毀釈で廃寺となっていたのを、地元の名士久保氏が働きかけ、昭和55年、大徳寺 如意輪庵住職「立花大亀(大亀和尚)」が 現在の地(荒廃していた江戸時代末期の豪農 山岡家住宅)を禅寺に修復して再興 寺僧(ジョン トーラー テキサス市出身)を派遣した。
松源院は前に一度来たことがある。外国人のお坊様がいた寺として覚えている。
町民や観光客も受け入れたりと開放され、人気があったそうだ。
その後、寺は無住となり、昭和49年、山岡家住宅は奈良県指定有形文化財に指定された。
大亀和尚民芸館
松源院の前に建つ「大亀和尚民芸館」
松源院を再興した立花大亀(大亀和尚)の墨蹟や所持品 政財界人との交流を示す品 大宇陀の民具他を展示
民具など展示 外国人僧ジョン トーラーが托鉢に回った時の衣装
カンテラ
久保医師が往診に使ったという人力車
慶応2年(1866年)久保氏が購入した奈良県最初の自動車
1916年型6人乗り幌付きのフォード
日光のいろは坂を登る自動車を見て購入を考えたという。
続いて2・3・5と3台購入し、松山自動車商会を設立 住民の乗り合い自動車として営業した。これが乗り合いバスの始まり。
大宇陀 松山から桜井間 さらに岡寺・柏森へも行ったらしい。
後に奈良県知事が自動車を購入した時「是非1番の番号を譲って」と頼んだが断られ、知事の車は「0番」を使用したとか。
整備士は他所から引き抜き、知事より5円高い月給で雇ったとか。
運賃は、松山から桜井へは50銭 帰りは登り坂になるため10銭高くなり、雨の日も高くなったらしい。
その後、各社の統合が進み、奈良交通(株)が設立された。
乗り合いバスのはじめ、葛や漢方の研究・・大宇陀は文化先進地だったことがわかる。
「香具山古墳」の出土物の展示があった。
「香具山」=「橿原」と思っていたので驚いた。どんな関係があるのだろう?
古墳は民芸館のすぐ近くにあるらしいが、今は立ち入れないという。
徳源寺 織田公墓所へ
山道を登る。
途中に布袋像があった。
”立派な布袋様”・・そう思って過ぎようとしたが、妹は気になると言って像の後を探すと・・
「やっぱり!丹波佐吉だ!」 どうにか読み取れる。丹波佐吉照信 江戸時代の石工
後で調べると、最晩年の作らしい。 右)佐吉の布袋像と並んで 布袋像の原型のような石が。これはなんだろう?
ずっと登り。
徳源寺はこの地で亡くなった松山藩主織田常真をその子織田山城守長頼が菩提を弔うために建てた。今は建物はないが頂上に織田家の墓所があった。
ホタル
道の駅で解散後、予定外だったが、ホタルを見に行くというので連れて行ってもらうことに。
時間調整に立派な民家が並ぶ大宇陀の街並みを散策。
弁当を買ってお仲間のお家で食べて、さあ出発。
ホタルが出るというところに到着。田んぼの向うには山がある。
しばらく車から外を見ていたが全く出る様子がなく、しびれを切らして田んぼの間を山の方へ歩き始めた。「あっ光った・・」山の中に点滅を始めた光が田んぼの上にも降りてきた。やっぱり8時過ぎ。
久しぶりのホタル・・しばし優雅なひと時を楽しんで帰路に着く。
『450年前より吉野で葛粉の製造を始めた森野家の先祖。
後、良質の水と寒冷な気候を求めて大宇陀に移転
11代目の当主森野道貞(通称 藤助)は薬草木を愛好しその研究が幕府にも認められ、広く薬草を採取献上 幕府からその報償として貴重な中国産の薬草が下付され、当時では唯一の私設薬草園を開設した』パンフから抜粋
幕府から下付された薬草は「テンダイウヤク ナンキンハゼ カンゾウ ニンジンボク ニッケイ サンシュユ」との看板があった。今も残っているものもあるという。
ナンキンハゼも薬草として入ってきたのか・・
「アマ」と名札あり。見慣れない植物 シャラ(ナツツバキ)
名札がなかったが、ムラサキ? シチダンカ
葛の根 寒晒しをする水槽
葛粉を作るのは手間がかかる。先ず原料の葛 今は近くでは取れず、九州など他地域から調達するらしい。それを砕き「寒晒」と言われる地下水を使った古来からの製法で沈殿ー撹拌ー排水を繰り返して不純物を取り除き乾燥させるまで3カ月ぐらいかかるとのこと。これが「吉野本葛」といわれる上質の葛澱粉。
ボランティアさんの案内付きで薬草園を廻る。
今の時期花は少ないが、知らない植物、知っている植物、こんなものもというものも薬草として植えられている。
アジサイにタマムシがとまっていてびっくり イタチササゲ
アミガサユリ果実 セリバオウレン
オオハンゲ
資料館にも入る。森野家が漢方薬普及に貢献したことがわかる。
阿騎野 人麻呂公園
宇陀は推古天皇の頃より「薬猟」が行われた所
この頃薬猟とは若鹿の角をとることで、大宇陀は猟場だった。
「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」
軽皇子(後の文武天皇)が猟に来て泊まった時、付き添った柿本人麻呂が詠んだ歌。
柿本人麻呂像 大型建物 復元 ここに泊まった?
かぎろいとは冬の早朝に見られる赤い陽光のことで、毎年旧暦の「11月17日」に「かぎろひを観る会」が行われているが、なかなか見られないらしい。
旧暦の「11月17日」は「かぎろいを見る会」を行うに当たって気象台の統計から割り出した日とのこと。
阿紀神社は通過
今日は本当ならここで「あきの蛍能」が行われるはずが、天候の都合で宇陀市文化会館に変更になっている。
松源院 大亀和尚民芸館
今は無住となっている松源院 大亀和尚民芸館
大徳寺の塔頭寺院であった松源院は明治の廃仏毀釈で廃寺となっていたのを、地元の名士久保氏が働きかけ、昭和55年、大徳寺 如意輪庵住職「立花大亀(大亀和尚)」が 現在の地(荒廃していた江戸時代末期の豪農 山岡家住宅)を禅寺に修復して再興 寺僧(ジョン トーラー テキサス市出身)を派遣した。
松源院は前に一度来たことがある。外国人のお坊様がいた寺として覚えている。
町民や観光客も受け入れたりと開放され、人気があったそうだ。
その後、寺は無住となり、昭和49年、山岡家住宅は奈良県指定有形文化財に指定された。
大亀和尚民芸館
松源院の前に建つ「大亀和尚民芸館」
松源院を再興した立花大亀(大亀和尚)の墨蹟や所持品 政財界人との交流を示す品 大宇陀の民具他を展示
民具など展示 外国人僧ジョン トーラーが托鉢に回った時の衣装
カンテラ
久保医師が往診に使ったという人力車
慶応2年(1866年)久保氏が購入した奈良県最初の自動車
1916年型6人乗り幌付きのフォード
日光のいろは坂を登る自動車を見て購入を考えたという。
続いて2・3・5と3台購入し、松山自動車商会を設立 住民の乗り合い自動車として営業した。これが乗り合いバスの始まり。
大宇陀 松山から桜井間 さらに岡寺・柏森へも行ったらしい。
後に奈良県知事が自動車を購入した時「是非1番の番号を譲って」と頼んだが断られ、知事の車は「0番」を使用したとか。
整備士は他所から引き抜き、知事より5円高い月給で雇ったとか。
運賃は、松山から桜井へは50銭 帰りは登り坂になるため10銭高くなり、雨の日も高くなったらしい。
その後、各社の統合が進み、奈良交通(株)が設立された。
乗り合いバスのはじめ、葛や漢方の研究・・大宇陀は文化先進地だったことがわかる。
「香具山古墳」の出土物の展示があった。
「香具山」=「橿原」と思っていたので驚いた。どんな関係があるのだろう?
古墳は民芸館のすぐ近くにあるらしいが、今は立ち入れないという。
徳源寺 織田公墓所へ
山道を登る。
途中に布袋像があった。
”立派な布袋様”・・そう思って過ぎようとしたが、妹は気になると言って像の後を探すと・・
「やっぱり!丹波佐吉だ!」 どうにか読み取れる。丹波佐吉照信 江戸時代の石工
後で調べると、最晩年の作らしい。 右)佐吉の布袋像と並んで 布袋像の原型のような石が。これはなんだろう?
ずっと登り。
徳源寺はこの地で亡くなった松山藩主織田常真をその子織田山城守長頼が菩提を弔うために建てた。今は建物はないが頂上に織田家の墓所があった。
ホタル
道の駅で解散後、予定外だったが、ホタルを見に行くというので連れて行ってもらうことに。
時間調整に立派な民家が並ぶ大宇陀の街並みを散策。
弁当を買ってお仲間のお家で食べて、さあ出発。
ホタルが出るというところに到着。田んぼの向うには山がある。
しばらく車から外を見ていたが全く出る様子がなく、しびれを切らして田んぼの間を山の方へ歩き始めた。「あっ光った・・」山の中に点滅を始めた光が田んぼの上にも降りてきた。やっぱり8時過ぎ。
久しぶりのホタル・・しばし優雅なひと時を楽しんで帰路に着く。
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