みどりの野原

野原の便り

5月31日 こわーい祟り 帯解~京終 史跡めぐり

2016年05月31日 | Weblog
帯解駅から京終駅へ。
こわーい祟りのお話に関係のある神社などをめぐる。

素戔嗚(牛頭天皇)を祀る八坂神社
境内末社の一つに「崇道天神」が祀られる。

 
こんもりとした社叢の中にある「御霊神社」
ここも祭神の1人に早良親王(崇道天皇)が祀られる。   


        大川池 
向こうの小島のようなところは大川池古墳といわれる。 詳細は不明だが近くの竹藪から銅鐸が見つかっているらしい。
弥生時代の周溝墓だった? 後に広げられため池として利用されている。


道の横ここんもりした高みがいくつか。 五つ塚古墳。

その奥にドドコロ廃寺跡がある。
草地の向こうは雑木林で立ち入ることもできないが、6世紀ごろにあった渡来系士族の氏寺で、瓦積み基壇を持つ金堂跡などの堂塔の跡があり、かなり規模の大きい寺院だったそうだ。ドドコロとは地名「堂所」からきている。
五つ塚古墳にしてもドドコロ廃寺跡にしても説明がないとわからない。


草地には帰化植物のセイヨウヒキヨモギが咲いていた。

ここから下り、大川池の近くから円照寺参道に出て、山の辺の道の山道へ。

 
山を越えたところ、前池の向こうに長い屛を巡らせた崇道天皇陵がある。木陰で説明を聞く。         
                   右) 崇道天皇八嶋陵 墓域は屛に囲まれ、その中に鳥居があるのも珍しいという。

「崇道天皇」とは死後に与えられたおくり名で皇位にはついていない。早良親王のこと。
早良親王は奈良時代に生まれた皇族で、父は光仁天皇だが母方が下級皇族で立太子は望まれていず、16歳で出家して東大寺に入った。
父が天皇になり、亡くなる時に次期の桓武天皇に「早良王子を還俗させて皇太子に」と勧め、早良親王は皇太子に立てられた。
・・が、藤原種継暗殺事件に関与したとして乙訓寺へ幽閉。その後淡路島へ流される途中で無念の死を遂げた。
35歳であったという。
早良親王がなくなって以来、天皇周辺の人々の死や病気、火山の噴火や地震、飢饉、疫病の流行など・・次々と起こり、これは早良親王の祟りではないかと恐れ、鎮魂の儀式を行い、祀り、「崇道天皇」との追号を与えて祀った。
平安時代には淡路島から故郷奈良へ移された。いかに怨霊の祟りを恐れているかがわかる。

 
八嶋陵の前に古墳の石棺らしい石がコンクリートに囲まれて保護されていた。水が溜まって、中にイチョウウキゴケがびっしり。
環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧1類になっているが、奈良県ではまだ珍しくないのかな?

 
穴栗神社 日本書紀にも出てくる古い神社     社殿壁面に孔雀と松 牡丹と孔雀? 菊? の絵があるのが珍しい。 

 
京終天神社 祭神は事代主命・加夜奈流美命・宇須多岐昆女命・不足留比女命とともにここにも菅原道真公が祀られていた。
                                       右)子連れ狛犬

肘塚町近くで、肘塚町の名の由来や高僧玄と藤原廣継の話を聞く。
「玄」は学問僧として入唐、玄宗皇帝にも認められる程の功績があり、帰国後も活躍し、吉備真備とともに権力をふるうていたが、藤原広嗣が乱を起こすなど反感を買い、失脚して大宰府にながされた。
政敵「藤原広嗣」も真備と玄への批判が謀反とみなされ、反乱を起こして後に処刑された。

藤原広嗣の怨霊が玄を掴み上げ奈良の都にばらばらに落とした。
玄の腕(かいな)が落ちたところは肘塚で町名の由来になった。
頭は頭塔、眉や目は眉目山(大豆山)、胴の落ちたところには玄塚 

「菅原道真」も左遷され、恨みを持ってなくなった。
死後、次々と災難が起こり、鎮魂のためにあちこちに祀られた。
また、雷は菅原道真の屋敷があったくわばら町には落ちなかったため、雷も道真の怒りだったと恐れられ「くわばらくわばら」と唱えるようになったとのお話も聞いた。怨霊を恐れ、道真の名誉を回復し、高い地位を与え学問にすぐれていたことから学問の神としても祀られる。

怨霊となった人たちの怖ーいお話をいっぱい聞いた。


京終駅 で解散 懐かしい木造駅舎
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