みどりの野原

野原の便り

7月26日 日本書記講座 陵墓の話

2024年07月26日 | Weblog

久しぶりの出席。
今日は日本書記には進まず、主に天皇陵のお話を聞いた。
正確性には欠けるかもしれませんが、自分のまとめのつもりで書きます。

陵墓とは何か。
皇室典範に天皇・皇后・太皇太后・皇太后を葬る所を「陵」
その他の皇族を葬る所を「墓」とし、これらを「陵墓」といい、宮内庁が管理している。
近畿地方を中心として、山形県~鹿児島県にある。
かつては規模などの取り決めもあった時期があるが、今はない。

陵墓の比定(治定?)は、先ず、7世紀後半~奈良時代にかけて行われている。
比定(治定?)の根拠とされたのは、古事記・日本書記や地名・伝承などによった。

江戸時代に、元禄の修陵・文久の修陵と言われる古墳の改変があり・・前王廟陵記・大和名所図会・大和志・山陵考・・・などでの研究が進み・・

幕末~明治時代にも比定(治定?)が行われた。

比定(治定?)されたものでも、はっきり確定できるものはあまりない。

天武持統陵も、見瀬丸山古墳が当てられたり(今の場所は文武天皇陵とされた)・・2転3転したようだ。
そんな中で、天武持統天皇陵は、盗掘記録の存在や、文書などとの整合性から、確定。
 宮内庁により「檜隈大内陵」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定

みんなこのようにスッキリすればいいが、調査もままならない中、学者先生は研究をつづけられている。

宮内庁によって崇神天皇皇子 倭彦命の「身狭桃花鳥坂墓」と比定(治定?)されている、桝山古墳(橿原市鳥屋町)
江戸時代には方墳と記されていたが、幕末の修陵によって前方後円墳状(生垣で囲われた)に改変されたが、実際には方墳。

日本書記に、薨去の際、従者が生きたまま埋められるという殉死のことが記され、それに心を痛めた垂仁天皇が、以後、殉死を禁じ、代わりに埴輪を立てさせたとの記述がある。

でもその桝山古墳から埴輪が出土したのだそうで。日本書記の記述と矛盾する。
倭彦命も薨去の記述はあるが、事績はまったくわからないという。

天皇や御陵、モヤモヤするのは素人故と思う。

「比定」と「治定」の使い方がわからない。
ネットで・・「陵墓等の治定の根拠・・」「天皇陵に比定されなかった古墳が・・」
宮内庁比定が考古学的見地から誤っている古墳は・・」「陵墓治定の原点となって・・」「・・陵墓比定されている」などなど・・??

コメント
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