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日本語版新聞紹介

連載 NO.32 第五章 これからの日朝友好運動発展の展望 2014年に対談した記録です。

2020-01-04 | 日本と韓国・朝鮮・中国との友好

NO.32

第五章 これからの日朝友好運動発展の展望

1、2014年、金 鐘現氏(在日朝鮮人総連合会京都中京支部長)に聞く

京都西陣でのとりくみ

 織物の技術そのものは、5~6世紀ごろに大陸から渡来してきた秦氏の一族が、 今の京都の辺りに住みつき、養蚕・絹織物の技術を伝えたことに始まるとされています。
794年(延暦13)平安遷都によって京都が政治・経済・文化の中心地になると、 政府はそこで生活する貴族・公家・官僚たちの生活をまかなうために、いろいろな分野で産業育成を行いました。その一つに、織部司(おりべのつかさ)という役所の下、絹織物の技術を担う工人(たくみ)たちによる、錦・綾・羅・紬(つむぎ)など の高級織物の生産があった。それらは手工業による小規模なものでしたが、 既に高度な技術が用いられていたのです。工人たちは上京区上長者町の近辺に集まり、織部町という町を形成していたといわれる。とかかれています。

しかし、西陣地域で在日朝鮮人の人々がどのようにして「西陣織」をつくり発展させてきたのかはあまりしられていません。1998年から12年間朝鮮総連京都府西陣支部の委員長として活動されてきた、金 鐘現(キン ジョンヒョン)氏に1910年、韓国「併合」以降のことについて話を聞くことができました。 (本人のご了解を得てここに掲載することができました。)

 

大橋

 金ジョンヒョンさんいつも大変お世話になっています。今日もよろしくお願いします。

西陣に朝鮮人の方々が多く住まわれるようになった理由やその時期は何時ごろからだったのでしょうか?

 

金 氏

大橋さんもお元気のようで大変嬉しく思います。お茶でも飲みながら話しましょう。

言うまでもなく朝鮮人が日本に多く住むようになったのは日本帝国主義の朝鮮植民地統治にあります。それまでは特別の技術者が居られただろうと思います。今につながる朝鮮人が、西陣で地域産業、伝統産業の構成員として参入していったのは1910年頃からだと言えます。元々京都は朝鮮文化と深いつながりのある土地柄でもありました。しかし当時は日本がアジア侵略を進める時期でもありましたので、西陣に住み着いた人々も平安な暮らしではなく、その過程での官憲による弾圧、日本人業者からの差別、蔑視は過酷なものがありました。

しかし京都西陣の在日一世、二世たちの苦難に満ちた生き方は西陣織と言う伝統産業に参入し、それを日本人と共にしっかりと守り伝えてきたという共生連帯の歴史であり、それを土台とし京都に於ける民族教育、商工会、民族金融機関を発足させた、まさに、在日朝鮮人運動の先駆者であったと言う誇らしい歴史でもあるのです。

京都では西陣織の他に友禅染という伝統産業煮も参入していきました。

 

大橋

なぜ西陣織伝統産業への参入ができたのでしょうか?

 

金 氏

「京都の顔」と形容される西陣の伝統産業に、朝鮮人が参入していったのは、およそ大正末期ごろだと確認されています。西陣織産業に参入し、一大集団として根付き、地域同胞社会を形成していくことができた、その特色の一つに徒弟制度的な仕組みと同胞愛があったからだと思うのです。

新規参入の新米が一人前の職人になるには、相当の年月がかかりますが、朝鮮人の場合、先に熟練した者が、地縁、血縁を呼び寄せて親身になって仕込み、技術を伝授したので、他の日本人に比べ、比較的短期間で一人前になることができたのです。

しかも賃金は、給料制ではなく「出来高払い」「能率給制」だったので、仕事に対して意欲が持てるのも大きな魅力でした。そして低賃金、長時間労働という不遇な環境の中で、郷里に残した肉親に仕送りをするために早朝から深夜まで、死に物狂いになって働いたのです。

こうした逆行によく耐えて、1935年ごろになると機織の職工や、職工から身を起こして、自己の設備を持って下請けをするようになる人が出てきたのです。そのような製織の委託、下請けを出機屋といいました。

 

大橋

1935・3・20には 京都朝鮮人親睦会上京支部が結成されています。在日の方々の連帯が強められてきた時期ですね。

同胞愛はよくわかりますが、「出来高払い」「能率給制」が発展の根拠の一つだったという分析は生活感があり、ここにこそ本質があるようですね。

戦前・在日の人々は無権利状態を改善するために、民主的朝鮮人士は、先頭に立って活動され、治安維持法での犠牲者もあり、日本の革新的な人びとと連帯して活動されてきたと思っています。もう少し具体的なおはなしを?

 

金 氏

西陣では製造販売する織物業者を織屋と言っていますが、出機屋をしている朝鮮人の中から10数人が独立開業して織屋になろうとしていた矢先に大きな障害に直面しました。

それは、1938年に「ぜいたく禁止令」が交付されたことです。経済のすべてを統制し、西陣織物やぜいたく的品目の生産の禁止、また、織物の原料である絹、人絹糸が「統制品」として原糸配給制となったのです。そして朝鮮人には配給されませんでした。この統制経済の時代になってから、裏でヤミ経済がはびこって言ったのです。

1940年代になると何もかもがヤミ経済になり、日本人業者といえども、ヤミの絹、人絹糸の確保に走らねばなりませんでした。

米・肉・魚・野菜などの食料品に至るまで配給制で、それも遅配、欠配も多く、国民は耐乏生活を強いられました。米は大変な貴重品でした。米と物々交換すれば、欲しいものはどんなものでも手に入れることができました。そこで朝鮮人はヤミ米を手に入れるルートを開拓し、絹、人絹糸を米と交換することによって手に入れることができたのです。

この時局になり、当局は特別高等警察(特高)による思想犯のみならず「経済警察」の体制を整えて、ヤミの本格的な取締りにのり出したのです。

朝鮮人に対しては、皇国臣民にさせるために「協和会」への加入の強制に加え、朝鮮人織物業者に対する取締りは、残酷無比でした。10数人の業者はすべて投獄され拷問されました。差し入れも受け付けず面会を求める家族に対しては、婦女子といえども殴打し、面会をさせなかったのです。

戦争末期になり、朝鮮人に対する徴用を一段と強化しました。このように西陣の朝鮮人は、投獄と拷問によって血を流し、出獄しても徴用が待っているという暗黒時代を迎えねばならなかったのです。

 

大橋

アジア侵略から第二次世界大戦前夜の頃ですね。日本国民も無権利状態におかれ国政批判が死刑につながる暗黒の時期でした。

次号に続く

          


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