柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

断末魔

2006-06-21 08:40:27 | Weblog
交流戦終わりましたね。去年と同じ感想です、長い!だらだらとやりすぎです。あの半分で十分ですね、そう思われませんか?
 日銀総裁の投資騒動、別に構わんじゃないかと思っていたのですが(たまたま相手が村上氏で、ああなっただけのことですから)、今日の読売のコラムを読んでああそうだわなぁと思い直しました。こっちの方がうんと常識的な捉え方です。一千万円預金しても数千円の利子しか付かぬのに、お前は一千万以上の利鞘かい?という感情は確かにそうですね。その低金利を決めているご本尊の利殖とあらば反発も相応でしょう。思慮に欠けましたね、確かに。
 光の母子殺人事件、最高裁は高裁の無期懲役を棄却して差し戻し判決を出しました。おそらく死刑判決に変更されるのでしょうが、原告の夫の言うようにいかにも迂遠ですね。遠回りに過ぎます。また何年も費やされるわけです、このシステムをこそ何とかしろ!と言いたいでしょうね。同情します。裁判官が言ったそうです、反省と罰とは別次元のことだと。やっとわかったか!?ですよね。反省すれば許されるのか?です。謝って済んだら警察要らん!です。そんなこと何百年も前からの(そんな昔には警察なんてなかったでしょうが)世の中のルールです。それを、こと少年犯罪に関しては更正の余地があるとやななんちゃらで皆お咎め無しだったのです。そういう連中、放した途端にまた犯罪を重ねる、何度見てきたことでしょう。やった後にどれだけ反省したってどうだというのです?やられた方にばかり我慢を強いるこの法制はやはりおかしいと思います。ゼロ・トレランスを採用すべきと思います。一回やったらダメ、ということです。そういう厳格さが必要だと思います。
 NHKの朝ドラ「純情きらり」見ておられませんか?この前の前のドラマから私はまってまして毎日見ています。昭和14年が舞台です。戦争前のきな臭い時代です。そういう時代にも、しっかり生きている女性がいるという朝ドラの共通コンセプトに則っている筋なのですが、非常に象徴的な場面がありました。源氏物語を教える女教師に対して、この物語は「万世一系の天皇陛下に対する不敬な話だ、講義するはあいならん」と当局から指示される場面、共産主義者や左翼思想者が弾かれていく場面、戦争に息子を孫をとられる母親祖母が涙するのも非国民扱いされる風潮を「嫌な時代になったねぇ」と言わせる場面、今日は治安維持法を盾に一般庶民が理不尽にも引っ張られる場面です。密告社会の怖ろしさ、思想弾圧の理不尽さなどとどこかの凡百な学者のような括り方するのは簡単ですが、私はこういう場面を見る度に、ああ余程に共産主義、左翼思想というのが当局は怖ろしかったのだなぁ、ということは神国日本、皇国日本を拠り所に組み立ててきた全体主義の脆弱さも当局は十分に認識していたのだろう、その裏返しとしてあれだけ微に入り細に穿ちの弾圧検挙を繰り返して恐怖政治を敷かざるを得なかったのだろうと思うのです。源氏物語などという日本文化の最たるものにまでああいう対応をしなければならぬほどに余裕がなかったということなのでしょう。まさに断末魔です。崩れる姿、なのでしょう、そう思います。ぜひ見てみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義の胡乱さ

2006-06-20 08:41:25 | Weblog
イラクのフセインに対して死刑の求刑が為されたという記事です。イラク人148人殺害という行為について「人道に対する罪」を咎められてのことだそうです。ああまたこの言葉、と思いました。人道に対する罪。第二次大戦後の処理として、ドイツでニュルンベルグ裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれました。ナチスが断罪され、例のA級戦犯、BC級戦犯などで区別された裁判です。その時の罪が「平和に対する罪」「人道に対する罪」でした。この時初めて登場した罪状です。この裁判のために新たに罪状を作った形であり、事後法を禁ずる(事件が起こってからそれを罰する法を作ること)のは法学の大原則ですから、この裁判自体が茶番で無効であるという説は当時からずっと並行して存在しています。詳細は成書に譲りますが、結局この罪がどこまでも偽善である、勝者が敗者を裁くためだけに、裁判という民主主義の体裁を整えるために演じられる劇の筋書きとして考え出されたネタだったということなのです。で、今回また幽霊の如く現れるわけです。フセインの場合は特に自国内での出来事であり、フセインを支持していた人が多かったから何十年も彼の政権が(独裁であってもです)続いたのでしょう?そんなことは放っておけばいいことです、内政干渉でしょうに。それをアメリカが、自分の言うことを聞かないものだから(つまり利権を渡さないということです)あれやこれや因縁つけて、難癖つけて喧嘩売ったという経過です。大量破壊兵器なんぞなかったじゃありませんか。余所の国のこと、放っておけばいいのに、です。北朝鮮ですか?あっちは他国民の拉致という無体をしていますからね、もっとも攫われた国々が黙っているというなんとも妙な政治的均衡状態にありますが。人道に対する罪なんて、偽善でしょう?アメリカの考えそうなことです、自分たちは裏でどんなえげつないことをしているかわかりませんよ。所詮勝者の理屈なのです。フセインも捕まえた場で殺してしまえばいいのに、裁判という手続きをわざと踏む。この芝居っ気です。先の大戦もそうです、ヒトラーは自殺したと言われていますが、その他の幹部連中も踏み込んで一気に、とやってしまえばよかったのでしょう、戦時です、問答無用です。日本の東条英機も然り。もっとも、日本は一応降伏しましたから、ソ連のような戦勝側の無茶な略奪陵辱(満州や朝鮮での)を避ける、その後を睨んだ戦略としては妥当かとも思いはします。でも、この罪がなんとも勝手なものであることは確かですね。
 偽善、そう、さも民主主義とは一般国民のためにあるなんて嘯きながら、まつろわぬ者達を容赦なく抑圧する偽善。まだこんな言葉が生き残っているのかと、嫌~な気分になりました。平和、人道に限らず、安全、安寧、自由、公平、平等などなど、どこまでも抽象的で、どうにでも解釈できて、その本質的な曖昧さ故に権力の恣意、曲解、独善を許すこれらの言葉には身構えねばなりません。多数派が正とは限りません、しかし多数派は正義を騙ります。さよう、正義ほど胡乱な概念はないのです。諸兄、騙されてはなりませぬ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たかがサッカーです

2006-06-19 08:40:03 | Weblog
いかがですか皆さんの感想批評は、昨日のクロアチア戦。私は日本が負けると思っていましたから、クロアチアの拙攻ばかりが目に付きました。新聞もTVも川口のPKセーブのシーンばかりです、どちらも点が入らなかったという事情も事情ですが。ううむ、結果から遡ればあの嘘のような相手の失敗(川口が上手かったのではないでしょう?)がなければ負けていたということですが、ま、私のような天の邪鬼はあそこで点が入っていたらまた別の展開になっていたはずだと考えますから、この騒ぎ様には些か鼻白んでいます。ああいう失敗をしたからクロアチアが勝てなかったんだという認識です。しかし日本はシュート打ちませんねぇ、昨日は珍しく中田がさかんに打っていましたが。シュート打たんと点は入らないのです、単純なことです。ガーナのように打っても打ってもキーパーの正面ばかりというのも何だかお粗末に映りましたが、でも結局そういうチームが勝ちますもの。下手な鉄砲でも何でも、打たんと事は始まらないわけです。うむ、たかがスポーツであります。人生論にまで敷衍していくことはないのでしょうが、物事は始めるだけで事の半分は済んでいるという諺があります。かたやで十里を行く者は九里をもって半ばとするとも言います。あれこれ思いめぐらせているだけでは、何も考えてないのと同じです。いえ、あれこれ計画して夢を膨らませて損得勘定を計算して、そういう下準備を否定するのではありません、否、そういう過程は必要なことです。でも、最後は飛び込まねばならぬのです。やり始めなければならないのです。そこでの逡巡(無謀、臆病、詐欺甘言など区別せねばならぬ事柄は多くありますが)をどう吹っ切るか。とにかく第一歩を踏み出さねば、物語は始まらないのです。サッカーの試合でパスばかり上手に回していても決して勝てないということです。
 すみません、説教臭くなりました。次はブラジルです。評論家が言うには、向こうはメンバー落としてくるんだそうです、決勝に出られますから。勝機があるんだそうです。トホホ、です。ああそうなんだ・・・。ブラジルとは仲良しですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三百代言

2006-06-18 10:04:05 | Weblog
慈恵医大泌尿器科の内視鏡手術による死亡事故に対し、業務上過失致死の有罪判決が出ました。この事件は技術の伴わない医者の無体であり、とても弁解の余地はないように思いますし、執行猶予は釈然としませんが、実刑判決が(おそらく最高裁まで行くのでしょうから確定するのはまだまだ先のことですが)でれば、おそらく医師免許剥奪されましょう。皆さんは免許剥奪は当然と思われましょうが、今までこの手の無茶な医者達の多くは実刑を逃れて、その後ものうのうと医者を続けているのです。それだけ世の中は(というか、医師会という互助会団体は)医者に甘くできているのです。でも、実刑が出ればおそらくダメでしょうね。さすがに体面というのがありましょうから。それはさて措き。新聞によれば、この被告医者(弁護士)は「死因は失血であるから、適当な輸血をしなかった麻酔医こそに重大な過失がある」と反論したそうです。こうなのです、法律家の言う因果関係というのはまことに硬直した形式的な関係をのみ指すのです。手術でとんでもない大出血を起こして、輸血も間に合わずに脳障害を引き起こして、時間を経て多臓器不全を呼び死亡したと言う経過において、普通は事の最初の手術が患者を死なせた原因と考えますが、三百代言(弁護士)は違います、輸血が遅かったのが原因だと言うのです。出血が多くても適当に輸血がなされていれば死ななかったというわけです。そう言われればそうだなと、あなた思っていませんか?そうじゃないですよ、出血が多くなければ何の問題も起こらなかったのですから。執刀医の未熟こそが事の始まりです。ぬすりつけていますよね自分の失敗を人に。もっとも、あれこれ屁理屈つけてクライアントの要求に応えようと言うのが弁護士の仕事ですから苦し紛れの主張だったのかも知れませんが、そうだとすればいかにも素人然としていて(つまり本質を見逃している、表面をなぞるに過ぎる)戦術的に稚拙だということになり、弁護士の力量の問題に行き着くことです。でももっと問題なのはこういう本質を外した低いレベルの論争で罪の有無が決まるという事実です。ぞっとするわけです。裁判官も医学にはズブの素人だというわけです。いえ、そうだから、事実の認定いかんよりも検察やら弁護士やらの法廷操作こそが大切という本末転倒が罷り通るのです。おそろしいことです。私達を守ってくれるものは実は何もないのです。
 たぶせ苑で入苑者に消毒液を飲ませ大騒ぎだというベタ記事が載っています。以前にここで、失敗は人が為すことだ、安易に環境やシステムの所為にするのはいかがなものかという論を張りましたが、たぶせ苑のこの例は本人の注意不足がもちろん第一ですが、消毒液を清涼飲料水のペットボトルに入れていたという環境で、それをそのまま清涼飲料水と間違えてコップに移して飲ませたという事例であれば、上司や施設長は責任を問われましょう。そんなことしているからだ!というわけです。誰でも間違えるわ!とつっこみが入りそうです。ちゃんとラベルを貼っていたとありますが、いいえ、人はまず形状で判断します。元々貼り付けてある製品名のラベルを全部剥がしてあるとか、普通と違う外観であるならまだしもですが、その上に何かを貼り付けただけであれば間違えてくださいと言っているようなもの、と後で非難されてもやむを得ません。そして、そんなところでコスト意識出す(ケチる)からだ、という叱責に移ります。専用の容器を作っておけば起こらなかったであろう事柄だからです。でも、思いも寄らぬことが起こるものなのです。あなたもやるかもしれません、もちろんかく言う私もです。ううむ、だから、ですから本人の注意如何でしょう?そう思われませんか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国の責任

2006-06-17 08:40:11 | Weblog
B型肝炎訴訟で、予防接種で感染したと最高裁が認めました。昭和40年当時には既に予防接種によるB型肝炎感染の危険性は認識されていたという判断です。国の不作為を認めたわけです。5人に計2750万円の損害賠償判決です。同じような人は国内に100万人以上いるとのことです。ううむ、いつも言っているように判決が正しいのではありません、科学的に正確、真理であるわけでは全くありません。単に一人の法律の専門家(裁判官)による判定に過ぎません。ですからここは明確に分けて捉えねばなりませんが、疑問に思う点がいくつかあります。危険だと警鐘を鳴らしていた学者は多くいたのでしょう、しかし明確にビールスの証明はできていなかったはずです。その昔、当地大畠でも肝炎の集団発生があり話題になったことがあります。原因不明という結論だったと思いますが、予防注射の関与は十分に疑われていたことでしょう、他に原因がないのですから。ビールスを検出することが直接証明とするなら、他の原因を除外していって最後に残る、否定できない要素を原因と判定するのは間接証明とでも言えましょうか、当時はそう言う判断がせいぜいのところであったわけです。単に技術的な問題です。間接証明でも足りるという民事裁判の特徴ではあるのでしょうが、しかし、そのレベルの曖昧さで、当時全国であまねく広く行われていた予防接種事業(目に見える、一般へのアピール力のある公衆衛生行政の一つ)を停滞させるわけにはいかなかったでしょうし、現代のような注射器を全て使い捨てにするほど文化も文明も届いていなかった状況に鑑みれば、この判決は私は過ぎるものではないかと思います。ハンセン氏病の場合の不作為とはレベルが違うと思います。些か業界仕事にわたりますので気づいておられない方もいらっしゃいましょうから蛇足ながら説明しますれば、注射器は現在は使い捨てです。あなたに注射する場合も、採血する場合も新しい注射器を使い、終われば廃棄します。他の人には使いません。それはこの肝炎に対する研究が進み技術が向上しビールスを同定できそれが血液を介して感染すると証明されたからです。今、C型肝炎なんて言っていますが、私が医者になった頃にはこの型のビールスはまだ発見されていなかったのです、まだそんな浅い歴史なのです。輸血後にひどい肝炎にかかる人が多く出て、血液を介する感染であることは十分に予想されてはいたのですが、それを証明できない以上、それを取り除くこともできません、かといって輸血が必要なケースは後を絶たないわけで延々と輸血後肝炎が「作られて」いったのです。そういう歴史の末に注射器の一人一本使用(使い捨て)が広まっていったのです。昔は違ったでしょう?どの医者に行っても銀色の金箱はシューシュー蒸気を立てていて、看護婦さんが器用にピンセットで針と注射器とをつまんでセットしていましたよね。あの時間の長いこと、いや短いこと。ああいう熱湯消毒でも殺しきれないビールスがいたわけです。日光消毒だけでは決して完全ではなかったのです。にもかかわらず(今の知識で言えばです、あしからず)、学校での予防注射は一本の注射器で何人かうっていましたよね。コスト意識もあったでしょう、今ほどdisposableな容器が廉価ではなかったことも確かでしょうし。みんなそうだったのです。国民全てがそうだったのです。危険きわまりない行為であったと言われても、そうするしかなかったことです。公衆衛生行政として、確かに効果のあった事業だったのです。いえ、だから被害にあった少数は泣き寝入りせよというのではありません。多数の有益のためには少数の不利益はやむを得ないなんて行政の原則を振り回すのでもありません。が、今の技術、今の知識で、当時を裁くという図柄には釈然としません。現実問題として、5人に2750万の賠償です。他に100万人以上の症例がいるというのです。繰り返しますが、血友病(HIV)やハンセン氏病のケースとは違うと思います。
 国の責任は誰の責任でもありません。ですからこういう結論でいいのでしょうが、なにか安易な印象を拭えません。そう思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

専門バカの壁

2006-06-16 08:40:17 | Weblog
サッカーに悪態ついている間に阪神もヘロヘロです。楽天相手にまたまた井川やってくれましたし、相変わらず今岡は役に立ちません。巨人も中日も同じように転けてくれていますから目立たないだけで、あ~あです。ロッテやソフトバンクの堅実さ(これが強さでもありますが)からは
ほど遠いです。相手が足踏みしているときにこそグンと引き離さねばならぬのに、です。井川!髪を切っただけじゃぁダメなんぞ!
 例の絵画剽窃事件のついて専門家(美術評論家、大学教授)の論評が中国新聞に載っています。あの事件は一画家の転落と授賞した文化庁と審査委員諸氏の信用問題だと一般論を述べた後に、文化庁が授賞取り消しの理由に挙げた独創性への疑念について噛みついています。この人が言うには、独創性を厳密に証明するのは困難であるが、独創性は芸術を称賛する言葉として用いられてきて、絶えず新しいものを追い求め続けることを使命とする近代的主体(業界用語でしょう、うまく伝わりませんが、文脈からは芸術の目的目標、本来の姿といった意味のようです。こんなところにこんなわからぬ言葉を使うこと自体、専門バカというか、自己満足を超えられぬ小物というか、です)に根拠を求めることができる、でも、今日はそのトレンドが変わりつつあり、独創性は金科玉条ではなくなってきている、事実今まででも古典の構図を借りる制作やパロディーはげいじゅつとして認められてきているし、現代美術にはシミュレーショニズム(!)なるものまである。だから今回の剽窃事件は「こうした近代的主体への反省を促す契機を蔵している。芸術選奨の取り消しも、和田氏の行為も、ともども独創性という罠が生んだ悲喜劇であった」と。つまり真似することも芸術なのだというわけです。独創性のないことが芸術性の否定には繋がらないというわけです。盗作剽窃も一概に叱責されることではないというのでしょう。ま、この専門家は盗作か否かの線引きを独創性の有無で判断しようとしたお上の決定に噛みついているだけなんでしょうが、しかしそれにしても一般の感想とかけ離れますね。この画家の絵はどう見ても誰が見ても真似しぃであり、パクリですよねぇ。専門バカの壁は高く高くそびえ立ちます。この専門家が言う陳腐な見解ではなんの解決にもなりませんし、専門家仲間でのかばい合いにしか見えません。トレンドの所為にするのですから。結局人の所為です。バカの壁の向こうに住む連中にはこちらの(一般人の)普通の感覚がわからないのでしょうね。美しいとかきれいとか、その感じ方には連中となんの違いもないはずですが、連中にかかるとレベルの違いがあるということなんでしょう。まったく馬鹿馬鹿しい。専門家の言葉には十分気をつけましょうぞ。きっと空っぽな理屈を振り回して、素人を煙に巻いているだけなんですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

標準的治療の罠

2006-06-15 08:40:23 | Weblog
あれこれ悪態をつきながらそれでもBS見ている私です。スペインの得点シーンが何度も放映されますが、あの4点目はすごいですねぇ、芸術的。パスを小刻みにつないで強烈なシュート。日本に決定的に欠けるのはこの強烈なシュートです。どの得点シーンを見てもそう思ってしまいます。日経新聞に沢木耕太郎(作家ですよね)なる人の観戦記が載っています。「無残な負け方」一次リーグ突破の可能性は「絶望的と言ってもいいかもしれない」と、正しい評価です(と思います)。スポーツの勝ち負けを精神力に還元するのは好まないが、この敗戦は「技術や体力の問題である以上に、精神力な何かの欠如であるようにも思える」とも述べます。水に落ちた犬を叩くのですから、どうにでも言えるのですが、ちゃんとした勝ちパターンがない一方で、ここ何年、何十年、いつも同じ負けパターンというのは余りに策のないことではありましょう。私もこれを精神力なる曖昧に隠すことはもう止めるべきだと思います。もっと具体的に、スタミナがないとかスピードが足りぬとかパワーに欠けるとか、認識するべきです。これは余所の国のプレーを見ていれば素人目にも明らかな日本の欠点ですから。結局この人は、死にもの狂いでクロアチア戦を全力で戦えと結んでいます。なーんだか凡百でつまらんことでした。ま、仕事で書く文章となればこう書くしかないでしょうけれどね。
 文芸春秋の今月号(7月号)に中野孝次という作家の(すみません、読書量が足りません、この人といい先の沢木某といい、読んだことがありません)の「ガン日記」なるものが掲載されています。ガンの標準的治療をして、弱って弱って最後は肺炎で死ぬという、いわばお定まりです。いえ、ご本人にはまことにお気の毒ですが、医者の言葉を信じたばかりに、死期を早めたという次元ではなく、誤解を怖れずに直截に表現すれば、弱らずに済んだものを弱らされ、もっと普通に暮らせたはずの時間を奪われ、罹らずに済んだはずの肺炎で命を落としてしまった、死なされた(おかしな言い方ですが、少なくともガンを治療する(消し去る、縮小させる)ことばかりが優先されて、本人の人生が後回しにされ、死に向かわされたのです。あくまで受動的にです)のです。殺されたという言葉はやはり強すぎましょうか、医者にはそんなつもりはないのですもちろん、ただその人を思う気持ちに決定的に欠けているだけです、いやこのご本人がそう思っておられたか否か、ご家族がどう思っておられたか否かは別にしてもです。私は、医者に、現在の大嘘な標準的治療なるものに殺されたのだと認識していますが。ご本人にはお気の毒なことでした。ガンの見つかったことが不幸、症状のひどくないうちに見つかってしまった不幸。早期発見、早期治療のスローガンは大間違いです。ガンで死ぬ人は多いのですが、大半はこの作家のようなパターンです。治療によって弱らされ弱らされて、挙げ句、ガンとは関係のない病気で死ぬわけです。治療しなかったら、弱りませんから肺炎になんか罹りませんよ。ガンで死ぬとはどういうことだと思われますか?ガンが体中に回って痩せに痩せて食べられなくなって死ぬ。こうでしょう、そう思われませんか。でも、実際は違います、小さなガンが見つかって、手術して、抗癌剤を山と使われて、弱らされて肺炎やら他の病気を併発して死んでいっても死因はガンです。こういう理不尽が堂々と罷り通っているのです。素人の無知にあぐらをかいた専門医の標準的治療の大嘘さが大手を振って歩いているのです。では、私達はどう我が身を守ればいいか?ガン検診やら健康診断やらを受けないことです。いえ、徒に逆説を弄しているのではありません、まじめに言っています。症状のないものまで見つける必要もなければ、取り除く必要もないのです。この作家も、あくまで推測ではありますが、治療しなかったらおそらくこんなに早く死ななかったでしょう。途中あれだけしんどい思いもしなくて済んだはずです。何のための「治療」だったのでしょうか。ガンを小さくするためには本体を弱らせても構わないというこの前提を崩さねばならないのです。本人が死んでしまったら何にもならないじゃないですか、それでも治療だと強弁するわけです、医療界は。わざわざにガンを見つけに行くような事はしないでおきましょう。わざわざに医者に捕まりにいかずともよいことです。いえくどいですが、私は真剣に言っています。ガンにかかりたくなければ、医者にかからぬことです。
 作家本人は日記の中でこう述べます、医療的拷問の日々と。素人である妻も「副作用で体力が落ち」たと認識しています。でも、ここにはガンこそが元凶で、その治療のためであるからこういう副作用は受け容れなければならない、という強制的な共通理解が前提として存在します。私はこれこそが間違いだと強調しています。触らずともいいものに手を出して、ガンの悪さではなく治療そのものが悪さをして体力を、命を削っていくのです。強く憤りを感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足りぬもの?

2006-06-14 08:40:55 | Weblog
巨人、気の毒になってきました。あれだけ怪我人が出たらさもありなんではあるのですが、しかし今まであれだけ金にモノを言わせて四番だけでなくあれこれ節操なく掻き集めてきたチームがこの体たらくですから、同情も半分以下ですか。どんな補強だったの?と笑われます。清原、江藤、ローズ、元木、後藤、川相・・もちろんこの連中がいたとしても変わらなかったでしょうけどね。軽くなりすぎましたか?重さに負けた堀内さんの皮肉が聞こえそうですな。
 ブラジルとクロアチアの試合をダイジェストで見ましたが、あらら、こりゃあ完全に負けだわ日本。まぁ、凄いシュートの連発。えげつないチャージ。こうやって嫌と言うほど世界のレベルを見せつけられると、日本に何が足りぬのか、何が間違っているのかよくわかります。一にスタミナ、二にシュート力(決定力)、三にスピード。四は、言ってもどうにもなりませんが体力差(体格差)。五は、直接選手に関わることではありませんが、日本人(マスコミ)の懲りない夢想体質、現実から離れよう離れようとする根拠のない優越意識。それこそ戦時中の神国日本思想と変わりません、未だに若いTVキャスターが言っていますよ「神風よ吹け」って。全く馬鹿馬鹿しい。まぁ五はさて措いても、一から四まで、何のことはない今から新しいチームを作りましょうなんて考えるその辺りの中学校の新任コーチの走り書きですよ。才能のある体の大きな選手を集めて、フィジカルにもメンタルにも鍛えていく。これ、私でも考えられますよ。ひょっとしたら、日本のサッカーは国見やら市立船橋やらの高校レベルの練習しかしてないんでしょうか。上に上がれないのはそんな極々単純な理由なのかもしれませんね、いや世の中はえてしてそんなものです、小理屈こね回すだけで現実を掴めない輩がトップに立つと組織は停滞衰退するばかりですから。で、何をどうやっても四が原因で勝てないとわかれば、撤退ですな世界から。国内で「体重別」にやればよろしい。オリンピックも同じ事です。参加することに意義がある、なんてさも世界平和の象徴、世界のコンセンサスのように喧伝されますが、これとて大プロパガンダでしょう?そして、最近はより直截に利益を誘導します。高邁な精神では大会は運営できないわけです。そう開き直っているなら余計に、わざわざ負けに行くような無駄(国費、税金でしょう?遠征費の類は)をするなとなるんでしょうが、かたやで利益のためなら何でもありでもあるわけです。選手連中も割り切っていましょうしね。ううむ、美しいばかりではなさそうですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空気を読む

2006-06-13 08:39:17 | Weblog
たった今、NHKで広島音戸の渡し船の映像が送られています。大きな音戸大橋があるのに、未だに渡し船の需要がある、そしてちゃんと供給されているという話題です。高校生の通学の足だそうです。片道大人70円だそうです。ううむ、新幹線ができると途端に在来線を一気に間引く、そこの需要自体には何の変化もないのに(新幹線ができたところで、日常生活には何の影響もないわけです、当然)コスト勘定だけで地元を振り回す。そして地元トップ(首長)連中は皆揃いも揃って、代償としての補助金(泡銭!)に目が眩む。そういうありふれた「破壊」構図に対する皮肉と思いました。此の地でも大島大橋ができて、渡し船(フェリー)が二つとも即に廃止されました。併存させるほどの需要がないという計算です。それは事実だったんでしょうね、音戸のような島側の需要に乏しいですから。こうやって、余所と比較しての不便さに拠った大きな便利が生活に見合った小さな便利をなぎ倒していく。そして結果、より大きな、その地にそぐわない不便不都合をもたらしていく。やはり、利便性の名を借りた破壊でしょうね。そう思います。
 サッカーの話をします。後出しのじゃんけんなら誰でも勝てます。元日本代表とやらのコメンテーター連中の口の軽いことはどうです?負けた原因を滔々と喋っています。最近よくTVに露出している中西某にいたっては、一年前まで遡って非難していました。よく言うよ、ではありますが、所詮外野にいる者です、チームを動かせるのはジーコだけです。で、戦術やら戦略やらを批判します。自分のキャリアがそうさせるのでしょうね。どうですかねぇ、聞きづらいばかりですよね。連中恥ずかしくないんですかね。私の様な素人目にも、昨日の負け試合はいつもの日本の負けパターンと思いましたよ。後半にぱったり足が止まる、気がそれる。攻められてばっかりですからディフェンス陣の粗さが目立ちますが、よう攻めんのです。気合いが続かんのでしょうか。戦術が戦力がというレベルじゃないんじゃないですか。向こうの2点目のシュートの凄いこと。あんなシュート日本人が打てないでしょう?で、すっかり戦意喪失している(ように見える)。違いますか、私のこの判断は違っていますか?ううむ、諸兄、この世の中には大本営発表が満ち満ちています。根拠のないバカ騒ぎに与してはなりませぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の壁

2006-06-12 08:37:45 | Weblog
サッカーファンの方々には気の悪い言い方で申し訳ありませんが、日本は新聞の言うように、TVがバカ騒ぎするように、本当に勝てるのですか?ブラジルに勝つって本気の沙汰ですか?一次リーグ勝ち抜けるのですか?今日から試合が始まりますから、ぐじゃぐじゃ言わんでも結果は出るのですが、ドイツやらイングランド、メキシコ、アルゼンチンなどなど見ているに(かく言う私も少しは見ています)凄いスピード、すごい個人技。あんな速さが日本にありましたか。あんなチャージに、あんなでかい連中のチャージに対抗できましたか。吹っ飛ばされるんじゃないでしょうか。もちろん向こうは吹っ飛ばしに来るんですが。ううむ、バレーボールしかり、バスケットボールしかり、サッカーしかり。バレーボールはあれでも栄光の歴史がありますからね、世界で日本とソ連としか本気でなかった時代の栄光ですが。キューバやらイタリアやら中国やらアメリカやら、一回りも二回りも体の大きい連中が真剣にやってきたら、相手になりません。バスケットもサッカーも、そういう歴史すらありませんが同じように世界との差は格段に大きいのではありませんか?どの報道も大本営発表でしょう。そして挙げ句は、頑張れ頑張れ、負けても胸張って帰っておいで、なんてね。負けることを十分に想定して、ちゃんとセーフティーネットを張り巡らしてあるわけです。過去の成功事例に依存拘泥して、周りとの比較能力に大きく欠けるのが、日本人の特性でありましょう。これは歴史に多くの前例があります。日露戦争勝利以降、昭和20年終戦までの一連の経過もそうです。スポーツで言うなら、長嶋ばかりに依存してきたプロ野球、若貴時代のバブル感覚から抜けられない大相撲、昭和20年前後の全盛期(古橋、山中など)の根性物語から離れられない水泳界、柔よく剛を制するのは、剛があまりでかくないうちのことだと思い知った柔道界、敵はソ連ばかりと思い込み、体の大きい連中がくるくる器用にわざを決めるのを見て、スケールの違いは見栄えの違いだということに知らぬ顔を決め込んだ体操界、地元で国体が開催されるときだけ各地に分散しているスポーツ選手を掻き集めて開催県の体面ばかりを繕おうとする各自治体スポーツ界。比較能力が欠けるだけでなく、抜きがたい前例至上主義も加えねばなりますまい。
 いえ、サッカーの話でした。えらいスピードで走り回る190cm超の偉丈夫連中相手に、さて我が日本はどう立ち向かうか。ぴりりと辛い山椒がうまく剛を制する事ができましょうか。そんなに話はうまくないでしょう?私はそう思っています。すみません、水を差します。ごめん下さい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする