柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

反論

2011-06-20 08:00:56 | Weblog
昨朝のTBS情報番組でコメンテイターが言ってました、日本は広島長崎の経験と水俣の経験を世界に示さなければならないのに、この為体は・・と。被爆国としての経験、つまり原爆投下後どういう事態になったか、どういう処理をしてどういう経過になったか、それを爾後どう生かしているか。もう一つは水俣だと。こっちは一企業の環境汚染に対して事態を過小評価して、隠蔽を重ねて最後に真実を認めてという対応のまずさの経験です。一企業と言いますが、当時のこのチッソ会社は日本が右肩上がりに経済発展する(日本中であらゆる産業が煙を上げてフル操業している時代です、環境や労働条件やらは後回しの時代です)中でのいわば基幹工場の一つ、地域の雇用の場としても重要なものだったのです、そう東京電力と同じようなポジション。つまり反省が足りないと言うわけです。検証が何もなされてない。犯人捜して罰して賠償してそれで終わり。過ちや災難から何も学ばない。爾後に何も役立てられない。いつも同じ過ちを繰り返す。そういう非難です。なるほど。その通り。どうしましょうか。ここなんですけれど、ここには言及なかったです。尤も言及した所でごくごく当たり前の抽象論だったでしょうけれど。こういう時にびしっと(こういうところは欧米は追及が厳しいですからね)できるようなら何度も災いが繰り返されはしまいという話ではあります。これが日本人の特性なんです。犯人を見つけて、その上司や責任者(実は何も知らない奴らです)の首を切って、チョン。こっちが切る前に早々に連中辞職します。事件そのものが闇に葬られます。武士の情けとか死者に鞭打つなとかそういう言葉でごまかされます。アメリカの司法取引なんて制度は、傍から見ているとそんな甘い・・と思ってしまいますが、洗いざらい原因を喋らせるためには必要な手続きなんだと知ります。そしてそこで失脚した筈の奴がいつの間にかどこかに復帰して、またまた同じような失敗をやらかす。末期の日本軍の組織的欠陥として(敗戦の重要な要素として)よく挙げられる点ですが、そのままどの分野のどの事例にも当てはまります。何かあるとそこの偉いさん達が(当事者じゃなくて)揃って頭下げてる、あの絵です。あれはマスコミとの予定調和に過ぎぬのですが、あれで終わってしまうから、被害者も浮かばれないし、何も残らないというわけです。ですね。その通り。どうしますか?法律で縛りますか、欧米のように。まずはそれからでしょうか。トホホではあるのですが。
 その広島長崎の経験の話題で、昨日の中国新聞に論説主幹さんが稿を載せてます。中国新聞は反核、被爆者支援新聞ですから、こういう話題は執拗です。でも、論はなんだかペラペラの抽象論です、がっかり。日本被団協の方針も引いてます、これじゃぁ市長さんのあの発言に対する反論にならないですぞ、そんなつもりはないと言うんでしょうけれど。原爆落された国なのにどうして原発がこんなに多くあるのか。こう書き始めて、反核と言うと欧米では反原発を含めることが多いが、核の軍事利用と平和利用は別物だと言い続けられて安全神話が生まれて、メディアが後押しして、でも昔から反対していた人はいたと紹介します。放射能の怖さを知りながら二つの間に橋を架ける想像力も努力も足りなかった、と〆ます。あらら、なんて陳腐な。こんな総論ならもう出尽くしてますよ。この時期に仰々しく主幹様が述べられる内容ではなかったですか。しっかり市長に反論してもらいたかったことでした。
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