柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

神隠

2016-03-29 08:20:35 | Weblog
中二生女子の監禁事件、昼のワイドショーが、夜のニュース番組が採り上げます。今朝の全国紙のコラム、3紙が神隠しを話題にして、柳田国男の民話を引いてます。うむ、神隠しか。そのコラムにもありますが、神も妖怪もその居場所を失った(漆黒の闇のなくなった、夜のなくなった)現代において神隠しもクソもないのですが、こういう時にこの言葉が出てくるということ自体、ヒトは(日本人は)こういう作り話にいかに諦めてきたかという文化論が展開できそうです。天狗が連れて行く、何年も経ってふらりと現れてまた消える、そういう怪奇譚。天狗に連れて行かれたのでは仕方ない。のです。いつかまた現れるだろうという期待。それまで待つしかないという諦め。そういう考え方が当たり前だった「未開」。夢とかロマンとか、それは現代からの見ての言わば蔑みです、電気も何もない時代にあればその時代なりの社会規範慣習通例があったわけです。例えば乳幼児死亡率(これも現代の用語です、当時にそんな概念はないでしょう)が非常に高かった時代においては、7歳までは神の子だと呼ばれていたそうです、つまり生き残るも死んでしまうも神の思し召しだという考え方。死んでも悲しむな、ですねつまり。病死であれ、事故死であれ、神隠しであれです。乱暴。確かに乱暴ですが、そう思いきって明日に向かう。だから多産だったのだという理屈です、多死だったから多産で補うという大なる力。だから日本人は絶えず続いてきた、それは世界中のヒト種に通じましょう。種を絶えさせぬ為の維持装置、概念。誰かが攫ってるんです、それしかないし、事実私達も子供の時分に夜遅くに寝ないでいると年寄りから人攫いが来るぞ(サーカスに売られるぞ、とも)と言われたものです、現実問題そういう事態も認識されていたのですが、一方で歴として言い伝えられる神隠し。不可思議不可知に放りこむのも処世術の一つなのであります。感じ入ることです。
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