朝青龍事件(私もしつこいですが)北の湖理事長がモンゴルでの治療体制の調査を指示したんだそうです。どういうことでしょうか、そこまで過保護でいいんですかね、それとも仮病を逃がしたとあっては沽券に関わるということなんでしょうか。突き放しているのか、それともまだこの男にすがりつこうとしているのか。もっとも、モンゴルに帰ってしまえば彼は英雄だそうですから彼に不利なこと誰も言いはしません、重症のストレス障害だ、なんて事をしてくれたんだ、なんてね。それこそ人権がどうのこうので逆襲をくらって、モンゴル対日本という図式になって、貿易摩擦ひいては六カ国協議にまで悪影響するのはまずいなんて「政治判断」で、どうぞゆっくりご静養下さい、お治り遊ばしたらどうぞ戻ってきてください、あなた様は大横綱ですからってね。あるでしょう?この線が。相撲協会は間に入ってオロオロ、というかこういう風に問題大きくなった方が知らん顔できていいとでも考えますかね。しっかりしろよ!元大横綱様。
元西鉄の豊田が日経新聞のスポーツ欄にコラムを持っていて、この人の話は切り口鋭くて面白いんです。先日は技術を如何に盗むか、どう伝えるかということについて書いています。昔は情報も少なく、一枚の写真からああだこうだと推測して真似したものだ、今は動画など伝達手段に溢れていて格段と容易になったはずだが、それでも落とし穴はまだ大きいのだと。泳ぐとかつまるとか、言葉が感覚的なものに留まっているから共通に議論しにくいのだと。ううむ、思わずにやりとしました、かの有名な昔のTV野球番組(ミユキ野球教室、日曜の朝9時半でしたかね)での長嶋のバッティング指南を思い出したからです。自分でバットを振りながら、こうやってですね、腰をこう入れてですね、ブーンと振る、来た球をこうやってバーンとはじく感じですね、と大まじめでレクチャーです。わからん、つうの。原もその昔(きっと今も)同じように言ってましたね、動作も全く同じに。これじゃぁ伝わらないという論です。賛成です。見ている分には面白いですが、聞く方はわからんでしょうねぇ。最近よく見聞きしますね、職人技とされてきた技術、一身専属とされてきた技術を数値化する、データ化する、それをコンピュータ処理する、一般化するといった手順。高品質製品を大量に生産できるというわけです。人の運動もこの手段で解析されていきます、走る歩く坐る投げる飛ぶ泳ぐ、全て数値化します。人を機械と見るわけです。でも、一番根本の部分が知らん顔されています、才能です。数値化できないからですが、データ通りに足を動かして手を振ればカールルイスになれるかの如く、皆イチローになれるが如き錯覚。データ見て感心するのはいいです、でもやれというのは無理なことです。できない、ことには何の変化もないことなんですから。彼我の差を数値で表されて「おかしな」納得するのはいいです、でもそれを知ったからと言って自分の運動能力が変わるわけでもなんでもないわけです。さよう、単に表現方法を変えているだけのこと(見た目と数字との差)なんです。それをまるで全てを変えてくれる魔法ように錯覚する、正確には錯覚させられる。これこそが落とし穴でしょうね。そう思うことでした。できない奴にはできないことなんです。その差を別表現しているだけのことなんです。
元西鉄の豊田が日経新聞のスポーツ欄にコラムを持っていて、この人の話は切り口鋭くて面白いんです。先日は技術を如何に盗むか、どう伝えるかということについて書いています。昔は情報も少なく、一枚の写真からああだこうだと推測して真似したものだ、今は動画など伝達手段に溢れていて格段と容易になったはずだが、それでも落とし穴はまだ大きいのだと。泳ぐとかつまるとか、言葉が感覚的なものに留まっているから共通に議論しにくいのだと。ううむ、思わずにやりとしました、かの有名な昔のTV野球番組(ミユキ野球教室、日曜の朝9時半でしたかね)での長嶋のバッティング指南を思い出したからです。自分でバットを振りながら、こうやってですね、腰をこう入れてですね、ブーンと振る、来た球をこうやってバーンとはじく感じですね、と大まじめでレクチャーです。わからん、つうの。原もその昔(きっと今も)同じように言ってましたね、動作も全く同じに。これじゃぁ伝わらないという論です。賛成です。見ている分には面白いですが、聞く方はわからんでしょうねぇ。最近よく見聞きしますね、職人技とされてきた技術、一身専属とされてきた技術を数値化する、データ化する、それをコンピュータ処理する、一般化するといった手順。高品質製品を大量に生産できるというわけです。人の運動もこの手段で解析されていきます、走る歩く坐る投げる飛ぶ泳ぐ、全て数値化します。人を機械と見るわけです。でも、一番根本の部分が知らん顔されています、才能です。数値化できないからですが、データ通りに足を動かして手を振ればカールルイスになれるかの如く、皆イチローになれるが如き錯覚。データ見て感心するのはいいです、でもやれというのは無理なことです。できない、ことには何の変化もないことなんですから。彼我の差を数値で表されて「おかしな」納得するのはいいです、でもそれを知ったからと言って自分の運動能力が変わるわけでもなんでもないわけです。さよう、単に表現方法を変えているだけのこと(見た目と数字との差)なんです。それをまるで全てを変えてくれる魔法ように錯覚する、正確には錯覚させられる。これこそが落とし穴でしょうね。そう思うことでした。できない奴にはできないことなんです。その差を別表現しているだけのことなんです。
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