柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

手続き

2007-09-30 12:11:33 | Weblog
ミャンマーの邦人カメラマン「流れ弾でない至近距離」射殺事件、いかがですか。外相が、流れ弾ならいざ知らずといった趣の憤りを述べています。現在のミャンマー政権に対する「平和的」デモ、しかも当地では位の高い僧侶達がデモした、それを有無も言わさず弾圧しているという図柄、まずそこを非難して、次にどうして至近距離から、つまりどうしてわざと、しかも関係のない人間を撃とうとして撃つのか、という非難です。そうですよね。邦人(自国民)に対する他国の故なき無体には厳として抗議対応するという大見得(スタンドプレー)には一応肯きますが、でもこっちであれば北朝鮮の拉致問題へのとんでもない弱腰はどうなんだ!?という数百倍の反撃喰らいましょう。彼の地の軍事政権が如何に独裁であれ、スーチーさんの長期軟禁という共産国さながらの時代錯誤が横行している地であれ、余所の国が口挟むは要らぬお節介にすぎぬのです、今後どう展開していくかはいざ知らず(この揺らぎから現政権が崩壊するかも知れません、スーチーさんが首相になるかも知れません、不屈の民主化の象徴として)、ソ連やポルポト、中共の天安門事件、北朝鮮と歴史上の前例はうんとあります。高村さんが胸張って憤りを表明しても、向こうの外相が悪かったと言えばそれで終わりです。死んだカメラマンですか。あんな所にあんな軽装で無防備に出ていく事自体おかしいですよね(サンダル履きだったでしょう?)、あれがいつものことだったのなら余計にです、慢心過信でしょう。自分は撃たれない、自分は死なないという過信。違いましょうか。末端の兵士に高い倫理感やら規律やらを期待しているのですか。日本兵の悪行とやらをあれだけ言挙げし口を極めて非難するのに、こっちの兵隊は紳士だとでも言いたいのでしょうかね。上から命令されて、あいつら(デモの連中)を追っ払え、一人二人殺しても構わん!なんて送り出されて来たんでしょうに。で、目の前にカメラもった外人、プレスとわかる格好ならいざしらず、普通の半袖シャツ羽織ったサンダル履きがうろちょろしている、くそ!邪魔な奴!ズドン。あり得る話ですわ。こんな端々の、殺気だった場面に、どんな倫理観を要求しようとするのでしょうか。外相同士、首相同士の、国と国の間の手続きとしての非難にすぎません。手続きといえばこれもそうでしょう、日本新聞労働組合連合が「虫けらのように記者を射殺し、言論を抹殺するミャンマー軍政の暴挙に対し、厳重に抗議する」そうです。言論の抹殺?馬鹿馬鹿しい。あの兵隊はそんなこと考えてませんよ。長崎市長射殺事件が民主主義への挑戦に化ける、あれです。茶番ですね。このカメラマンには気の毒でしたが、本望でしょうに。全面的に自己責任問題です。そう思います。
 沖縄、すごいこと11万人(全人口の一割ですって)集めたんだそうです。教科書検定、集団自決は軍の強制だったという文言の削除に対する抗議集会(県民大会)です。すごいなぁ、11万人です。比較が不遜ですが、ウッドストックか?ってツッコミです。サイモンとガーファンクルのセントラルパーク、ローリングストーンズのハイドパークのライブもびっくりです。朝日と毎日が大きく一面トップです、そうでしょうねここは本家の登場です。県議会が主催するというのもへぇ~と思う一因です。この話題も何度か書いてきましたが、よく国やら権力側が使う方便で定義云々があります、決してごまかそうとするのではなくてでもやはり強制の意味をちゃんと定義しないと話が浮き上がってあらぬ方向に進みます。手榴弾による自決を強制されたという訴えです。今朝の毎日新聞にもありますが手榴弾を役場で渡されたとか、軍の玉砕命令が(住民に対して)出されたとか、あるいは軍人から手渡されたとか(広く知られている事です)、そのことをもって「日本軍の関与は覆い隠すことのできない事実」と沖縄知事は言い、「正しい過去の歴史認識こそが未来のしるべとなることを知るべきだ」と那覇市長が言い、高校生に「うそを真実と言わないでください」と言わせます(毎日)。手榴弾はまぎれもなく日本軍から渡された、民間人の手に渡らなければ集団自決はなかったと確信している、との生き抜いた人の証言を載せます。私の知識はおそらくなまなかなものでしょう、本で読んだだけですから、それをお断りしておいて、軍の命令を否定する学説もあるという事実も一考に値すると思っています。そのままにいれば米軍に殺された、でも日本軍に逆らえば日本人に殺された、という話も知っています。守ってくれると信じていた日本軍に略奪され無体を強いられ反抗すると殺されたという話も知っています。米軍ではなく沖縄の人達にとってより身近な敵は日本軍だったという話も知っています。が、戦後沖縄タイムスやら大江健三郎らによって名指しで非難された軍責任者の無実を(無実かどうかは別の判断です、事実に誤りありとの指摘というべきでしょうか)曾野綾子をはじめとして多くの証言が裏付けていることは現実です。具体的に個人名を出すと、具体的に検証できると言う理屈です、この人が一体どういう人だったのかという検証になります。端々の無体の責任は総括者(部隊長なり師団長なり)のものですが、その人の命令かどうかは別問題です。一言も弁明せず粛々と罪を被った長もいたに違いないのです。そういう人の名誉は回復せねばならぬのです。ただ端々の一兵士にまで軍規なり命令なりが届き且つ守られていたかどうか。所詮はその個人個人の素養知識品性人格によることです、その場でどういう兵隊に誘導されるか、確かに怖ろしいことですがそういう運命でもあったのではないですか。天皇陛下絶対の教育の元、軍隊の支配下(強制下と言ってもいいでしょう)にあった日常という環境は、沖縄だけが例外じゃありません、日本中がそうだったのです。軍隊に歯向かえば日本軍(日本人)に殺されたのです。手榴弾が民間の手に渡ることに軍が関与しないわけがありません、そんなことは私のような暢気な余所者でもわかる因果です。そこをまで否定しているのではないです教科書検定は。そこが大きく膨らみすぎて(平和問題にすり替えて)、沖縄ばかりに負担を強いるな、沖縄から基地をなくせ、の方向に行く、というか持っていきたい恣意ですね。この膨らみ具合を見て思うのは、そしていかにもマスコミ受け、大向こう受けを狙った高校生の発言を聞いて思うのは、機に乗じた団体示威行動という本音です。もちろんこんなことは裏読みでも深読みでも何でもない、そのまんまの解釈なのかも知れません。でも、沖縄に生まれ住み生きるということは、そういうことなんじゃないかと思うのです。それぞれの歴史の上に今の暮らしがある。私達は今この時を生きていくばかり。そしてその先には連綿と時間が続いていく。今、比較すればのほほんと事なく暮らしている者が言えたことではないのでしょうが、その地に住んでいる生きていることはその地の歴史を思わず踏みしめていることです。現代、現在の環境の物差しで当時を測るは間違いです。高校生辺りの年回りの子供にそういう要求はとてもできません。おそらく才気煥発の二人を選んできたのでしょうが、可哀想だ、信じられない、あり得ない!なんて感想が関の山でしょう、年端が行かぬということはそういうことですから。原爆記念日に子供に喋らせるあれと同じ、ただの演出です。主催者の恣意でしょう?
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« らしさ | トップ | エネルギー »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 (koneko)
2007-10-06 09:52:39
まったく同感です。前半普通の人の普通の感覚だと思います。(海外暮らしの経験からも鑑みて)
沖縄の件 昔45年前私もそうだった。
若者は正義感でしか見えませんからね。普通の人の普通の感覚私普通のおばさんです
返信する
koneko様へ (書翰子)
2007-10-07 18:09:53
御意見有難うございました。45年前の私、と書いておられます。どういう環境にいらっしゃったのか、どうお考えになっていたのか。私は齢やっと五十に達した若輩、岩国は近接する町ですが基地の「被害」は騒音や治安など全てに渡り実感がありません。私の書きなぐっていますものは知識を入れ私の頭で考えただけのものです。具体的な経験や実際の迷惑に基づいた意見ではありません。ですから正味の所を知りたいと思うのですが、深読み裏読みの独善の嫌いは否定できません。御批正を乞うわけです。今後ともよろしくお付き合い下さいませ。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事