柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

社会の安寧

2007-01-19 08:41:49 | Weblog
星野監督に決まりましたねぇ、北京五輪。最後の五輪ですから、金金と例によってマスコミはステレオに煽ってますが、五輪競技から外されると言うことは world-wide でない、ローカルな競技であるという証明ですからね、テコンドーやら何とか言う足でやるバレーボールみたいなもんです、ヨーロッパ人から見れば。最後の華には適当な人選ではありましょう(というか他にいません)。
 三歳児投げ捨て事件、マスコミの糾弾(集団暴力)の切っ先が鈍いですね。加害者が知的障害者だからでしょう。強者に弱く、物言われぬ一般人に傲慢なほど強く、自分たちが勝手に作った「弱者」には弱い弱いのがマスコミですから。これは「強きをくじき弱きを助く」正義の味方セオリーとは違います。弱きを特別視する、弱きを免罪する、弱きを権力化する、そして自ら弱者を名乗り居丈高に権利要求する、このいわば権力闘争です。社会弱者なんて都合のいい言葉を作ってその陰に隠れる。大きな盾を作ってその後ろから大勢で(匿名です、もちろん)叫ぶ。責任をぼやかす。子を投げたのはこの男です。社会生活上危険な人間です。しかも初犯ではないようです。どうして糾弾しない?社会的に葬ろうとしない?一般人であれば強烈に叩くくせに、です。矯正不可能でしょうに。確かに法律の壁があります、故意のあるなしと心神喪失・心神耗弱。人権弁護士の大好きな抜け道です。そして、大概こういう例は裁判官は前例に従うばかり、結果は見えています。つまり社会の危険は放置されるわけです。障害者の人権が守られて一般人は害を被るばかりです。それでいいとされています、障害のある者がそうでないものから迫害されないような装置のつもりなんでしょう。差別というのは人の社会では必ず生ずるものでしょう、謂われのあるなしに関わらず。ナチスは極端な犯罪ですし、私達の親の世代の話を聞いてもびっくりすることですが、でも社会生活の安寧は個人の放恣に優先することでしょうし、個人の権利(こういう言い方をするから好き勝手な拡大解釈が罷り通るのですが)を制限できるものではないですか。極端はいけません、もちろんそういう留保付きの話です。でも今はそういう極端(危険の排除、消滅)の、逆向きの極端に針が振れていませんか?すべてを差別という言葉に括って、差別廃絶を叫ぶ、弱者救済を騙る。化石のような正論の前に一般人は黙る。それはそう思うけれど、という常識なり思いやりが皆にあるからです。そこにつけこんでいるのです。そして白のものを黒にしてしまう拡大解釈の雨霰。実効性から大きく外れた概念、空論になっているのです。そこに気づかなければならないと思います。社会の安全は個人を制限するはずです、そう思います。
コメント
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