拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

江戸川の成り立ち

2024-08-23 13:00:49 | 地理

江戸川は妬ましい河である。「妬ましい」と言っても、やっかむとかそういう意味ではない。「ニーベルングの指輪」でジークムントがヴォータンの遺した剣を「ein neidliches Schwert」(妬ましい剣)と言った場合の「妬ましい」と同義、つまり、憧れるがなかなか手に入らない、そう言った意味合いである。そう、江戸川は私にとっては渡りたくて渡れない河=妬ましい河なのである(とか言いつつ、トム・ソーヤーがこっそりミシシッピ川を渡ったごとく、ワタクシもときどきこっそり江戸川を渡っている。写真はそのときのものである)。

その江戸川だが、元は利根川の本流だったとか(それは中川のはずだが……)、渡良瀬川だったとかいろんな情報を目にする。川づいている今こそ突き詰めるときときである。江戸川の成り立ちは利根川の東遷と密接にかかわってるぽいが、それこそこの一週間ずっと調べていた事であるからその延長戦の趣である(甲子園の決勝も延長戦に入った)。分かった(つもりになった)ことは以下のとおり。時系列で見ていこう(以下、能書きは江戸川と利根川に絞る。荒川や中川については数日前のブログに随分書いたので割愛する)。

江戸時代の前、利根川が東京湾に注ぎ荒川がその支流だった頃、渡良瀬川(中流では権現堂川、下流では太日川と呼ばれていた)は独立した河川で東京湾に注いでいた(下図)。これが江戸川の原型である。

江戸時代に入り、利根川の東遷事業が始まった。手始めに新川通が開削され、利根川と渡良瀬川がつながった(下図)。これにより、利根川の本流が渡良瀬川に流れ込み、後に江戸川となる河道は一瞬、利根川の本流となった。渡良瀬川は利根川の支流に成り下がった。

続いて、赤堀川が開削され、利根川は、銚子沖の太平洋に注ぐ常陸川とつながり、利根川本流の河口は銚子沖に付け替えられた(下図)。これにより、銚子と江戸は水路でつながり物流ルートが完成した。

その後、利根川(赤堀川)と太日川のショートカットたる逆川が開削され、それまで江戸川と太日川をつないでいた権現堂川は廃止された(下図)。こうしてできた利根川と東京湾を結ぶ河道が現在の江戸川である。

そして、昭和に入ってから、各河川の河口付近に放水路が作られた。江戸川にも放水路が作られ、それが本流となりそれまでの流れは旧江戸川となった(下図)。

以上である。短い期間であったが利根川の本流となった時期もあるし、利根川東遷後も、銚子と東京を結ぶ大動脈たる水路であるからして、ますます妬ましい河である。東京都と千葉県を分かつ境界の役割も担っている。「江戸川」という大層な名称も伊達ではない。なお、神田川もまた「江戸川」と呼ばれたことがある。東京都文京区で神田川に架かっている橋が「江戸川橋」と呼ばれるのはそのためである。