拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

春のうららの隅田川ってどの川?

2024-08-19 09:51:53 | 地理

ウチ(現住所=足立区)の近所でそこそこ立派な邸宅は大抵盛り土の上に建てられている。

これは洪水対策だろうか。ここら辺は中川と綾瀬川(もちっと先に行くと荒川)に挟まれた地帯で、水害がいつ起きてもおかしくない。「綾瀬」という地名だって、いかにも水が出そうな地名である。さて、その中川なのだが、「中川」のほかに「新中川」と「旧中川」がある。荒川にだって「元荒川」がある。そもそも、ここいらの川(東京湾に注いでる川)は古代から現代にかけて大変遷があったそうだが、その内容は複雑怪奇で一朝一夕には理解できない(私の頭脳では)。とりあえず、分かったつもりになったところだけでも、次に疑問に思ったときまた一から調べ直す煩から逃れるためにメモっておこう。冒頭の図(例によって超簡略化したから向きはまったく正確ではない)を参考にしつつ読んでいただければ幸いである。

【昔昔の物語】昔、昔(Es war einmal)、利根川は東京湾に注いでいた。荒川は利根川の支流だった(利根川と合流していた)。すなわち、現在の元荒川を通って利根川に合流していた。つまり、利根川と荒川の二台巨頭はかつて連合軍を構成していたのである。そして、現在の隅田川には入間川が流れていた。つまり、現在は荒川の一支流である入間川は、昔は列記とした独立河川だったのである。

【江戸時代の二大改修】その後、江戸時代に二つの大改修が行われた。一つは利根川の流れを東に変えて、銚子先の太平洋に注ぐようにしたこと(利根川の東遷)。もう一つは、荒川の流れを西に変えて、利根川ではなく入間川に合流させたこと(荒川の西遷)である。これにより元々の入間川の下流が荒川になり、独立河川だった入間川は荒川の支流になり下がった。母屋を後から来た荒川に横取りされ、それまで大名だったものが家来に格下げになったごとしである。そして、それまで利根川の本流だったが東遷により本流でなくなった部分が古利根川となり、荒川の本流だったが西遷により取り残された部分が元荒川となって、そのいずれもが中川に合流している(中川の支流となっている)のが現在の姿である。だから、現在の中川の流路はおおよそ東遷前の利根川の流路であり、その全部を「古利根川」と言ってもよかったところだが(東遷前の利根川全体をこう呼称する場合もある)、東遷した「利根川」が存在するせいだろうか、「古利根川」は中川と合流するまでの名称にとどまり、「中川」が元の利根川の屋台骨を背負う名称となっている。なお、利根川東遷以前、利根川は亀有付近で二つに分流し、そのうち東側の流れが「中川」と呼ばれ、西側の流れが「隅田川」(現在の「古隅田川」)と呼ばれて現在の隅田川につながっていた(後で再説する)。後者が東遷前の利根川の本流だと書いているものもある。

【荒川放水路】明治以降は、大河川につき放水路が作られた。その最大のものは荒川放水路である。荒川(西遷後の荒川=元の入間川)の下流部分の治水対策として、北区の岩淵水門から東京湾に至るまで掘削が行われ、そこに荒川の水を分流させたのである。古い地図はこの水路を「荒川放水路」と記しているが、現在はこちらが荒川の本流であり(だから「放水路」がとれている)、従来の荒川のうち分流地点より下流の部分(「大川」とも呼ばれていた。初代ゴジラが東京を壊した後に海に帰るとき通ったルートである)が「隅田川」になったのである。さらに、この荒川放水路は途中中川を突っ切ったため中川が分断され、分断されて取り残された部分が「旧中川」となった。

【その他の放水路】放水路は他の河川にも作られた。江戸川(もとは渡良瀬川の下流であり太日川と呼ばれ東京湾に注いでいた。利根川東遷事業により渡良瀬川は利根川に合流し、太日川は利根川の支流となって江戸川になった)にも河口付近に放水路が作られ、そっちが本流となり以前の流れは「旧江戸川」になった。因みに、江戸川は東京都と千葉県の境を形成している。ワタクシが超えたくて超えられない川である(とか言って、ときどき内緒で超えている)。
中川にも放水路が作られたが、こっちは本流とはならず「新中川」と呼ばれ、旧江戸川に合流する。中川の本流は、荒川放水路に突っ切られた地点からしばらく荒川と並行して南下し、最後の最後(河口近く)で荒川に合流する。荒川と並行する部分がかなり長いから荒川水系と思いきや、中川は利根川水系である。中川の分流の新中川は旧江戸川に合流するが(上記)、その旧江戸川の本流(江戸川)が利根川の支流だからである。

【綾瀬川】ウチの近所の綾瀬川は、近年は日本一汚い川の汚名(なんでも一番になりなさい、という言に従えばこれも「勇名」である)を負っているが、もとは利根川・荒川の本流だった、などと書かれている。が、それは今の流れとは別の流れだった頃の話で、現在の綾瀬川は江戸時代に開削されたものである。途中から荒川と並行して流れ、荒川と合流しそうなところに中川がやって来てそっちと先に合流する。

【古隅田川】そして、いよいよ本日のメインテーマである。現在の隅田川は元々荒川の下流だったと書いた。が、上記した通り、東遷前の利根川が亀有付近で二つに分流したうちの西側の流れが現在の隅田川につながっており、それが隅田川と呼ばれていた。綾瀬駅付近の足立区と葛飾区の境が蛇行しているのはこの川の名残だという。その多くが消滅してしまったが、残っている部分もあって「古隅田川」と呼ばれている(同名の川は埼玉県にもあるので区別するために「東京」「埼玉」の括弧が付される)。ほとんどが暗渠だが、綾瀬川を開削した際に分断された部分が小菅の拘置所のあたりで顔を出していて、その傍らが遊歩道になっている。そう言えば、漱石の小説の中に「舟で綾瀬まで行った」旨の記載がある。その頃はまだ現在の隅田川とつながる流れがあったのだろうか。すると、滝廉太郎の♪はーるのー、うらあらあのー、すうみいだーがーわー……の「すみだがわ」とはそっちの隅田川、つまり現在の古隅田川の可能性があるのではないか?と密かに思っている今日この頃のワタクシである。

【垳川】ウチのすぐ近くにあって、埼玉県と東京都の境にあるのでとりあげたが、横綱大関の話の中にいきなり前頭十枚目が出てきたような話である……いや、私が知らないだけで何か由緒があるかもしれない。例えば、やはり近所を流れる葛西用水などは、規模から言えば序二段程の小川だが、相当由緒がありそうである。しかし、今日はもう力尽きたから、調査は後日にすることにする。皆様、お休みなさい(まだ朝だけど)。



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